弁証法・・・

   

    
ところで漏れは廣松渉Love!である。
なぜかというと、漏れが唯一理解できたマルキシズムの解説者だからである。
廣松氏に出会う前、もちろん一通りの勉強はしたのだけれど、どうも単なるお話にしか思えず、特にマルクス主義弁証法というものは誤魔化しにしか思えなかった。なんだか自分だけ理解できない劣等生のような寂しい感じがした。
そんな迷える子羊を、弁証法をマッハ的認識論に、マルキシズムをその発展系に捉えることで救ってくれたのが廣松先生だったのだ。(そしてモヤモヤが晴れた頃には漏れの大学時代は終わっていた(^_^;))
 
しかしである。
 
その後も「学習する生活者」を続けるにつれ、なんでわざわざ「マルクス主義」を掲げなきゃいけないのか必然性がわからなくなってきた。
四肢的認識原理論と物証化基軸の社会学を組み合わせた実践論でOKなんじゃねえの?
それはもしかしたらマルクス主義なのかもしれないけど、わざわざマルクス主義だって宣言する必要はあるの?
マルクス主義を標榜すればマルクス主義の余計なドグマまで引き寄せちゃわね?
これは俗流解釈でこれは亜流でこれは修正主義で・・・って、歴史的に存在した「マルクス主義」から「ほんとうのマルクス主義」を救い出そうとする人がいるけど、大事なのは実践に役立つ理論であって、「ほんとうのマルクス主義」の研究なんてものは単なる趣味じゃん。マルクスに拘るのは過去の運動への郷愁と権威主義なんじゃねえの?
というわけで、廣松先生は偉大だと思うのだけれど、後継世代はマルクスの名まで引き継ぐ必要はないのではないか、ずっと疑問だった。
    
なんてことを小谷野さんのブログを読んでいて思いだした。
そうなんだよね〜まったくそのとおり。
なんだか余計なことのような気がするんだよね〜
漏れのマルクス懐疑はやがてヘーゲルってなに?へと発展し、最後は科学哲学にいっちゃった。ドツボ(^_^;)
しかし、結局最後までヘーゲルの偉さがわからなかったのは以前書いたとおり。
歴史的認識論として捉えるとごく当たり前のことを言っているように思えるし、歴史法則として捉えたらトンデモにしか思えないし、控えめに言って西欧キリスト教世界でのネオ神学だったんじゃないかと想像したが、もしそうだとしたらワザワザ東洋の日本人が勉強するまでもない気がした。
物理や数学は勉強すれば普遍的な価値をもつけど、物理学を学ぶためにアフリカ人からみた物理学史を勉強する必然性はないよね。
 
小谷野さんは日本文学研究家なんだけど、こういうことにも目端が利いてて嬉しくなる。時代性なんだろうか?
小谷野さんのいいところは、こういう言いにくいこと、保身から発言することに躊躇すること、言い切ることに勇気がいることをバシバシ書いてくれるところだ。
東浩紀はじつはバカなんじゃないかなぁ・・・というのも、漏れのような学識のない人間には言いにくいが、実は密かに感じていたりする。(バカかどうかと好き嫌いは別ね。漏れは東好き。柚姉とのやりとりサイコー)
でも小谷野さんが書いてくれるから、ああなんだ言い切っていいんだ、という勇気をもらえる。これが日本の言論空間をスッキリさせる。
日本の言論空間が澱んでいるのは、じつはこういうドブさらいを誰もやらないからなんじゃないかなあ。みんな仲良し商売の邪魔しないじぇね。
もちろん、小谷野さんとの意見の相違も多い。
たとえば漏れは近代主義者を自称しているけど、皇室を支持しているし、それを必ずしも矛盾とは思っていない。
だけど意見内容以上にその明晰なスタンスが気持ちよくてRSSに登録しているのだった。
   
追記)
ところで、サヨクにとって残念なことに?、最近の保守派は「天皇」抜きの保守が多い。
世の中の不平不満をぶつけるラスボスに天皇陛下をもってくるのは失礼な以前に素朴に間違っているよ。
そしてそれはサヨクのおつむの程度を限界づけてしまっている。
自分のためにもそろそろ天皇から自立したら?
追記)
なお、漏れもつねづね『島耕作』がのらくろに似ているとよく友達と話していた。
その社会的スタンスも含めてね。(ぽん引きの呼びかけは戦前は「大将!」、戦後は「社長さん!」(笑))
  

さてヘーゲル全体は分からないので、『ヘーゲル哲学入門』とか、金子武蔵の『ヘーゲル精神現象学』とかを読んで、だいたい私は確信したのである。ヘーゲルがインチキであるということを。歴史規則主義が成り立たないという批判に対しては、広松渉が『物象化論の構図』で反論し、資本制の中で人間は物象化するから規則性が成立すると論じ、これを読んだときはなるほどと思ったが、数年たって考えると、広松が無理やりヘーゲルを正当化しようとしたペテンとしか思えなくなった。
   
 ヘーゲルは、世界市民とか、弁証法とか、独自の概念を多く用い、体系性のある哲学を構築しようとする。というか、この世のすべてを体系化しようとする。だが、この世は体系化などされていないのである。ヘーゲル哲学が学問であるなら、反証可能性があるはずだが、そういうものはまずない。むしろマルクスのほうが、資本主義の最高発展段階において革命が起こるという理論が、ロシヤ革命によって反証されているのだから、まだいい。
   
 弁証法というのも、私には意味不明である。それは、学問の方法なのか、それとも…宗教なのか。実際にはこれも歴史法則主義的に使われているのみで、アドルノもそうである。
     
 アウシュヴィッツがなぜメルクマール的なのか、分からない。ではポル・ポトはどうなのか。スターリンはどうなのか。では遡って、ロシヤ人を恐怖に陥れたモンゴル人の世界制覇はどうなのか。要するにアドルノも、思いつきを言っているに過ぎず、「大きな物語」とかその手のヘーゲル亜流は、厳密な学問的考察には耐ええないものである。
      
 掛谷英紀氏は、未来予測性の有無によって学問の学問性を判定するが、私は人文・社会科学においては、それは当てはまらないと思う。ことがらはただランダムに存在するだけで、将来何が起こるかは予測できない。むろん、地球や宇宙があと何兆年もつか、というようなことや、ハレー彗星が次にいつ来るかとか、それは可能だが、人間の営みについては、学問として予測することはできない。学問にできるのは、せいぜい、過去において何があったかをより精密に確定しようとすることだけなのである。
         
 しかし、この世が無意味に存在していることに耐えられない者たちは、古代の仏教の末法思想キリスト教最後の審判に変えて、ヘーゲル的に、世界に意味を与えようとする「学問」ならぬ「思想」に縋って生きてきたのである。
         
 それは人間が、自身の生が有限であることに恐怖を抱いているからで、だからその生に意味を与え、世界を知の中に整理しようとするのだ。そのありさまを描いたのがハイデッガーである。
          
 日本では「近代的自我」などというわけの分からないものがあることにされているが、そんなものはない。フーコーが、人間という概念が消え去る、と書いたのも、ちょいとした気の利いた終わらせ方をしたに過ぎなかったのに、日本人は「おフランス」に弱いものだから本気にしている。実際には、自由・平等といった理念は、少しも衰退したり滅びたりしておらず、近代の終りなどというのは、まるで幽霊のように、え、どこにいるんですか見せて下さい、ほらそこにいるよ、俺には見える、はああなた精神科へ行った方がいいですよ、というようなものでしかない。
        
 だから呉智英の「差別もある明るい社会」というのは、近代が終わるならそういう社会になる、ということを示しえたものであり、長谷川三千子は近代を超える「人権思想」や「民主主義」の終焉を示唆している。ただしその時には、女の身で大学教授をすることなどできなくなるだろうけれど。
        
 まあしかしそういうことは『すばらしき愚民社会』にあらあら書いてある。なお私は近代主義者であるが、東浩紀は『郵便的不安たち』で「保守は近代主義ですから」とこともなげに言ったのだが、天皇制は近代主義ではない。 
          

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島耕作のらくろは似ている。のらくろははじめ一介の犬の兵隊の話で終わるつもりだったのが、人気が出たのでどんどん出世して大尉で除隊した。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/?of=5