奴国と狗奴国

ときどき奴国・狗奴国について考える。
どうしてこの問題はあまり話題にならないのだろう?
古代大型集落が発見されたなら邪馬台国と同時に奴国を疑うべきだろう。
 
・ 57年:奴国は漢に外交官=太夫を派遣し金印をもらう。★
・107年:奴国から「倭国王」スイショウ(帥升)が遣使朝貢
・172年:ヒメミコ生まれる。
・178年:倭国大乱。
・184年:ヒメミコ共立。戦争終わる。
・220年:魏建国。
・238年:ヤマトのヒメミコ(卑弥呼)がナシメ(難升米)を魏に送り倭国王と認められる。金印をもらう。★
・240年:魏皇帝、2代皇帝即位に際し出張所(帯方郡)から倭に人を送って倭国王認定を継続することを示す。
・243年:ヤマトのヒメミコ、太夫を魏に遣使朝貢
・245年:魏皇帝、出張所から倭に人を送り軍旗を与える。
・247年:狗奴国の副官クコチヒコ(狗古智卑狗)が朝貢するが卑弥呼の使者が邪魔をする。
      魏の大使張政が軍旗を携え倭国に至りナシメと会見。
・248年:ヒメミコ死ぬ。76歳。騒乱起こる。
・249年:ヒメミコを継いだトヨにより張政は魏に帰還。報告の中で狗奴国はヒミコ支持の奴国の南と報告。
・264年:狗奴国降伏。
・265年:トヨが晋に遣使。★
・1778年:志賀島で金印発見される。
 
奴国の位置であるが、志賀島がポイントになる。
志賀島海上交通の要所、安曇氏の聖地である。
安曇氏のネットワークは全国に連なる。
つまり地中海におけるフェニキアのような連合国家だったと考えられる。
奴国の官職名、シマコ、ヒナモリ(兕馬觚・卑奴母離)は、海上交通長官と都市長を意味すると思われる。
 
張政はヤマトの外交機関のある北九州大宰府あたり(伊都国)にしか滞在していない。
倭国の地理情報は伝聞で、前提として日本列島が東西ではなく南北に伸びていると想定している。
すると東南の奴国は実際には東北にあたり、出雲に比定できる。
 
というわけで、漏れの結論は、出雲=奴国。
 
最初は出雲の奴国が日本を統治していた。
大和は後から北部九州から瀬戸内海を領分として成長。
覇権を賭けて争うが決着付かずいったん休戦、ヒメミコを共立する。
だがヒメミコは勝手に魏に朝貢倭国王に認定される。
これでまた戦争となるが、こんどは奴国連合のうち出雲がはやばやと大和に帰順。
このときに多数の剣は大和に献上され金印は聖地に埋められた。
奴国の残りは東国を拠点に抗戦する。これが狗奴国と呼ばれる。
やがて古代の小田原攻めを経てついに陥落、大和による全国統一がなされる。
この報告に晋に遣使。
  
なお、そもそもなんで奴国は漢に遣使したのか?
それは軍事的な理由しか考えられない。
なんらかの危機があったのだ。
それは大和の前身たるある一族による大和平野の占領だろう。
そのヒーローこそイワレヒコ=神武天皇だっと思うが、それはまた別の話。。
  
追記)
さらにいうと、このあたりの史実が日本書記・古事記の神代記に残響している気がする。
出雲といえばスサノオで、スサノオ兵主神であり、
なんでスサノオが海を治めろといわれるかといえば、海人族だからでしょう。