属国の防衛革命

  

属国の防衛革命

属国の防衛革命

   
太田氏の移民万歳論は論理不在だな。英国に於ける移民受け入れの歴史にはなっているが、なぜ移民受入が良いことがあるのか分からず仕舞い。

『属国の防衛革命』という本を読んでいたら筆者の兵頭二十八氏が唐突に「欠史八代はシナ朝貢の隠蔽のため」という説を開陳しており、興味深かった。というのも漏れは相見英咲説を支持し、神武以下初期9人の”天皇”は実在したが倭国トップではなく、崇神10から倭国大王になったと考えているからだ。

紀元元年〜2世紀にかけての倭国連合国家であり、”天皇家”は対中貿易の実務を掌握した有力豪族だったが、必ずしも権力は確立していなかった。魏志倭人伝に市場を「大倭」を以って監督させた、とあるが、この役職を世襲していたのが天皇家である。初期天皇には「大日本(おおやまと=大倭)」が付く名が多いが、これは役職と呼び名が一体化しているのである。その後後漢の衰退に伴い貿易が細り倭国が内乱となったとき時局を収拾するために立てられた巫女さんが「卑弥呼」だ。卑弥呼の使命は対中関係を安定させ日中貿易を振興しその利益を各豪族に配分することであった。239年に朝貢したのはこのためだ。しかし魏朝は265年に滅亡し、280年には晋が中国を再統一したのもつかの間、中国大陸は混乱し、313年にはついに貿易ルートである楽浪郡自体が消滅してしまう。この混乱期に実力で倭国統一を果たしたのが崇神天皇であり、内政を安定させると直ぐに朝鮮進出したのは貿易ルートの確保のためだった。現代で言うシーレーン防衛みたいなものかもしれない。
さて、体制が固まったときに問題となったのが日本の歴史をどう認識するかであった。問題となったのが、最初期のヤマト国が中国に朝貢していたことだ。朝貢の事実は中国の日本侵略の口実になりかねない。しかし既に中国の正史に書かれたため無視もできない。
そこで卑弥呼についてはすっとぼけて一地方政権の話とみなし、日本国の正統は最初から天皇家であり、天皇家は中国に朝貢したことなんかありませんよ(それは本当だ)、としたのだった。この認識は恐らく崇神10の政権掌握時に確立されたはずだ。後年の日本書紀編纂時に初めて考えたものではない。であるからこそ607年に”聖徳太子”は「日の出る国の天子」を自称したのだ。そういう意味で「日本は反中国によって成立する」というテーゼは、天武の”日本国”以前に”ヤマト国”のときでも成立しているのだ。
      

1  神武                         8 前漢滅亡
2-8 欠史八代                卑弥呼時代 260 魏滅亡
10 崇神 大神神社創建 四道将軍派遣 任那朝貢        
11 垂仁 伊勢神宮創建
12 景行 息子が日本武尊 武内宿禰がブレーン
13 成務                        313 楽浪郡崩壊
14 仲哀 父が日本武尊 奥さんが神功皇后   三韓征伐
15 応神 八幡神社祭神            
16 仁徳