卑彌呼でおk

   

   
最近いろんな日本史学習まんがを読みまくっていたのだが、みんな古代の部分に苦労しているようだ(笑)
縄文弥生の話の後に突然「卑弥呼」が登場しいつの間にか「ヤマト政権」が発生、次には当然のように天皇がでてくる時代になっている。
各々の関係や経緯がわからない。これじゃ子供もモヤモヤするだろう。
   
そういう困り者の日本古代史なんだけど、最近の相次ぐ発見で「卑弥呼」の謎はほぼ解けたようだ。【1】【2】
邪馬台国=ヤマト国も確定し、仮説レベルでは芋づる式に古代史がわかってきた。
でもサヨクに都合の悪い歴史だから定着するまで時間かかりそう(^_^;)
    
* * *
     
紀元前後 日本列島は小国分立状態
     有力な勢力にヤマトグループとナグループあり
     
57年   ナはヤマトに対抗し漢王朝冊封を受ける(志賀島金印)
     
107年   ヤマトグループは九州のナを破り西日本統一
     このときのヤマト王がイワレヒコ=神武天皇
     九州のナは滅んだが、東日本の分国は残る(クナ国)
     
     やがてヤマト連合政権は貿易利権を巡り内乱に陥る(倭国大乱)
     
184年   イニエ(崇神天皇)は姉のモモソ姫を三輪山の斎王としてヤマトを再統一
     これがヤマト国の姫巫女=「邪馬台国卑弥呼
     
238年   イニエは魏朝に遣使し後ろ盾を得ると東日本の征服戦争を開始
     
248年頃  モモソ姫没。混乱深まるが最終的にヤマト勝利。クナは滅亡し日本統一なる
     
     このあと統一日本経済は高度成長。全国に古墳つくりまくる(笑)
     
313年   ヤマトの貿易相手だった楽浪郡が滅亡、半島混乱、軍事介入
     
369年   ヤマトは鉄が発見された伽耶地域を占領、外交拠点を前進させる(任那日本府
      (それまで外交は博多の伊都国が担当していた)
      この朝鮮南部まで拡大した「大ヤマト国」の初代大王がホンダワケ(応神天皇
     
532年   任那日本府が滅亡したため536年に外交窓口を博多に戻す(大宰府
     
600年   新生倭国大王が第一回遣隋使を送る(聖徳太子?)
     馬鹿にされたので行政改革をやる(十七条憲法・冠位十二階)
     
607年   改めて遣隋使を送りなおし魏朝の足元を見て「日の出るところの天子・・・」と自称
608年   3回目の遣隋使では妥協して「東天皇白西皇帝・・・」と書く。天皇号の初出。
     
* * *
     
日本側記録において「神」の字のつく3人の「天皇」はそれぞれ、
     
 神武=ヤマト連合政権の初代大王(2C)
 崇神=日本統一したときの大王(3C)
 応神=朝鮮まで支配したときの大王(4C)
    
と位置づけられているが概ね該当する事蹟はあったようだ。
にもかかわらず日本側記録と中国側記録が一致しない。
    
  中国側記録            日本側記録
 「邪馬台の女王卑弥呼(女王)」 ⇔「崇神天皇(男王)」
 「倭国王アメタラシヒコ(男王)」⇔「推古天皇(女王)」
  
古事記日本書紀を書いた人々は中国側記録をよく知っている。
にもかかわらず矛盾を放置している。
これはなぜか?
  
それは日本が中華王朝に朝貢していないことをはっきりさせるためだろう。
わざと性別を逆にする事で天皇自身は朝貢していないという体面を繕った。
訳わかんなくなっていたのには理由があるのだ。
   

【1】「卑弥呼の墓」発見か?箸墓古墳の前方部正面に幅60メートルの外濠
2008年8月27日
 
邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市前方後円墳箸墓古墳(3世
紀半ば―後半、全長約280メートル)で、前方部正面に幅60―70メートルと推定さ
れる外濠跡が見つかったことが27日、分かった。
 
外濠の幅は、同じ纒向遺跡にある箸墓以前に築造された古墳と比べると突出した
規模。調査した市教育委員会は「古墳は箸墓の時代から、急に周囲と隔絶され近
寄りがたい存在になった。被葬者の力が他を圧倒していたことを示すのではない
か」としている。
 
外濠跡はこれまで前方部の側面2カ所で確認されていたが、正面では初めて。本
格的な前方後円墳の始まりとされる箸墓の築造時の墳丘構造を考える材料になり
そうだ。
 
前方部の南西約60メートルで、古墳側に向かって落ち込む深さ1.3メートル以上
の傾斜を発見。底付近はアシなど湿地に生える植物と泥が混ざった土層が堆積
し、古墳築造時と同時期の土器が出土したことから、外濠の端と判断した。
 
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080827STXKC086126082008.html

【2】奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定
2009年5月29日
  
  古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造さ
れたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館歴博、千葉県佐倉
市)がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥
呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争
にも一石を投じることになりそうだ。
  
 「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、そ
れまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王
として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇
帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。
  
 全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだっ
たそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物
語り、時代の画期を示すものと考えられている。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓
と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とす
る考えがあった。
  
 考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定
の陵墓で本体の調査はできない。周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡
などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連
が注目されるようになっていた。
   
 歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓
の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留
(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
  
 31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考
古学協会の研究発表会で報告される。
   
歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は「慎重に進めた5年間の研究
の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたの
か、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにした
い」と話している。(渡辺延志)
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355_01.html