歴史教科書問題の憂鬱
昔、家永教科書訴訟というのがあった。左翼系教科書を検定不合格にしたのは不当だと国家を訴えていた事件である。僕はこの訴訟を支持していた。たしかに基本的な事実関係の検定はしょうがない。(鎌倉幕府成立=4192年@ガッツなんて書かれていたらまずいっしょ?)しかし、解釈は自由だ。そこに国家は干渉するべきではない。国家が特定のイデオロギーを注入することのために教科書は使われるべきではない。教科書は多様であって良い。そのなかで複眼的な歴史観が育つ。ひどい教科書は市場=社会的議論による淘汰に任せればよい。と考えたからだ。ましてや米国による再軍備要求に屈する形で反戦教科書を弾圧されてたまるか、と思ったものだ。いまでもこの考えは変わっていない。
だから扶桑社の『新しい歴史教科書』が発売されたときも、そういうものもあって当然と考えた。そして地域住民レベルでの採択賛成・反対の運動についても健全な姿だと思った。
ところがである。
その後扶桑社教科書反対派は、
(1)内容(解釈)に問題がある教科書を検定合格させるな
(2)右翼教科書を存在させてはいけない
(3)中国・韓国が反対しているから合格させるな
と言い出した。
これはサヨクシンパで家永訴訟支持者だった僕の思想とまるで逆なのである。
要するに、
(1)国家が教科書を検閲しろ
(2)特定イデオロギーを禁止せよ
(3)外国の干渉を認めよ
と言っているわけだから。。。
ところで昔在日朝鮮人を中心としたBBSで『HANBoard』というのがあったが、一連の騒動を見て、そのBBSで極左朝鮮人が言っていた言葉を思い出した。
「正しい歴史観を歪曲する者は歴史修正禁止法を作って逮捕投獄すべきだ」
。。。
ここで問題なのは何が「正しい歴史観」かなぜかこの主張者自身は知っていると思いこんでいることなのだ。なにが正しいかは究極的には人間には知り得ない。だから多様な対話の中で近似を試みるしかない。況や政府にまかせてはならないのは、20世紀の歴史から明らかだ。というのが近代社会にいきるものの常識ではないだろうか。内容が右翼的か左翼的かに関わらず上記の発想はまさにファシストそのものである。しかしよく考えてみると中国・韓国・朝鮮というのはこの極左朝鮮人の言っているとおりの社会体制を敷いているのだ。それを見過ごすことは「正しい」左翼としては許し難いのだが、なぜかニッポンサヨクにはそれを問題とする声は小さい。(右翼偏向の軍事政権時代を総括するために必要。広大な大陸の秩序を維持するためには必要などなど・・・まるで理由になっていない言い訳をしている。)
こういう形式的整合性のない主張。内容による選別。ようするにダブルスタンダードを俺は一番きらいだ。(その結果なぜかウヨクに思われる。日本での定義は、ウヨク=反中朝韓、サヨク=親中朝韓なのか?別に俺は「反」中朝韓ではないんだけど・・・)