学徒出陣

セピア色の歴史の人物と同じ空気を吸っている不思議。
大東亜戦争はついこの間の私たちの歴史なのだ。

【交友抄】湘南海岸の朝食 原田宗彦
(日経、11年09月27日)
 
 謙虚で洒脱(しゃだつ)。私が尊敬する師匠が、鹿屋体育大学の初代学長を務められた江橋慎四郎先生だ。
 先生は1943年の学徒出陣壮行会で、悲痛な答辞を読んだことで知られている。戦後は社会体育学やレクリエーション学の第一人者として活躍され、91歳の現在もご健在である。
 私が師事した故・池田勝先生の恩師であり、孫弟子にあたる私は米国留学や帰国後の就職など人生の節目節目でお世話になった。先生のニックネームは「シャイン」。少しシャイだが笑顔が太陽のように素晴らしいことから、米国留学時代に名付けられたそうだ。
 92年ごろたまたま仕事でお会いしたところ、神奈川県の鵠沼海岸のご自宅に招かれた。酒を酌み交わしながら「遊び論」を伺った。翌朝のことは忘れられない。「湘南海岸にブレックファストに行くぞ」と先生の声。距離があったので「どうやってですか?」と問い返すと、笑いながら2台の自転車を指さした。初夏の気持ちのいい朝、2人で海岸沿いの道路をレストランまで走ったことは最高の思い出だ。
 後年、先生から「玉を抱いて磨かなければ罪なり」という言葉を頂いた。私も先生のように温かく、そして真摯に学生に接することで、その才能を磨こうと心がけている。(はらだ・むねひこ=早稲田大学教授)

2010年06月14日 13時06分33秒
江橋慎四郎先輩 学徒出陣を初めて語られる
http://ameblo.jp/tousui0910/entry-10562827630.html
 
競泳陣4年の石川です。
昨日は理工科本当にお疲れ様でした!東部につながるレースになったでしょうか。
その模様は、この記事より後に海野くんが書いてくれます。
 
私は、今日90歳の誕生日を迎えられた東大水泳部の先輩、江橋慎四郎先輩(昭和19年卒・東京大学名誉教授)の記事が、今日の読売新聞の朝刊、夕刊・読売寸評で掲載されているのをお伝えします。取材したのも東大水泳部、永井梓先輩(33年・読売新聞論説委員)です。
 
江橋先輩は、第1回出陣学徒壮行会で全国の代表として答辞の挨拶をされた東大水泳部の先輩です。宮下充正先輩(35年卒)ら門下生が主催した、卒寿お祝いの席で、江橋先輩は67年の沈黙を破って、学徒出陣について話されました。
2年前、私は、戦争当時に東大水泳部のお話を聞きたくて、相馬くんと、江橋先輩の元を訪ねました。先輩にとっては辛い記憶であろう戦争のお話を、今日の新聞記事と同じく静かに語って下さいました。
しかし、新聞に書いていないことで、心に残ったことがありました。
「水泳部の先輩方もひとり、またひとりと入隊していく。そんな中感じたのは、悲壮感よりも、入隊するならそうと割り切って部活、授業、そして家族と過ごす、という日々の暮らしを大切にしたいという強い想いだった。
「入隊して以後も心の中で、学生生活が兵隊生活に変わっただけだ、と思うようにしていた。軍隊は「運隊」と呼ばれるほど、運によって自分の運命が左右される場。だからくよくよ自分の将来を憂いても仕方ない。その時、その時、置かれた状況の中でどれだけ最善のことができるか、それが人生で大事だということ。」
昭和18年明治神宮外苑で、多くの女学生が涙した「生等もとより生還を帰せず」という有名な一文。
江橋先輩が載った、今朝の新聞の一面には偶然にも、「はやぶさ『帰還』」の文字が躍っていました。

出陣学徒壮行会答辞 全文
 
 明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。本日、この思ひ出多き地に於て、近く入隊の栄を担ひ、戦線に赴くべき生等の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。
 
 思ふに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃壤払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確固として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。
 
 然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は日を追って、熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり。豈に感奮興起せざらんや。
  
 生等今や、見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を帰せず。在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。
  
 生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。                                     
昭和18年10月21日

 
追記)
著者不明のネット断片。
こういうのがあるから沈黙を守ったんだろ。
だいたい答辞を読むことが取引材料になるとは思えないよ。
結局「軍国主義に協力した奴が生き残ったのが許せない」という妬みなんだろうな。

http://www.shimousa.net/techou/techou_seira.html
答辞を読み上げた学生こそ、東大文学部の江橋慎四郎であった。その軍歴に疑問を抱いたのは、同じ出陣学徒たちにより、戦後学徒戦死者の手記をまとめた「きけわだつみのこえ」を基に結成された日本戦没学生記念会、「わだつみ会」であった。

かれは「わだつみ会」の呼びかけにも頑として応ぜず、自らの出陣学徒壮行会以降の越し方を語ることもなかった。「わだつみ会」側で持っていた疑惑は、江橋が実は軍隊に入っていなかったのではないか、入隊していたとしても稀にある即日帰郷をしていたのではないかということである。江橋が軍隊に入ったということが確認できなかったからである。本人の言によれば、内地の航空隊で整備の仕事をしていたというが、本当かどうかは定かではない。

http://ansqn.warbirds.jp/ansq05.cgi

初めて質問します。
学徒出陣壮行会で答辞を読んだ江橋慎四郎氏の軍歴についてお尋ねします。
以前読んだ本では「即日帰郷」ということで、ネット上でもそのように書かれているものがいくつかあります。中公新書「学歴・階級・軍隊」によると独文学者の山下肇氏も同様のことを岩波の「学徒出陣五十年」に書いたところ江橋氏の同期生が同氏の軍歴を証明する抗議があったそうです。
wikiによると陸軍の航空整備兵ということなのですが、帝大を出て整備兵というのも不自然だと思います。また具体的な所属については不明です。
軍歴証明書を発行してもらえれば解決できることなのですが、それ以外に事の真相を確かめる方法はないのでしょうか?
飯田橋

 高学歴者が、航空整備というマニュアルを理解する能力が必要とされる分野に回されること自体はおかしくはありません(私の叔父も学徒出陣→整備部隊配属でした)。「兵」という点は、たしかに学徒出陣者の多くは幹部候補生を志願していますが、全員ではありません。
 学徒出陣の場合は、幹部候補生を志願し、昭和20年1月に見習士官、夏ごろまでには少尉というのが一般的なコースだと思いますが、遅れる場合もあったでしょう。順当に少尉になった場合でも、戦争中のほとんどの期間は、少尉以上の士官ではなかったという意味で「兵」というのは、ミリタリマニア的にはともかく、一般的な表現としては間違いとまではいえないでしょう。
 
 江橋慎四郎氏ご自身は、学徒出陣の答辞について、長年の沈黙を破り、昨年(2010年)6月14日の読売新聞(朝刊)のインタビューに答えていますが、その中で、答辞は学部順送りでたまたま文学部が当たり、上から指名されて断ることはできなかった、その後は内地で陸軍の整備兵をしていた、ともおっしゃっていますが、私は特に違和感は感じませんでした。
 疑うことはできますが、「即日帰郷」という噂のほうがはるかに疑わしくはあります。戦時中には兵役逃れに関する噂が、根拠のあるものもないものも、膨大に飛び交っていましたから。
 
 歴史的事実は検証すべきではありますが、学徒出陣の答辞そのものは歴史の対象であっても、その後の江橋氏の経歴は個人的な問題のように思えます。
 もちろん「体育学者江橋慎四郎」を研究するのであるならば、重要なポイントではあるでしょうが、それはもうすこしたってからでもいいように思えます。

 役に立たない書き込みで申し訳ございませんでした。
カンタニャック

カンタニャック様 回答ありがとうございます。
>その後の江端氏の経歴は個人的な問題のように思えます。
ここの部分を読んで返事を書くために回答欄を開いて一時間以上考え込んでしまい、それから返事の文章を何度も打っては消しを繰り返しています。疑問を提出した以上、自分としては承服できかねるわけですが、その一方でやはりカンタニャック様が正しいのかなあ、という迷いがあります。
回答を頂いたのに心のなかに抱えていたモヤモヤが大きくなってしまいました。
お礼になっていないお礼で申し訳ありません。
飯田橋

 私も、その部分はかなりモヤモヤしながら書きました。
 歴史を研究する者がプロであれアマであれ、これ以上は調べないという自己規制をすべきではないというのはわかります。
 ただし、歴史上の問題は、実体験された方にとっては個人的な問題でもあるのであって、そこにどこまで踏み込んでいいかは、いろんなバランスの取り方があって、唯一の正解などないのでしょう。
 難しいです。
カンタニャック

>補足訂正
上記読売新聞(朝刊)のインタビューを読み返したら、
「整備兵<など> をしていた」とおっしゃっていました。
カンタニャック

1998年刊行の蜷川壽惠『学徒出陣 戦争と青春』に江橋氏の入隊後の軍歴が書かれていました。
「兵科」としては陸軍飛行兵科飛行整備兵ですが、「身分・地位?」としてはカンタニャック様のご推測通り、甲種幹部候補生の道を歩まれたとのことでした。
個人情報ですからここでは控えますが、本には入隊から終戦までのすべての所属部隊が書かれていますので、「即日帰郷」は明らかに間違いです。
A

A様 回答ありがとうございます。図書館から「学徒出陣 戦争と青春」を借りてきました。ご指摘のとおり詳しい軍歴が記されておりました。
ただそうなると、1998年発行の本に軍歴が記載されている一方で、最近になって「長年の沈黙を破り…」というのに疑問を持ってしまうので、なんか、こう、モヤモヤしたものが残ってしまいます。
飯田橋

学徒出陣―戦争と青春 (歴史文化ライブラリー)

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