平型関の襲撃

日中戦争中共がまともに日本軍と戦った戦闘はひとつしかない。
それが平型関の襲撃だ。
案の定映画になっていた(^_^;)
しかし、相当美化されているような・・・
 

  

誇張された「平型関大捷」
中共が抗日戦争を語るときに必ず挙げるのが平型関における戦いだ。平型関では日中両軍が激戦を繰り広げたが、日本軍と戦ったのは国民政府軍(山西軍)であって、中共が参戦したのは一局面に過ぎない。しかも「抗戦初の勝利」と中共自画自賛する戦いは、非武装に近い補給部隊を襲撃して物資を奪ったのが実情で、戦局に資するところもなかった。 (略)
   
平型関は、山西省を守る第二戦区司令長官の閻錫山が、三線にわたる防衛線として計画した第一線目であり、峻険な地形を利用した強固な防衛陣地が内長城線に沿って構築されていた。そこに計五個師五万の兵力が配置された。中国側の正面戦場の布陣は、中央に第十五軍(劉茂恩)、右翼に第十七軍(高桂滋)、左翼に第三十三軍(孫楚)であった。これに対して三浦支隊は、歩兵第四十二連隊を後方に置いて、歩兵第二十一連隊を渾源から策応させるほかは、三個大隊に過ぎない支隊主力をもって霊丘から平型関正面への攻撃を行うことに決した。9月22日、支隊主力は平型関の正面に進出して攻撃を開始、以後七日間にわたって彼我の間で激戦が繰り広げられた。
  
戦況は容易に進展せず、戦線は膠着状態に陥った。9月25日、三浦支隊はようやく正面の一部を占領することが出来たが、敵の絶え間ない攻撃に損害が続出、後方も遮断され、弾薬残数が僅かとなり危機に陥った。支隊主力を救援すべく、歩兵第二十一連隊は戦線を離脱して南下、歩兵第四十二連隊も広霊を出発して救援に向かった。三日後の28日にようやく後方が確保され、翌29日、三浦支隊は全隊をあげて白昼総攻撃を決行したが失敗に終わった。このとき、板垣兵団救援のために南下した関東軍察哈爾派遣兵団(いわゆる東条兵団)が、平型関の後背に延びる内長城線を攻撃、うち歩兵第一連隊を基幹とする十川支隊は、北を守る第三十四軍(楊愛源)の防衛線を突破して、平型関守備軍の側背を脅かすに至った。30日、ようやく平型関正面の中国軍は撤退し、三浦支隊は内長城線を越えて大営鎮を占領、平型関を突破できた。この一週間の戦闘で日本軍は1500名以上の戦死傷者を出し、中国軍も数千人にのぼる戦死傷者を出した。
   
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この平型関戦には中共軍も参加している。林彪率いる第百十五師だ。ただ、正面での戦闘には参戦していない。中共は平型関戦に先立つ9月21日に、前線司令部のある代県嶺口において、戦区司令官の閻錫山と中共軍の参戦について協議している。このとき閻錫山は、第百十五師の正面戦場への投入を打診したが、中共はこれを拒絶し、後方における独立行動を確約している。実は、中共はすでに8月22日から25日にかけて開催された洛川会議において、抗日を呼びかける「抗日救国十大綱領」を発表する一方で、中共軍の正面戦場への参戦を否定し、根拠地建設を最優先することを決定していたからである。「七分発展、三分抵抗」である。このような国家の危急に際して自らの勢力拡大を優先する方針は、「遊撃戦」という都合の良い言葉でオブラートに包まれた。閻錫山は妥協し、第百十五師は日本軍の後背を攻撃するため、平型関から出撃した。
  
9月25日、第百十五師は、平型関の北東約5キロの位置にある関溝村―小塞村に出没、日本軍の自動車隊と輜重隊を襲撃した。これが平型関における中共軍の唯一の参戦である。9月25日に三浦支隊主力の後方連絡線が遮断された原因がこれである。攻撃を受けたのは、負傷者の後送と補給品受領のために霊丘へ帰還途中の第六兵站自動車隊と、冬服や食糧・弾薬の輸送に従事していた歩兵第二十一連隊の行李隊で、ほぼ同じ時刻に数キロ離れた同じような隘路において襲撃を受けたのだった。歩兵第二十一連隊の戦友会誌『浜田聯隊史』は、被害現場に遭遇した将兵の回想を次のように掲載している。
       
この戦闘について、中共は翌26日、南京政府中央日報社宛に次のような戦勝報告を行ったという。

九月二五日、わが八路軍は晋北平型関で敵一万人余りと激戦を展開、何度も勇敢に突撃し、侵攻してきた敵をすべて撃滅し、平型関以北および辛荘、関沙、東跑池一帯などすべての陣地を奪取した。撃ち殺された敵兵の死体がいたる所に散らばり、敵兵の一部は捕虜となった。さらに鹵獲した自動車、戦車、銃砲や他の軍用品はすこぶる多く、目下整理中である。現在、残敵は小婁村まで敗走し、わが軍によって四方を包囲されている。八路軍参謀処 九月二六日
(謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』草思社,2006年,84頁)

下線を引いた部分が事実と異なる。すでに見たように、一万人の正規軍への攻撃ではなく、非武装に近い補給部隊への襲撃であり、戦果も著しく誇張されている。自動車は日本軍が自ら敵手に渡るのを防ぐために火を放ったので、鹵獲された車輌はなかった。もちろん戦車もなく、捕虜も一名もいなかった。当時の戦勝報告は、あまりにも嘘が多かったからか、その後の公式見解では若干トーンダウンしている。しかし、七十年を経た現在でも、誇張された戦果を誇示し続けていることに変わりはない。現在は、「日本軍兵士一千人余りを殲滅」と主張しているが、真実はすでに見たように、合わせて約250名ほどが殲滅されたに過ぎない。もっとも、1970年代までは「日本軍兵士三千人殲滅」としていた。戦利品についても同様に誇張されている。武装は護衛と救援の二個小隊と、自動車隊で特務兵二人につき一丁の割合で支給されていた騎銃ぐらいだから「小銃一千余丁」はあり得ない。
この点で興味深いのが、1942年(昭和17年)12月18日に太行区で開催された幹部会議における中共軍副司令官の彭徳懐の発言である。

平型関の戦闘は完全な伏撃戦であり、敵は事前に全く予期していなかった。ところが、結果的に我々は一人の日本兵も生捕りにすることはできず、破損のない小銃を百挺ほど鹵獲しただけであり、敵兵は武器を破壊し、傷兵は自決した。
(出典:彭徳懐「関於華北根拠地工作的報告」『共匪禍國史料彙編 第三冊』中華民國開國五十年文獻編纂委員會,1971年,350頁)

(略)ただ、もし中共軍が山西軍と協力して三浦支隊の後方遮断に全力を尽くしたなら、その損害は甚大なものになったことは間違いない。関溝村―小塞村において、中共軍は公式発表で600名に上る戦死傷者を出したとしている(以前は1000名の損害としていた)。非武装に近い補給部隊を相手に隘路の両岸という有利な地歩を占めていたにもかかわらず、敵を上回る大きな損害を蒙った。師団単位での作戦行動を取れる体制にあったものの、実際の戦力としては、正規軍の攻撃に耐え得る状態にはなかったのではないか。その点では、中共軍が平型関において単なる"物盗り"に終始したのは、自己をわきまえた賢明な処置であったと言える。
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000362.html