日中開戦記念日


  
漏れは記念日シリーズは【雑記】に分類しているのだが、日中開戦記念日は敢えて【防】とする。
  

ところで8月13日は日中開戦記念日だ。
7.7=盧溝橋事件じゃないの?と思ったひとはシロート。
この問題を考えるときに重要なことは、
 
・戦争は簡単に始められない
 
ということだ。
 
膨大な官僚的手続きと人的物的準備が必要。
だからどっちが準備していたかを見れば戦争を始めた側がわかる。
 
トラ・トラ・トラ』をみても分かるように日本軍は半年前から侵略準備を進めていた。
日米戦争は日本軍が米国を侵略して始まった戦争である。
 
いっぽう北京盧溝橋で中国兵から銃撃されたとき日本兵は実弾すら持っていなかった。
しかも4日後に停戦した。
侵略をはじめたなら4日でやめる馬鹿はいない(笑)
 
盧溝橋事件のあとも中国軍は挑発を続ける。
 
 13日 日本軍砲兵4名惨殺される。
 14日 日本軍騎兵1名惨殺される。
 20日 撤収するふりをした中国軍が攻撃開始
 25日 日本軍電線修理隊襲撃される。14名死亡。(廊坊事件)
 27日 協定進駐しようとした日本軍襲撃される。17名死亡。(広安門事件)
 29日 隣町で日本人民間人虐殺される。230名死亡。(通州事件
 
日本軍は緊急増援した後でも事件拡大を望まず8月9日に和平会談を持ちかけた。ところが、
 
  9日 日本兵惨殺される。→ 和平会議お流れ
 13日 3万の中国軍が上海日本租界を一斉攻撃!
 
というわけで、13日の一斉攻撃につなげるために虐殺挑発を繰り返してきたのがミエミエだ(^^)
 
もともと蒋介石はドイツ軍の支援で日本攻撃を準備していたが、前年12月の西安事件で対日開戦を約束。
しかし中国もパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)に調印しているうえ、スポンサーの欧米の手前もあるし、宣伝の都合もあるので、あくまで日本が侵略を開始したことにしたかった、というわけ。
 
まんまと騙されて73年たっても教科書に書いている日本人っていったい。。。
 
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【1】盧溝橋事件(典型的な左側の説明)
1937年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋付近で日本の支那駐屯軍が夜間演習を実施していた。
その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の2等兵1人が足りなかった。
牟田口廉也連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。
7月9日には停戦11日には停戦協定調印したが、日本政府は同日「華北派兵に関する声明」で派兵決定を内外に発表。
7月28日から朝鮮軍関東軍が北京・天津地方に侵攻占領。
ついに8月15日政府は全面的な攻撃を開始し、上海方面にも戦線を拡大。
12月には南京を攻略「南京大虐殺事件」をおこした。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rokyoujikennseifuseimei.htm
 
(にゃんこ注:みごとに中国側の挑発行為の記述がない。片側だけ書く。そして第二次上海事変をスルー、南京虐殺をゴールにする)

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【2】第二次上海事変日中戦争開戦
 第二次上海事変 蒋介石は、西安事件ソ連に降伏して対日戦に合意し、上海郊外の非武装地帯に多数のトーチカを建設し始めた。これは盧溝橋事件よりも、かなり以前から始めていたことだ。

盧溝橋事件が起こると、蒋介石は戦争準備を本格化させ、ドイツ軍将校指導の下、7万のトーチカからなる巨大要塞を建設し、上海から南京に至る途中にはヒンデンブルクラインなる防御線を完成させた。その上で、上海の外側に、遠巻きに保安隊を配置し、徐々に包囲網を狭めていった。
(略)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/23844075.html

 
(にゃんこ注:HP主は右派らしいが、盧溝橋事件と第二次上海事変の関係を偶然と捉えている)