日本哲学の考究−「親日保守」確立のために (佐藤優)

 
漏れが次の一節を読んで我が意を得たりと膝を打った。
そう、皇室の存在こそが日本文明システムの精華であり、寛容と平等の根拠になのだ。
敢えて左翼的言い方をすれば、天皇はただのオジサンである。神主さんである。
そんなことは誰だって知っているし、右翼だって知っているし、天皇本人も知っているだろう。
だが彼を歴史と民族そのものであるかのように見なすこと、それが天皇の意義なのだ。
昭和の一時期の軍国主義的暴走はそういった皇室の伝統からかけ離れたものだった。
国家神道」などというものはなかった。
それは仏教グローバリズムである「日蓮宗」の擬態であった。
日蓮宗という仏教版ネオコンの普遍主義が日本版グローバリズムとなって対外侵略主義を支えていたのだ。
 
しかしそれはそれとして「右翼」を自称すること、街宣車を評価するなど、あいかわらず佐藤優はとんがっているなあ。
右翼っていわれることくらいにいちいちビクビクしてんじゃねえよ!ってことだね。
これは結構メルクマールかもしれないな。売れっ子知識人が右翼を臆面もなく自称してメディア露出するというのは。
  

「国体」とは日本国家を成り立たせる根本原理である。愛国心に関する議論も、憲法改正問題も、わが国体に関する認識を欠いて行われるならば、机上の空論で、時間の無駄だ。(略)ここで一言述べておきたいことがある。それは、国体は発見するものであるということだ。国体を構築することはできない。この基本を押さえていない憲法改正論議はきわめて危険だ。日本の伝統において「目に見えない憲法」が存在している。この「目に見えない憲法」こそが国体なのである。この国体を、所与の歴史的条件の下で、文字にしなくてはならない部分だけを、文字にする作業が憲法制定であり、憲法改正である。
 人知によって、政治エリートが考える理想を記した憲法を構築するという発想は、わが国体に合致しない。人間の理性にもとづいて、理想的な社会や国家を構築できるという発想自体が、1879年のフランス革命のときに議長席からみて左側にすわっていた人々、すなわち左翼の思想なのである。(略)これに対して、フランス革命のときに議長席から見て右側にすわっていた人々、すなわち右翼は、人間の理性には限界があると考える。ここで重要なのは、右翼は理性を否定しているのではないということだ。理性の限界を強調しているのである。(略)筆者は、思想史的に整理を行う場合、左翼、右翼、右翼以外の第三項を設けるべきではないと考える。中間派であっても、政治条件について、その都度、決断をせまられているわけで、個別の政治案件については、右翼か左翼、いずれかの立場をとっているからだ。(略)しかし、思想史的な整理において、中間派、是々非々主義は日和見主義以外のなにものでもない。
 論壇や政界で、保守を自認する人々の中で、「私は保守だが右翼ではない」とか「右翼と言わないで右派と言って欲しい」と述べ。「右翼」という言葉に忌避反応を示す人が多い。理由を聞いてみると、「右翼というと街宣車に乗っているような連中と一緒にされるので嫌だ」という反応が多い。おかしな話だ。街宣車に乗ろうが乗るまいが、問題はある人物の発言と行動だ。筆者自身は、外務官僚に毅然たる外交を展開させたり、腐敗政治家が国を売ったりするような行為を行わせないようにするために、街宣車による情宣活動は大きな効果があると考える。街宣車に対して偏見をもち、右翼を自称するのをためらうなどというのは実に情けない話だ。
 自己の栄達や保身のために「保守」や「右翼」を自称する人々には、自己の言説や行動の裏付けとなる思想がない。これに対して、筆者の理解では、右翼には確固たる思想がある。しかし、その思想は、論戦における論理整合性のみに依存するものではない。個々の局面において、一見、情にもとづいて、行き当たりばったりのような行動をとっているように見えるが、一段高いところから見てみると(哲学の言葉でいうならば、メタの立場でみると)、首尾一貫した人生観、世界観によって貫かれているような思想だ。人間の生き死にの原理となるような思想である。南北朝時代に、南朝の忠臣北畠親房が『神皇正統記』の冒頭で「大日本者神國也」と喝破したが、筆者の理解では、これこそがほんものの右翼思想なのである。
[p146-148]

しかし、東西冷戦は終わった。もはや共産革命の脅威は存在しない。そのような状況で、日本の保守が本来の保守、すなわち「親日保守」に転換するのは、当然のことである。保守とは、自国の伝統を踏まえたところで成立する観念だ。国家の数だけ保守の立場もある。アメリカには「親米保守」、中国には「親中保守」、ロシアでは「親露保守」しか成立しない。(略)
 それから「親米保守」が成立しえないもう一つの理由がある。それは、アメリカ発の新自由主義がその本質において覇権を追求する普遍主義だからである。
[p150]