社会主義には右も左もあるのだ
オールドサヨクには常識かもしらんが、いまの若いヒトは知らんのかもね。
週刊ダイヤモンドで読む 逆引き日本経済史
【第34回】 2011年9月2日
坪井賢一
背中合わせの左翼社会主義と国家社会主義 「企画院事件」の波紋(1940−1941)
(略)
戦前の農林省、企画院の官僚、戦後自由党政権(吉田内閣)の農林大臣、社会党政権(片山内閣)の経済安定本部長官を経験した和田博雄は、分裂後の左派社会党の大幹部に転身したのである。
(略)
そして、寒村は戦時下の社会主義と国家主義の危うい関係に踏み込んでいく。
「彼はもともと農林官僚の出身だが、その農相時代には共産党の水口労働組合委員長をすら手なずけていたほど、完全に省内を統制していたといわれる。だが、彼がいわゆる革新官僚として頭角を現したのは戦争中の企画院時代、次長の松井春生をはじめ陸軍の青年将校と共に、戦時統制経済の推進によるのである。狡兎死して走狗煮らるの諺にもれず、彼も後にその革新政策のために睨まれ、企画院事件に連座して囹圄のうきめを見もしたが、彼がむしろファシスト的、全体主義的な見地から統制経済、財閥打破を唱えていた青年将校と意気投合したのは、性格的にも思想的にも、これとウマの合うところがあったからではなかろうか。」
つまり、企画院の革新官僚(国家総動員体制による統制システムを構想する官僚)として、電力国家管理案(★注④)をはじめとする生産力集中体制を立案していた和田博雄は、民主的社会主義政策として考えていたのではなく、ファシズムの見地から統制経済と財閥打倒を目指していたのではないか、と寒村は考えた。
(略)「近衛文麿は第2次政権の組閣にあたって、東京電燈社長を辞して関西へ帰っていた阪急の小林一三を商工大臣として迎えた。近衛首相は組閣後の1940年8月1日、『国策基本要綱』を発表する。
9月には『資本と経営の分離』を商法改正によって行なう、という企画院原案が出てきた。財界にまた大反対運動が巻き起こる。
『資本と経営の分離』とは、企業の所有は株主・資本家のままで、経営を国有化して生産力を戦争へ集中させる、という統制経済の手法として企画院が編み出したものである。資本家の利潤はもちろん制限される。財界が反対するのは当然だろう。
小林は後年、『当時流行した経済新体制、共産主義的やり方を叩き潰したのは僕なんだ』と回顧している(『小林一三全集』第1巻、ダイヤモンド社、1961)。
そして1940年12月7日、『経済新体制確立要綱」が閣議決定された。小林一三は闘いに勝ったと思ったことだろう。『資本と経営の分離を商法改正で行なう』という企画院の原案は書き換えられ、次のような文章となった。その一部。
『(一)企業体制を確立し資本、経営、労務の有機的一体たる企業をして、国家総合計画の下に国民経済の構成部分として企業担当者の創意と責任とに於いて自主的経営に任ぜせしめ、其の最高能率の発揮に拠って生産力を増強せしめ――』(「経済新体制確立要綱」基本方針、政府文書、1940年12月7日)
たしかに『資本と経営の分離』は消えた。代わって『資本、経営、労務の有機的一体』という文字が入った。
小林一三は『叩き潰した』つもりだっただろうが、岸信介ら革新官僚は小林の上を行く巧妙さで制度設計を始めた。
『資本、経営、労務の有機的一体』とは、圧倒的に強かった資本家・株主の地位を下げ、従業員の地位を上げる意図だったのである。」(以上、連載第29回より)(略)
しかし、寒村が喝破しているように、昭和戦前、とくに近衛新体制が議論されていた1930年代の企画院官僚、社会主義者(左翼)、国家社会主義者(右翼)は紙一重で接しており、寒村の推理もまた間違いとはいえない。
1939年8月23日にスターリンとヒトラーが独ソ不可侵条約を結んでいる。ソ連のスターリン主義とナチズム(国家社会主義)も紙一重だったわけだ。
(略)
週刊ダイヤモンド(しゅうかんダイヤモンド)はダイヤモンド社が発行する週刊の経済の専門雑誌。石山賢吉によって1913年5月10日創刊。毎週月曜日発売。現在の編集長は田中久夫。
かつては経済雑誌ダイヤモンド(けいざいざっしダイヤモンド)という雑誌名だった。総合経済誌として老舗であり、日経ビジネス、週刊東洋経済、プレジデントとともに主要な位置を占めている。
(wikiより)