今こそアーレントを読み直す

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

 

  
漏れはサヨクってのは「良いこと」を国家権力を使って強要しようとする全体主義者だと捉えている。
善意のファシストね。だから困るんだけど。ψ( `∇´ )ψ
で、サヨクだいっ嫌いな仲正@童貞さんがアーレントを語るのはもっともだ。
派遣社員可哀想→新自由主義者を吊せのキャンペーンに違和感を感じたのが執筆の動機と語る。
でも、日本の大衆はそんなに馬鹿じゃないと思うよ。サヨクなんてホンの少数しかいない。
問題は代弁者を自称する大衆そのものであるマスゴミが、それを大げさに拡大していることだと思うなあ。
多作で有名な仲正さん、次はマスゴミを正面に据えて論じてくださいな。
  

現代思想を経た人が疎外論に舞い戻るのは滑稽 文化左翼は具体的現実を何も変えようとしない 仲正昌樹さん
    
 近年グローバリゼーションやネオリベラリズム格差社会への批判が強まり、現代思想の論客たちも積極的に批判を展開している。金沢大学教授の仲正昌樹さんは、近著『〈宗教化〉する現代思想』で、現代思想の装いをした言説の一人歩きに警告を発している。何が問題なのか。
   
秋葉原事件から見えるもの>
  
秋葉原で若者が大量殺傷事件を起こしました
  
 「犯人が派遣社員だったから将来が不安で自暴自棄になった」と解説する人がいますが、それは極論ですね。どれくらい先が見通せたら人間は安心して生きられるのか、はっきりと答えは出せないと思います。
   
 経済成長のなかで私たちはだんだん安定志向になっています。多くの若者、とくに大学生は「年金が貰える65歳定年までの生活の展望が見えないと、安心して結婚して子どもを産み仕事に精を出すことはできない」との感覚を持っている。それは果たしてまっとうな要求なのかと、ちょっと疑ってみる必要があると思います。
   
 人情のない話かもしれませんが、75歳の人が「20年先が不安だ」と言えば「ちょっとあんた何歳まで生きるつもりですか」と思うでしょう。「後期高齢者医療制度は年齢で差別するから駄目だ」とみんな批判しますが、そもそも年金制度は「だいたいこの年齢で死ぬだろう」との予想で成り立っています。
   
 例えばそのラインを85歳にするとしましょう。それに対し、「私を85歳で殺すつもりか」とみんなが言い出したら年金制度なんて作りようがない。制度設計はそうした「冷たい計算」で成り立っています。現実的には資源は限られてるし、全面的な保障はありえないのでどっかで妥協して耐えるしかない。それ以上の部分は周りの人との助け合いを期待するしかないのです。
 
 経済成長のなかで私たちは、多くの夢を見るようになりました。山田昌弘さんたちが『希望格差社会』でも指摘しているように、高度成長時代に希望のパイプラインが作られた。人間の欲望はどこまでも膨らんでいきますが、どうしても手に入らないものはある。高度成長の終焉で、それがはっきりしました。希望がかなり実現できる人と、そうでない人の間の格差は広がっているが、それを是正すると言っても欲望にはキリがないので、どこかで打ち止めにしなければいけない。「だいたいこれぐらいの範囲に人々が納まったら平等だと思いましょう」と考えないと、格差是正はまったく意味のない空論になる。
 
 右翼だろうが左翼だろうが、「これくらいのレベルだったらなんとか生きていける、これぐらいになったらもう我慢しよう」といえる一定の水準を提示すべきです。それに達しない人はどれくらいいるのか。その人たちが何とか生きていく水準に達するには一体どうすればいいのか。そういう具体的な話に絞って議論したほうがいいと思います。
 
 しかし、そんな具体論はあまり聞かない。観念的に「グローバリゼーションと対峙する」とか「ネオリベラリズムに反対」とかのレトリックを声高にかかげていても仕方ありません。ましてや秋葉原事件を、若者の現実を代表する事例であるかのようにクローズアップし、不安を煽る言説をまき散らすのは無責任だと言わざるをえません。
 
<過剰な浮遊性に疲れる若者たち>
 
◆若者の不安の背景には何がありますか?
 
 80年代初頭からバブル期にかけて、人々のアイデンティティの浮遊性がポジティブに語られていた時期があります。浅田彰ドゥルーズガタリを中心にフランスの現代思想ポスト構造主義思想を紹介し、大量消費社会に入った現代日本にマッチした新しい分析枠組みを示した。それが生産中心思考のマルクス主義に代わって、消費の面から人間を理解する新しい思想としてブームになったのです。
 
 浅田彰はスキゾキッズやノマド化を強調しました。それまでの資本主義経済は、国民国家の下で人々が一定の場所に落ち着き、大きな工場に労働力を集約して生産力を高めていくものでした。国民福祉もある程度充実した。しかし国民国家の枠内での発展に限界が来て、資本が土地を離れて浮遊し始め、それにともなって人間のアイデンティティも流動化し始めました。
 
 ドゥルーズガタリはそれを非常に抽象的に表現したので、彼らの本『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などを読んでも、何を言っているのか今ひとつ分かりづらかった。そこに浅田彰が登場し、日本の新たな若者像と結びつけて解説したわけです。
 
 つまり大量消費社会が進展していく中で、従来の一つのことにこだわって生きる「パラノ」的生き方から若者が抜け出しつつある現実を賛美した。社会的アイデンティティ固執せず、いろいろな場所を飛び歩き、自由にアイデンティティ形成しつつある現実を理論的に擁護したのです。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という浅田の有名なフレーズは、軽快なフットワークで生きることを願う「新人類」の心に届きました。80年代の若者文化をポジティブな形で描き出していたので、多くの若者に受けたわけです。
 
 ただその際、スキゾキッズやノマドアイデンティティの浮遊性を肯定的に紹介しすぎた。自由に何にでもなれるといったら聞こえはいいが、逆に言えばうまくいかなかったら食いっぱぐれる危険性もあるし、社会から見捨てられる恐れもある。浅田彰はそんなに楽観的な人だとは思わないですが、その言説が受容された背景には、ノマドやスキゾキッズになって不安定になっても平気で生きていける、そんな楽観的な時代が訪れたという雰囲気があったと思います。
 
 実際日本はすぐにバブル経済期に突入したため、経済的・社会的アイデンティティが浮遊化することのリスクをあまり突き詰めて考えずにすますことができた。ところがバブルが崩壊し不況になって格差の問題が浮上すると、スキゾキッズになることは、実はフリーターになることかと分ってきた。浮遊することの楽しさや身軽さよりも、そこでもたらされる不安やしんどさが90年代の後半になって改めて理解され、今までポジティブに見えていたものが急にネガティブに見えてきたわけです。
 
<虚偽意識を暴く人の宗教性>
 
◆これは思想界にも大きな影響を与えていますね
 
 そうした中で思想的な揺り戻しが起こっているように思います。立ち位置の不安定さから、本来性のようなものを求める気持ちが広がっている。今は亡き小坂修平さんは、「もともとマルクス主義現代思想にシフトした人が、もう一度マルクス主義的思考に戻ってもいいけど、反省を踏まえてないのが問題だ」と指摘されていました。
 
 僕も何となく不満に感じていましたが、そういう人たちは結局、疎外論的な発想に戻っていると思います。この場合の「疎外論」は初期マルクスとか『経哲草稿』だけの話ではなく、人間が囚われている虚偽意識とかイデオロギーを暴き出し、「これこそがナマの現実だ」と主張したがるような発想です。『〈宗教化〉する現代思想』でかなり突っ込んで書いたのですが、「あの人たちは騙されていて、自分が苦しい状態にあることさえ認識できないでいる。真理を知っている私たちが教えてやらねばならない」とする、真理と虚偽の二項対立ですね。それが疎外論的な発想の根本です。
  
 実は丸山真男の『日本の思想』をよく読むと、この辺の問題をとらえている箇所がある。丸山は、日本では「イデオロギー批判」がちゃんとなされてこなかったと指摘しています。本人たちはイデオロギー批判をやっているつもりだけど、単なる「イデオロギー暴露」にしかなっていないことが多いというのです。
 
 例えば日本の右派は、西洋思想の流入に対して、西洋人がキリスト教布教の時のように外来思想を外から持ち込んで、無知蒙昧な輩を洗脳していると断じた。その際に、「日本本来の思想」があり、それが何だか自分たちは知っているという前提に立っているんですね。自分たちは「真理」を知っているわけです。それを基準に、外からやってきたものを「虚偽」として「暴露」し、無知な人たちの目を覚まそうとする。今でも保守の国際政治学者の中西輝政などは、敗戦後、GHQがマルクス主義を日本に持ち込んで、日本人を文化的に洗脳し、弱体化させていると主張しています。自分自身は、そうした外来の虚偽から自由な立場にいるつもりです。
  
 これに対し「イデオロギー批判」の場合は、批判する自分も何らかの原理に立っていることを自覚し、相手の観念体系と自分のそれがどう違っているかを根本原理にまで遡って比較対照してはじめて批判は成り立つはずだと、丸山は主張しています。
  
 左翼も同じです。彼らはよく「大衆は権力に騙されている」と語る。でもそう語る自分はどんな立場に立っているのかを怜悧に見据えることができない。それでいて思想の最前線にいるかのような言い方をする。表面的にはラディカルに見えますが、僕は全然ラディカルだと思えません。
  
 これは何もマルクス主義だけじゃなくて、虚偽意識批判のスタイルで権力を批判する言説は、基本的に同じ図式にはまりがちです。現代思想を標榜する人たちも、マルクス主義などの大きな物語を批判しながら、小さな物語を語る自分の言説を「真理」化している。こうなると哲学ではなく宗教です。
  
<左翼のもの言いはとてもうさん臭い>
  
◆自分の立ち位置を相対化する必要があると
  
 そうですね。でもやはり、誰であれ自分の信念を語る言説は何らかの形で宗教化してしまうと思います。後期デリダはこれを問題にしたわけですが、宗教化してしまうこと自体はある意味避けられないし、悪いことではない。
  
 問題は、特に左翼の側にそうした自覚がないことです。日本の左翼の悪いところとして、自分たちが宗教的なものから自由であるかのような錯覚がある。自分たちの主張は、ひょっとしたら宗教的な次元に立たないと受け入れられないのではないかという反省がない。だからものすごく押しつけがましいものの言い方をする。
  
 右翼や保守の方が、自分たちの言説のローカル性を自覚しているような気がします。日本の左翼的言説が受けなくなった最大の原因は、その普遍主義的で進歩主義的なうさん臭さではないでしょうか。自分たちが人類の普遍的な利益を代表し、歴史のトップランナーみたいに話す。格差問題なども、ネオリベラリズムとかグローバリズムに反対すれば何とかなると思っているふしがある。現代思想系の人ですら、擬人化した巨大な敵を作り上げ、それと立ち向かっているつもりでいる。そんな言説は、今やもう誰も共有してくれないでしょう。
  
 例えば格差を問題にするのなら、それこそキャノンの工場の問題のように、労働者派遣法がきちんと守られていない現実を具体的に見ていかないと意味がない。もちろん細かく問題を絞って取り組んでいる人たちもいますが、マスコミや思想雑誌レベルでみると、格差社会、グローバリゼーションなどが極めて抽象的に語られる傾向があります。
  
 赤木智弘の「希望は戦争、丸山真男をひっぱたきたい」といった乱暴な主張が出てくるのも、左翼の普遍主義が崩壊した反動だと思います。普遍的なきれい事を言いながら、目に見える個別の矛盾を解決しようとしない左翼への反発が根っ子にはあるのでしょう。
  
<無責任な言説はやめたほうがいい>
  
◆抽象論よりも具体的な実践が必要ですね
  
 アメリカでも日本と似たようなプロセスを経て、フランス系のポストモダン思想が一時期流行りましたが、ローティーなどはこれを「文化左翼」と呼び批判しました。現実と闘わずに言説と闘う姿勢を批判したわけです。
  
 ローティーは、「資本主義化したアメリカ」を観念的に批判するのではなく、アメリカの現実に立脚し、少しでもいいから改良するために実践してきたプラグマティックな左派の伝統にシンパシーを寄せています。理念的すぎる言説の一人歩きは、社会改良に役に立たないばかりでなく、害悪を与えることさえあるからです。
  
 僕が今ローティーから読みとっているのは、自分でも具体的にどうしたらいいのか分からない大言壮語などせず、具体的にイメージできる目標を立て、その着実な実行を目指すプラグマティックな発想に徹する姿勢です。世間に氾濫しているグローバリゼーション批判の多くに不満を感じるのは、グローバリゼーションに反対するといってもどうしたらいいのか見えてこない点です。
  
 確かにこれはなかなか難しい問題です。日本を経済的に鎖国することは誰が考えても無茶だし、反米経済ブロックをつくってベネズエラ、イラン、北朝鮮キューバとかと同盟するなんてのも展望がない。
  
 そもそも経済のグローバリゼーションとは、具体的には何を指しているのか。もっと小さな問題に絞って考えるべきだと思います。例えば今原油高騰の中で、先物市場の問題がある。先物に投機しているのは一体誰なんだ。投機しやすい仕組みはどうして生まれてきたのか。自由な取引をシャットアウトしないで、先物取引だけを取り締まるような経済的なルールはないのか。そういう具体的なことを言わないと批判してもまったく意味がないですね。
  
 僕も「反グローバリゼーション」をレトリックで使うこと自体に目くじらを立てようとは思わないですが、思想系の雑誌に出ている左翼的な論文は、グローバリゼーションと新自由主義についてのレトリックばかりです。あれが「思想」の最前線の営みだと思っているとしたら話にならない。
  
 具体的に何が出来るのか絞って考えないと、すべて無責任な言説になる。残るのは宗教的な信念と決め付けだけです。若者のことを真剣に考えているつもりだったら、空疎なレトリックで語るべきじゃない。そういうのは不真面目だと思います。
  
(1273号 2008年8月10日発行)
http://www.actio.gr.jp/2008/12/10065558.html