後藤和智インタビュー

 
下の『不都合な真実』をエントリーしたときに後藤さんの名前を検索して見つけた記事がおもしろかったので転載。
漏れこのころ論座って図書館で読んでたから残してないんだよねえ。・・・そういう香具師が多くて潰れた?
   
追記)
安原宏美さんって素敵だな(^◇^)
   

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10034937879.html
    
後藤和智さんの『左派は「若者」を見誤っていないか』という論考が『論座』2007年6月号に掲載されております。私も微力ながら編集をお手伝いした縁で、この論考を書くにあたって、後藤さんが考えていらっしゃることなどをお伺いしました。いつも楽しく(?)拝見しているブログ「冬枯れの街」の遊鬱さんにもご同席してもらいました。
   
論座』 2007年6月号目次
http://opendoors.asahi.com/data/detail/8090.shtml
新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/
冬枯れの街
http://newmoon1.bblog.jp/
 
安原
 
後藤さんや遊鬱さんの現在の若者に関する言論状況の認識ですが、以下であっていますか。
  
「『若者論』という意味でも『若者論者』という意味でも、現在マスコミに散見されるのは、一部の良識的な記事以外はかなり思い込みが跋扈したお寒い状態になっていて、発信する媒体がネットしかないという状況。特に新聞など表の媒体で出てきているのは“ネトウヨ”というような負のラベリングを貼られたものがほとんどであって、それこそが問題だ」ということ。」
  
 何をもって“ネトウヨ”とするか、あるいはその主張の妥当性の部分はひとまずおいておいて、実際にはリベラルな議論もされているのにこちらの部分についてはほぼ取り上げられてこないのがおかしいということですよね。
   
後藤
   
はい。そうです。このたびの論考を書いていて思ったのですが、左派は青少年問題に関してはいかに無力で無策か、ということが再確認できたような気がします。それでも私は、左派はもっと青少年問題に目を向けて欲しいと思って書き上げました。
 つい最近、仲正昌樹氏の『集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか 』を読んだのですが、これは非常に有益でした。なぜかというと、結局のところ80年代における「ポストモダン」やら何やらの戯れは、所詮は経済的な余裕があってこそのものだということがわかったからです。
 それに加えて、平成10年頃から14年頃にかけて、なぜ、宮台真司氏が「転向」したかもよくわかった。結局宮台氏の振る舞いもまた、仲正氏の言うところの「ポストモダン左旋回」の変形でしかないということです。
 経済的状況が悪化して、宮台氏の言うところの「まったり革命」みたいなことが不可能になり、多くの左翼(香山リカを含む)が「左旋回」してベタな危機感を表明するようになり、宮台氏は「再帰的近代」などといって天皇主義、アジア主義などに傾倒したけれども、どちらも「大きな物語」を呼び出すことによって若年層の「解離」(笑)を「治療」しようとしていることには何も変わりはない。
 要するに、彼らにとってすれば、子供の頃は、濃密な地域コミュニティの元で育ち、既存の権力に反抗して、背伸びして消費社会と「現代思想」に戯れることに青春を費やすというあり方こそが理想であって、今の子供のように、希薄化した地域コミュニティの元で育って、青春時代も自分の身の丈にあった消費にとどまるというあり方は、確実に知性やコミュニケーション能力の崩壊である。
 この手の俗流若者論と郊外論のキメラの一番わかりやすい論者が三浦展です。こういう考え方の延長上に、古い左派に三浦展が受ける理由もあると思うのです。三浦の議論って、「左旋回」した反米主義者に受ける俗流若者論でしかないのですよ。
 
安原
 
 宮台さんに関しては、編集者や著者も過剰に影響されている人がけっこういると思います。三浦さんもすごく影響されているんじゃないか。えっと証拠物件は以下(笑)。「プシコ」の2001年5月号三浦展さんの原稿の一部です。
 

 −オウム事件直後に書いた『終わりなき日常を生きろ』は、びんびん来ましたね。あ、社会学って世の中と関係あるんだって、初めて彼を通して知りました。自分がオウム信者と同じメンタリティを持っていたことも、彼を通じて知りましたし。僕、卒論のテーマが「終わりについて」だったんです。高校くらいからですね。「終わり」が好きだった。終末思想とかカルトとかノストラダムスとか。なぜかわからないですが、終わって欲しかった。それはつまり「終わりなき日常」を生きていたからなのかと思いました。
 当時好きだった曲に遠藤みちろうの「ビンの中から」(アルバムでは「カノン」という曲があります。ぼーっとただ続くだけの終わりなき日常を最終的にどうにかブレークしたいなと思う僕としては、その歌詞にすごく共感してたんです。地下鉄サリン事件があったときは中目黒に住んでましたから、日比谷線が大騒ぎだったんでしたが、なにかすごくわくわくしました。すげえっすげえって−

 
遊鬱
  
 後藤さんが先に引いた仲正さんの言うところの「生き生き」典型例ですね、実に楽しそうで羨ましいです(棒読み)。宮台氏も三浦氏も確か共にアクロス出身で、そこに由来しているかどうかは知りませんが社会「学」というよりも、単なるマーケティング言説として理解したほうがいいように思います。「ブルセラ」とか「酒鬼薔薇」とか「シャッター商店街」とか「格差」とかそのとき、そのとき流行している言説に、うまいネーミングともっともらしい仮説を乗っけてみましたという。上から見た眼差しで語りたい人にとって、あるいはマスコミが紙面を埋めるのに重宝と。そして、別段定量的裏づけのないマーケティング言説に過ぎないから、言説市場の需給予測を読みはずすと「サイファで覚醒されちゃう」と。
 
後藤
   
 『サイファ覚醒せよ !』じゃなくて、『サイファで覚醒せよ!』(笑)!
  
安原
   
 あと佐藤俊樹さんの『透明な他者の後で』(『論争・中流崩壊 』に掲載)も参考になるかと思います。これは2000年の文章です。抜粋します。長くなりますがごめんなさい。
  
−70年代後半から80年代初めにかけて、「中流」論争とよばれるものがあった。
  
 というあたりから抜粋しますね。
   

 そのなかで生き残り、日本社会を語るキーワードになったのが村上泰亮の新中間大衆論である。生き残る、というのは異様な表現だが、他にいいようがない。新中間大衆論はまさに生き残ったのである。そのこと自体が「新中間大衆」とは何者であるかを何よりもよく示している。
 新中間大衆論、つまり「みんなが中間大衆なのだ」という議論は当初すんなりと受け入れられたわけではない。何よりもまず、その曖昧さ、つまり「新中間大衆」の実体のなさが批判の的となった。無理もない。(略)

 「現代思想」というのは本質的にマスコミ用語であり、内容をふかく掘り下げてもしかたないが、その感覚をこれまたあえて図式的に表せば、「戯れ」だといえよう。例えば、批判する側からいえば「上流階級のお坊ちゃんお嬢ちゃんのコトバ遊び」で「現実を見ない」証しということになる。新中間大衆論と同じで、これも字義通りには誤りとはいえないが、あまり意味はない。「戯れ」の中身を見ようとしていないからである。
 なぜ「戯れ」が「戯れ」となるのか? 教科書的にいえば、それは外部に実態的な根拠をもてなくなったからである。リオタール風に、大きな物語の終焉といえばわかりやすいだろうか。もちろん、すでに幾人もが指摘しているように、終焉自体が本当は大きな物語のひとつだから、むしろ言語ゲーム論を引用するほうが適切だと思うかもしれない。だが、この二つは見かけほど違っているわけではない。(略) 
 事実、言語ゲーム論がそうなったように、超越的な視点の導入−消去も、くり返されれば、やがて読者にも論者自身にも気付かれてしまう。そうなると、言及する対象をかえて、一見ちがった形で超越的視点を再度密輸入することになる。その反復において「現代思想」は高度に消費社会的な言説であるわけだが、反復も反復されれば反復自体に気付かれてしまう。(略)
 実際、新中間大衆の実体のなさはもっと固有に説明できる。(略)
 第四回SSM調査のデータで見てみよう。戦後社会の上層にあたるのはホワイトカラー雇用上層、つまり企業や官公庁の専門職や管理職である。その父主職×本人40歳職のオッズ比が、1926〜45年生まれの男性では4.3まで下がっている。オッズ比は世代間の継承性の強さを示す指標で、父の職業によるいわば可能性の格差の程度を表す。4.3というのは、父親がホワイトカラー層用上層である人はそうでない人に比べて4倍以上、ホワイトカラー層用上層になりやすいことを意味する。絶対値では以前不平等だが、実はそれまでの30年間の間に9.4からここまで縮小してきたのである。
 したがって、トレンドとして考えれば、これが将来もっと縮まる、つまり社会的上昇の可能性の格差が縮小し、機会の平等がさらに進むと考えてもおかしくない、というか、そう考えるほうが自然である。現在から過去をふりかえれば、階層格差は「ある」。けれども未来に向かっていれば「ない」。(略)
 (しかし)1995年に行われた第5回SSM調査で新たに観測可能になった1936〜55年生まれでは、ホワイトカラー層用上層のオッズ比は7.9になっている。可能性の格差の縮小という従来のトレンドは消滅し、むしろ「戦前への回帰」が見られる。オッズ比以外にも、父主職による新たに格差が出現している。実は世代間再生産にかぎらず、マクロ経済統計も含め、80年代後半以降さまざまな格差が顕在化しており、日本社会は新たな階級化を起こしはじめている(略)。
赤坂真理の文章をひいて)あまりにも古典的な階級像。けれども、このアンバランスさのなかに見出すべきものは、時代錯誤ではない。触ってくるが言説がまわりこめない。そのことがこうした、奇妙なくらい実体的な「壁」を出現させるのだろう。言説の閉域を言説で直示しようとすれば、はるか手前で実体化させて召還するしかない。―

   
遊鬱
 
 佐藤氏はまさに2000年段階で今騒がれているような「格差」について、もともと総中流「幻想」であって、ただその「幻想」が維持できていたことに意味があったと、そのSSM分析に基づいて述べておられました。そして今「格差」についてあれこれ言っている議論なんてほとんどがその想定内のものに過ぎないですよね。嫌味ではなく根拠のある言説はむしろ時間が経つにつれその価値が分かるようになります。
 
安原
  
 この佐藤さんの論考は、論者分析でもありますよね。後藤さんの論座の論考はもとより、遊鬱さんがいつも書いていることも同様ですが、実際に統計を検証してみればキレる若者も怠け者の若者も増えていない。にも関わらず、実際に即した議論が政治レベル・論壇レベルでもなされていない。格差論議のなかの若者像(ニートやフリーター)もそうですが、論者たちが話していることが10年遅れくらいでさらに俗流化してひきずっていますよね。しかもそれにのっかって行政までも動いてしまっているということに対する危機感に基づいているという理解でお二人ともよろしいでしょうか?その辺りからお話をお願いいたします。
  
後藤
  
 はい、わかりました。『「ニート」って言うな! 』にも書いた通りなんですが、2000年前後から色々な青少年に関する疑問を抱くような言説がふと目につくようになってきました。はじめはBK1の書評といった形でそのようなことを物申していたのですが、2004年にはブログを開設してきちんと「俗流若者論」という検証をしていこうと考えました。
 そのきっかけは、世間で「キレる17歳」とか喧伝された頃に、私自身もそのような目で見られているのではないかという考えにとらわれて外に出るのも億劫になった時期があったんですね。でもよくよく考えてみれば、私の身の回りにはそんなマスコミで喧伝されているように「キレる」人間なんかいない、この落差は一体何なのかということで考え始めたのがきっかけです。
  
 今、思うとこの身の回りには当て嵌まらないけれど、日本全体としては悪くなっている、危なくなっているというような考えは浜井浩一教授が『犯罪統計入門―犯罪を科学する方法 』に書かれていた、体感治安に関する意識とまったくパラレルですね。身の回りの治安は悪化していないけれど、日本全体の治安は悪化していると「信じている」というやつです。
   
遊鬱
   
 私の場合はもともと国の数字というものに興味があって、警察白書とか犯罪白書あるいは防衛白書(笑)とかを読んでいたんです。そこで情報・知識として若者の犯罪は増えていないということは知っていました。そういった情報、そもそも白書なんて市販されていますし、図書館にも置いています、いまやネットでも公開されていますが、簡単に手に入るに関わらず、マスコミの報道でなされるのは若者の犯罪が凶悪化している、急増化したというウソばかり。しかも、その責がどこに降りかかってくるかといえば、『犯罪不安社会 』でも芹沢一也氏が書かれていたように宮崎事件をきっかけにオタクに降りかかってくることがしばしばと。
 私自身がオタクなんでそこは承服できないとそれが動機といえば動機です。どうしてこんな理不尽なことが罷り通っているのかと疑問に思いながら過ごしてきたのですが、さすがに我慢の限界を超えたのが、大谷昭宏と名乗るジャーナリストの存在なんですね。彼奴は、奈良で起こった女児誘拐殺人事件についてこの女児を人形のように捨てている犯行状況から推測するに犯人は彼の造語であるところの「フィギュア萌え族」だとのたまったのです。
 さらに大阪日本橋のロケなどを通じて、この中に犯人がいるというような心象形成を公の電波をつかって繰り広げました。ところがいざ犯人が捕まってみると「フィギュア萌え族」はおろか「オタク」ですらなかったんです。それは「創」に小林被告の手記として書かれていますので確認できます。結果、当然なこととしてオタクからメールその他で批判を浴びたのですが、彼奴はそれに対して悪びれるどころか「被害者遺族の気持ちを考えろ」というような理屈で開き直りをしてみせたんです。仮にも森永グリコ事件などを手がけ、犯罪報道を生業とする記者のはしくれでありながら、犯人が捕まる前に誤った心象形成を作り上げることがどれだけ犯人逮捕を難しくするかといったことも含めて素敵過ぎると思った次第です。
   
 ソースは、大谷のものしたやつですが、『趣味と犯罪の境界 社会が決めるべき― 「フィギュアマニア」に改めて思う ―』(http://homepage2.nifty.com/otani-office/nikkan/n050104.html 既に当該ページは消えたので私がコピペしておいたものを引用します)
 

 ―この欄でも私は事件について再々、怨恨などではなく、異常な少女性愛者による犯行ではないかと書いて、近ごろ特に目につくいわゆるフィギュアマニアや萌え族と言われる一部の人たちの嗜好に対して疑問を呈してきた。
逮捕された小林容疑者もやはり携帯電話には、幼女の裸体の写真や動画が数十枚も入っていたと言われるし、その類のビデオも多数押収されている。ほら、言った通りだ、と言いたいのではない。
ただ、私が事件直後からそうした性愛を容認するどころか助長するような社会に歯止めをかけるべきだとコメントしてきたところ、その手の嗜好を持つ方たちから事務所あてに抗議の電話やメールが殺到。加えて配達証明つきの公開質問状まで送りつけられてきた。この点についてはっきりさせておきたい。
   
 もとより私は人の趣味は自由だと思っている。だが、公開質問状での「その類の嗜好についてきちんと取材したのか」という指摘を待つまでもなく、実際に大阪の日本橋など、マニアが集う場所も取材してみたし、インターネット上でのやり取りも見せてもらった。そこにあったのはここで書くのもはばかれるような幼女や少女を性的に弄ぶというよりは、加虐的、嗜虐的な傾向の強いものだった。
  
 そうした趣味の人たちから寄せられる抗議の大半は、それらの趣味の中にも種々あって、それぞれ傾向が違う。なのになんでもかんでも一緒にするな、というのがまず一つ。もう一つは、あくまでバーチャルな世界のことであって、そのことと犯罪は結びつかないというものである。
   
 だけど世の中にはさまざまな人がいる。みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか。もし、欧米であのような劇画や動画を流したとしたら、厳しい懲役が待っている。
   
 今回の事件で被害にあった女児は一体、自分に対して何が目的で、あのような目にあわされたのか、まったくわからないまま亡くなって行ったのではなかろうか。社会がそんな被害を未然に防ぐために努力するのは、いわば当然のことではないのか。
   
 それでも彼らは人の趣味趣向に言いがかりをつけるなと言い張るのだろうか。警告を発する者には一方的に質問状を送りつけるのだろうか。
   
 利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない。―

 大谷をもって一事が万事というか、マスコミでは何か猟奇的犯罪が起きるとオタクに責をもっていき、はずれてもしらんぷりということが多すぎる。よくよく考えてみるとこれらをもってマスコミこそが「リセット症候群」、「記憶障害」なのではないかと。そしてこのようないい加減なことが許されるのは誰もマスコミ言説自体を検証しないからではないかと。ならば誰かがマスコミの言説を蓄積・批判をしていくしかないかと思いつつ、自分では面倒だし、アニメや漫画に耽溺していればそれはそれで幸せだしと…中々一歩踏み出せないでいたときに、そのようなことをしてくれている奇特な方はいないかと検索していたら後藤さんのページに辿り着いたんです。
 後藤さんの言説というのは時系列的に一人の人間を追っていき、いつどこでどのような発言をしたかという検証をしていき、単なる一回の文章からなる印象論ではなく、そのような言説を吐き散らかしている人間の本性というべきものをものの見事に晒しきると。このスタイルというのは使えるなと、自分でも似たようなことはできるかもと思えたのが2004年末ぐらいです。他の誰でもなく私と同じような疑問をもった人間がネットで検索なりなんなりしたときに正解というか光に辿り着ける一助となれればいいなと。
 
安原
  
 なるほど。ネットというインフラが整ったからこそ、後藤さんがやっている「情報集積型」の検証スタイルが可能になったと。
 あと、大谷さんの件ですが、犯罪事情を調べてた私から見てると、オタクって、一応モノをたくさん買ったり、集めたりするお金はあるわけですよね(短絡的?笑)。食べるものも削って買っている人もなかにはいるかもしれませんが、一応、生活に余裕がないとそんなことできませんよね。
 それにコミケとか行きましたが、何より楽しそうだし(笑)。いい場所じゃないですか。だいたい集まってる人みるとそんな若くないですよね。いわゆる「少年」ってかんじの人はほとんどいなくて、いい大人なわけでしょう。ほっといてあげればいいのに。チラシ配りもやりましたが、「みなさん、徹夜しないで帰りましょう!」とか夜遅くなると放送はいるし、いたってまともに運営され、スタッフさん少ないわりには、つつがなく整然とやっていらっしゃって、すごいな、と感心しました。あの人数なのにセキュリティスタッフほぼいないし。
  
後藤
  
 あはは、オタクに関してはほんとうに不当なレッテル貼りだと思いますよ(笑) 
 仰るとおり、今までは不特定多数に届けるには、ガリ版をいっぱい刷ったり、それこそ同人誌を作るなりといった人手もお金もとてもかかったんです。今ならば総てネット上に無料・有料含めてツールが用意されているんで出来るようになったと言えるでしょうね。
   
遊鬱
 
 いわゆるアーカイブなんだと思います。新聞、雑誌なんて一号過ぎるともう図書館やら行かないと目を通せないので、物理的に敷居が高くなるんです。しかし、ネットに一度誰かがあげておけば、そういうものがあったよなとググれば引っかかると。
 
後藤
   
 私はそのような問題意識をもって検索してきた人にコメント欄なりメールで「ありがとうございました」、「ある種の確信(笑)をもてました」と言っていただけると、それをやりがいにしようとなると本末転倒ですが、純粋にうれしいです。
 
 私は自分のところを「武器庫」として使ってもらえればと思っていますので。
 
安原
 
 「武器庫」はうまい言い方ですね。それはよくわかります。
 
後藤
 
 そうです。でも、ただ批判のための批判ではないです。
 まず、日本の若者(総体)は、そんな世間がびびるほど犯罪を犯していない、まずはそこをマスコミは正しく認識するのが筋ではないかということです。
 
 昨今の「格差社会」という名で覆い隠されている貧困の問題にしても、「ワーキングプア」という言葉があるように明らかに搾取されているのは若者です。こんな状況に貶められていて、しかもいい加減な俗流若者論が横行して…それでも日本の若者は犯罪を犯していない、誉めるべきだと思いません(苦笑)?
  
安原
   
 正直いって、「若者」よく暴れないなと思います。ほんとにモラル高いんじゃないですか?
 『犯罪不安社会』を編集してて思いましたが、「犯罪減ってるから安心せよ」、ってことだけを浜井先生は言いたいんじゃないと思ってます。増えても減ってもその数字の裏にどういう経緯があるのか、背景があるのか、それを見せることで、不安にはならないじゃないですか。
  
 ことさら「日本人が暴力的になったー」とか意味不明な「本質論」にいって不安になるのは短絡的だな、変だなって考えて欲しいのではないかと思います。前、エントリーで『アメリカは恐怖に踊る 』を紹介しましたが、数とすれば、ぜんぜん米国は多いですよ。でもきちんと経緯や背景を分析していれば、怖くはないですもん。
   
 私は「思考停止」で言葉をあんまり使いたくないんです。なぜかって「それは思考停止である」「君たち思考停止するな」って説明から逃げられるからなんですよ。「どんな思考停止なのか」の「どんな」のほうが重要だなと思うのです。
   
安原
   
 そういえば、「生活世界の崩壊」によって、警察の「現場力」がなくなった、聞き込みが効かなくなったみたいなこと書いてらした社会学者の方がいましたよね。一応証拠物件、以下。
   

宮台 「・・・・だって刑事犯罪の検挙率が3割になったんだぜ」
西村 「えっ。いまそんなに低いんですが。もともと8割だったでしょ。」
宮台 「そう。でも去年が28%に落ちて、今年は10%台に落ちたでしょ。18%か19%に落ちたでしょ」
西村 「マジでですか。なんでまた」
宮台 「だから、従来の捜査手法が通じないわけ。具体的には、足で稼いで目撃情報掴んで、あるいは証拠品から遺留品からやっぱり足で稼いで、物の足取りを追って。昔と同じようにやってるの。すごい人を使って。でも最近ではぜんぜん行き当たらないわけ」
西村 「いつ頃からですか、下がったのは」
宮台 「85年からだね。85年には7割台だね。先進国の中で一番高かった。いまG7のなかで最も低い」
西村 「そんなに低いんですか。じゃあ、働くより犯罪やったほうが儲かるんですね。いまの日本」
宮台 「そうだよ。だから、犯罪社会学者がそこを問題にしてるわけだよ。無形財産としてのさ、ある種の治安の良さっていうのは、それ自身が抑止力になるわけ。やってもどうせ捕まる。いまはさ、やっても捕まらねえんだよ。8割が捕まらねえんだからさ、やったものの勝ちだよ。そうなってるくると連鎖、もう連鎖が始まってるわけだ。そうで捕まらないからってことで刑事犯罪どんどんやるわけ」

  
 これ「隣に住んでる人とあいさつもしない現代社会」みたいなイメージからいっけんフムフムと思いますよね。だから、今地域と警察の連携だーとかなってしまってるんですけど、ただ数字見れば、すぐわかるんですよ。先の『犯罪統計入門』に「認知の端緒別構成比」がのってます。凶悪犯(殺人・強盗・放火・強姦)だけでいうと「被害者・被害関係者の届け出」が一番多いんです。(平成15年)74.3%、ちなみに警察活動による認知は4.4%しかない。粗暴犯(凶器準備集合、暴行、障害、脅迫、恐喝)は90・8%でちなみに警察活動による認知は3.2%です。そもそも聞き込みとかから解決する事件って少ないんです。社会変動につなげるほどの数じゃないです。
  
 被害者対策に重心をうつして、被害相談受けやすくしたことが認知件数の増加です。検挙率は余罪を追及しなくなったこと。数字の根拠は『犯罪不安社会』を読んでいただければいいですが、このこと自体は門前払いじゃなくて相談しやすくなったわけで私は良いことだと思います。なぜ警察を褒めないんでしょう?日本の警察力は落ちてませんし、被害者保護の観点から「相談件数」が増えててアップアップにはなっているという意味での増員っていうならわかります。だってストーカー犯罪やDVなんていうのを犯罪用件と認めるようになって、これには「精神的虐待」も含まれるわけですから、被害者か加害者か判別しにくいものが増えていて現場が対応に苦慮するのは当然想像できます。ですが、上のような論理だと『「警察力」と「地域力」が落ちているんで、「治安」で「共同体」復活』という処方箋になってしまいますよね。それが今どうなっていますか?実際に不審者対策で弱者放り込んでるだけで・・・・。被害者対策のほうにお金まわってます? こういうロジックで語っているのはもちろんこの社会学者の方だけではないですが、社会のシステムを変えるってなんでしょうね。まずは「お金と人材を投入してまわす」ってことじゃないのかしら?後藤さんや遊鬱さんは職質受けてません?
 
後藤
   
 安原さんのご指摘は『2ちゃんねる宣言―挑発するメディア 』ですね。実を言うと大学の前半あたりまでの私は、宮台氏の「顔見知りが少なくなったから検挙率が落ちた」(ただ、私が信じていたのは『2ちゃんねる宣言』ではなく、『M2われらの時代に 』でしたが)という議論を真に受けていました。検挙率をもっとも下げている原因が、警察の態度だと知ったのは大学2年の冬です。はっきり言って恥です。
   
 でも、いまだになぜか彼の議論の土台はかなり広範にわたって残っていると思うんです。さっきの三浦展が影響されてるみたいに。それは「生活世界の崩壊や弱体化」から国家という「大きなもの」にすがるようになるという、左派のナショナリズム論を規定する議論の他にも、保守派においても現代の若年層を論ずる場合、もっぱら現代の若年層の行動の特徴を「自己決定」「法律に触れなければ何をしてもいい」という、宮台氏が喧伝した行動様式に設定しているわけですから。
   
 あと、残念ながら(笑)、私は職質を受けたことがありません。まあ、秋葉原に行くたびに、覚悟はしているのですが(苦笑)。ただ、職質に対抗するために、オタク向けの法律知識を教える書籍やサイトは必要だと思います。もっとも、そうすると、テレ朝あたり「武装するオタク」ならぬ「理論武装するオタク」みたいな特集を組みそうですが(笑)。
   
安原 
  
 オタク向け(笑)だけじゃなくてもいいけど、「無罪にならない日本」としてはあったほうがいいよね。もうそういうページはあるのかもしれないけど。あったら、読者の皆様ぜひ教えてください。
  
遊鬱
  
 私の場合は職質は既に二回ほど体験済み、しかも一回は某アニメイト(笑)帰りでたっぷり所持していたグッズを漁られて嫌〜な気持ちになりました。私みたいなどう見てもか弱い子羊まで職質かけるなんて警官って暇なんだなーとも思いましたが。まあ、今回めでたく再選した「新銀行東京」設立知事の肝いりか、再開発絡みだったかは知りませんが、アキバでもオタクに対する職質は横行しました。ある種の弱者の典型たるオタを不審者扱いして、職質でもって萎縮させて自ずからアキバに寄らないようにして排除しているということを計算しているとするならば敵ながら天晴れですよ。
  
安原
    
 学校の登下校時間に若い男性がウロウロとのんびり散歩とか怖くてできない恐怖はあるかもねー。私でさえも「83運動」やってる学校のまわり行くの嫌だもん。
 先日も近くの小学校が運動会だったのですが、父兄の皆さんは大きな名札をつけていました。名札つけた人じゃないと学校に入れないんでしょうね。父兄の方が何か用事で外に出ていて色画用紙の大きな名札つけててちょっと驚きました。
 あと、ついこないだ警察関係者の書いてる論文、読んでて見つけたんですけど、読売新聞の「地域住人の防犯パトロールが実施されているが、負担が重いらしい」という記事に対して、「継続性が懸念される」とその実態調査もすでに行われてました。「効果ないのにめんどくさいよねー」って(本心では思っている人もけっこういると思ってたんですが)いう世論形成もされぬまま、うわっはやっ!って思いましたね。
  
安原
  
 話しを戻します。先ほどのネットというインフラが成り立たせるものという議論に繋げると、むしろ色々な言説・情報を回遊・検証することで正しい言説に辿り着けるということでしょうか。ネット上の若者言説がバッシングばかりだというようなことを報ずる既存メディアのほうがむしろバッシングばかりしているのではないかという皮肉な構図ですね。
 
 ただ、2007年の5月号の「諸君!」の麹町電網測候所でネットで言われる「マスコミ脳」につて触れてましたね。私はけっこういいところを突いてるなと思って読みましたし、ここ最近ですが、2ちゃんねるとかの良スレって呼ばれるところ読んでいても、そんなに「若くないな」ってかんじがします。もうすでに「若者文化」じゃなくなってるんじゃないかと思ったりもしますが。そのあたりについて、お二人はどう思います?
  

派遣先の工場が自分が作ってる製品の値段が、自分の月給2ヵ月分だと知った。何かやる気をなくした。これからは適当にお仕事をやることにした。どうせ買うのは、ある程度金のある奴だ。何か不具合があっても知ったことじゃない。すべて格差社会が悪い。自己責任の自業自得だ

給与低いなあ。上がんないかなあと思っていたら、派遣で俺の上で働いている人(バリバリお仕事できても社内で頼られまくってる)が給与17万だと聞いたときは半泣きになった…息子さんもいるらしいし大変だ…めちゃくちゃだよな、日本

国という感覚もまた、そんな電網環境が整備されていく過程と無関係のはずがない。それは単に「ネット右翼」だの何だのとレッテル貼りをするだけの知的怠惰とはまったく別。それこそまさにデジタルデバイド。旧世代リテラシーに安住したままの化石たちの思考停止。別名、マスコミ脳。
 
● 談合を非難しているのに、記者クラブという巨大談合組織が存在する
● 丸投げを非難しているのに下請け制作事務所に番組を丸投げしている。
● 公務員や銀行など護送船団と揶揄しているのに、あらゆる制度によりマスコミが庇護されていることをほとんど触れない(記者クラブ制度 再販制度 東京キー局制度)
● 企業や個人(特に公務員)の不祥事は徹底的に叩くが、マスコミ側の不祥事が発覚した途端、隠蔽を謀り何事もなかったかのような振る舞いをする(例 朝日新聞社息子の大麻所持 日テレ炭谷アナの盗難事件隠蔽)
● 不偏不党を謳うが、スポンサーやイデオロギーのフィルターがかかっていることがほとんど
  
いまやネット住人たちのほぼ常識となったマスコミ観。それ自体はなるほどメディアリテラシーの向上、ではあるだろう。だが、と同時にそんなマスコミを介した情報のリリースがないと、ネットの情報のほとんどもまた成り立たない。まさに、仲良く喧嘩しな、の関係。と言って、だからネットはくだらない、と断罪しても見せるのも新たな硬直を招来する。ここでもまたネットと○○、という対立項は陰に陽にわれわれの眼を曇らせることに。

ひろゆきがいってたじゃないか。ネットで2ちゃんねらが「情報だ」と思っているのは「情緒」にすぎない

さよう、こねくりまわしているだけ、ではある。だが、そのこねくり回し方にも上手下手はあるし、それを月旦する名無しの観巧者もこれまでよりはるかに広く、同時代の桟敷に居並んでいる。―

後藤
  
 ネットの言説がマスコミにかなり依存しているというのは間違いないでしょう。ただし、それまでは流しっぱなしだったマスコミの言説、特に若者論が、またそれまではアカデミックな分野に限られていた批判、検証、あるいは社会的な位置づけが、インターネットを通じて多くの人にできるようになった。それは素直に評価すべきだと思います。
 
遊鬱
  
 私は「諸君!」結構好きです。少しだけ付け加えさせてもらうと、マスコミは調査報道をしないならば…ググル程度の調査すらあまりしているようには思えませんが(笑)、共同通信があれば不要です。へんに賢しらぶった社説やら解説で歪曲されるとむしろ迷惑です。その意味で朝日や産経ぐらい間に挟まれているレンズの歪度が明らかなほうがわかりやすくていいです。読売、毎日、日経のように中途半端なものはより質が悪い。あと、私はニュー即に代表される場でなされているのは「情緒」だけでなく、そのようなマスコミによって加えられた余分なものを削ぎ落としていく作業を含めた「分析」もあると考えています。ただノイズも多いので取捨選択は必要ですけど。
 
後藤
  
 ああ、それは確かに。私も、携帯で共同通信時事通信のメルマガをとるようになってからは、新聞を読む回数は激減しましたし。うちは読売なのですが、もう雑誌の広告と文化面しか読まなくなった(笑)。
 
安原
  
 なるほど。困ったね…。あと、もうひとつよく言われるのは、「ネットは一次情報がない」って批判ですけど。でもねーこれもプロじゃないですからね、取材しようにもお金出ないですしね、とかいうと「俺らの時代は持ち出しでやった!」とか言われちゃうんだよね(笑)。編集もやらせてみて、原稿見て文句言えばいいのにねー。私なんかはそうだったんだけど。まず昔は人が足りなかった。そういうかんじで、今の仕事やってるマスコミのフリーランスの人多いと思うんだけどね。
 
遊鬱
  
 その一時情報に関するものとして、個人的にはあまり興味はなかったのですが既にネットに萌芽らしきもの、可能性の目はあったということだけは指摘しておきます。オーマイではなく、泉氏や松永氏が立ち上げようとなされていたもので、その経緯や経過はともかく企図はそういうことだったと私は思っています。
 
参考;泉あいさんの新しい報道機関案に関わった経緯
http://www.kotono8.com/2006/12/09newssite.html#comments
 
 それにいわゆる「マスゴミ」の分別作業は必要ですよ。炎上するという意味でも「燃えるゴミ」と「萌えるコミ」の区別みたいなものですか…って滑りましたね(苦笑)。私は「創」や「R25」のような調査報道はいいと思っています。
 それに僕も後藤さんもそうですが、バッシングしてるばかりじゃないです。後藤さんは定期的にブログ記事としてあげておられる書評でもワーストだけでなくベストもあげておられるし、私なんて坂元章教授に関しては信者かといわれてもおかしくないほどに絶賛しています。先ほどの後藤さんの「武器庫」というのは言いえて妙でして、「武器庫」には正しい言説も、いや正しい言説こそが必要だと考えています。

 
後藤
  
 確かにそのとおりです。普通のマスコミが専門家の研究を平気で捏造、単純化する、あるいは信頼できる研究を出さない、という状況で、アカデミックな見方を広げる機能としてのネットの機能というものにも注目しています。『「ニート」って言うな!』を出してお金が入ってくるようになったり、あるいは国立国会図書館のサービスを利用するようになったりして、専門的な論文や専門書に触れる機会が多くなったので、これからは大いに活用させてもらいますよ。
 
安原
  
 一次情報がネットにあまりないわけで、ふつうに考えたらやっぱりマスコミの情報がきちんとすればよいものとして取り上げらる頻度はあがるよね。あと後藤さんおっしゃるようにネットの利点としてはきちんとした研究者の論考などに簡単にアクセスして見ることができるようにはなりましたよね。私もよく利用してます。
 
 『犯罪不安社会』で浜井浩一先生が引用している犯罪学者の本に『統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門 』という本があります。アメリカではある社会問題を過剰に喧伝したい人によって、「統計」が都合のよいように持ち出されてる状況があるんです。それを「スタットウォーズ」っていうんですが、かなり不毛な戦いになってるんですよね。

   
 ここで「シニカルな人も善意の人も(文中は素朴な人って表現ですが)、あんまり変わらない。分別作業が必要だ」みたいなことは書いていらっしゃいます。詳しくは本書を読んで欲しいんですけど。
 
安原 
 
 先日、友人にふと言われて気がついたのですが「治安悪化」とググルと浜井浩一さんの記事がグーグルTOPに来ます。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E6%B2%BB%E5%AE%89%E6%82%AA%E5%8C%96&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr =
 「過剰収容」とググると私のブログがグーグルTOPに来ます。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E9%81%8E%E5%89%B0%E5%8F%8E%E5%AE%B9&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr =
 「治安悪化」をまさに言葉どおりに信じている人や、「過剰収容」が「治安悪化」からもたらされていると信じている人がこれらについて知りたいと思ったら、まずは浜井浩一さんの記事と、私の記事(浜井浩一先生の論考ですが)を見るということなんですよね。自分でも知りませんでしたが、これは非常に大きいことだなあと思いました。つい先日も大学の同級生に、ご主人が大阪のNHKの人がいて、『累犯障害者』を調べていたら、私のブログが上位にきていて、5年ぶりくらいに話をして驚きました。
 グーグルはリンクの多さで上位を決めていますから、私はある意味ネットのリテラシーの高さを証明することなのではないかとも思いました。そしてネットの記事はマスコミ批判をしていてもしていなくても、マスコミのデータに頼っているのは確かだと思うですが、アジェンダ設定という意味では、ひとりでもできることがあるんだと。小さな希望が(笑)
 
遊鬱
 
 グーグル検索の上位表示については、それって「諸君!」が言うような「上手なこねくりまわし方」のひとつになっているのかなと思います。トラカレさんが戦略的にやっておられましたよね。
 
参考;「ジェンダーフリー」でgoogle検索をかけたらアレな結果になる件について
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20051006/p1
 
 最近、私、義家弘介教育再生会議室長さまに粘着(笑)していてですね。この御仁かつては母校の日の丸・君が代反対の卒業式を礼賛していたかと思うと、今やぬけぬけと自分は日教組に洗脳されていたとか、ほかにもバーチャル社会の弊害から子どもを守る研究会でゲーム批判を展開したかと思うと、任天堂のプロモ模擬授業で教鞭をとったり、教育再生会議室長という要職にありながら、学校問題を茶化すような着ボイスを売り出したり、塾の広告塔になっていたりといったなかなか素敵な御仁なんですが、なぜかマスコミは批判しない。
そこで義家弘介研究会(http://www20.atwiki.jp/mekemekedash/pages/1.html )というそれら数々の疑問を検証している素敵なページが上位に来るように私も密やかに頑張っています。今や当該ページがググルと三番目に来ています。
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLG,GGLG:2006-20,GGLG:ja&q=%e7%be%a9%e5%ae%b6%e5%bc%98%e4%bb%8b

 最近、こういったツッコミ作業は結構好きなのかなと自覚しつつありますが、本来は、こんなことをやらないで済む状況というのが幸せなんでしょうね。でも、マスコミがやるべきことをやらないならば仕方ないし、誰かが細々とやるしかないよねという感じです。私は別に新たな公共圏とか第五の権力みたいな大それたことは考えていなくて、単に自分の愛好するオタク表現を守りたい、そのための「武器庫」作り+自分自身の備忘録という形で地道にやらせていただいています。
 
後藤
 
 私は紙の媒体でも書けたらと考えているので、こうして論座に投稿したりしているわけですが(笑)まあ、「武器庫」は出来るだけわかりやすい場所に置いておかないと皆に使ってもらえませんし。どんどん使って欲しいと思います。「左」の議論はコミュニケーション論ばかり追って、物の本質を見失っているというか、議論ための議論のような印象を覚えることもありますね。その中で何が話されているかどうかにはほとんど触れられない。ネットワーク分析に関しても、「祭り」以外のものが出てくることはありませんし。何らかの意図に縛られて、自分から視野を狭くしてしまっている。ナショナリズム論とかその典型でしょう。だからコツコツとやるしかないのかなと思います。
 
安原
 
 でもマスコミもネットも、両方で不毛な対立を煽っている部分もあるよね?
 
後藤
 
 まずネットのほうから述べると、あおっているというより正直言って「達観」しているような場合も多いようにも見えますが(もっとも、私はそういう見方のほうが健全だと思います)。若い世代が対立を煽っている、という見方には、どうも与することができないのです。
 マスコミのほうに関して敢えて「ネット」と「マスコミ」を対立構図としてみた場合(私はこういう見方は好きではないし、すべきではないと思うのですが)、相手に対する憎悪に関して言えば、おそらくマスコミのほうが強いかもしれません。最近では毎日新聞の「ネット君臨」とかその典型ですね。柳田邦男なんか出してきた時点で終わってますよ。

 
安原
 
 「ネット君臨」ですね。水俣病とネットがいっしょですもんね。あれは、左翼のトラウマみたいなものじゃないんでしょうか。ほんと困ったもんだよねー。
 
後藤
 
 あの企画って、毎日の社内ではほとんど絶賛らしいですからね。
 
安原
 
 えーほんと??
 
 さて、後藤さんが批判しているエセリベラルではなくて、たとえば「真のネットリベラル」の定義を改めてするとどうなりますか?
 
後藤 
 
 まずは、批判的資料、数字、矛盾点の提示、指摘ですかね。批判的合理主義と言ってもいいと思います。「反権力」の人は、白書を開くこともないし、電卓を叩くこともないから、とりあえず、我々がやるしかない(苦笑)。
 
遊鬱
 
 遅れてきたモダニスト宣言(笑)みたいですが、まったくもって同意です。付け加えていただくとすると、「表現の自由」の尊重ぐらいでしょうか。
 
安原
  
 さっき「スタットウォーズ」のこと出しましたが、論者の議論がアメリカのような統計の「定義」論議やら、「調査方法」の論議までいっている状況とはとてもいえませんからね。
 ただ、アメリカも大手メディアは煽る場合はよりひどい気がしますし。そういう意味では宗教国家でもなくて、均質性が高い日本のほうがきちんとした議論が少なくてもいいから出れば、変わるのかな、という可能性もある気がするんだけど。
 まあ遊鬱さんいうように「ポストモダン」とか「後期近代」とかゆるいこといってる前に「近代人たれ」ってことかなあ。
マスコミとネットの対立というような一方を全否定、他方全肯定というような単純構図は避けたいんだけどねえ。でも、これから署名記事が増えてくると、〜新聞への批判ではなく〜記者への批判という形でもより緻密な批判が加えられるということですか。いやでしょーねー、記者(笑)。でも、がんばって欲しいですね。
 
遊鬱
  
 TBSの言うところの 「励ましの言葉です」ってことですか?(笑)
 
安原
  
 (笑)。最後に。マスコミ関係者の多くは、やはり、視聴者や読者の反応を考えながら報道するので、反応がないものは載せにくいといいます。…というわけで、「論座」を読んでいただいていいと思った方は「GJ」的な反応をひとことでもいいから、「論座」編集部にお送りいただけると幸いです。
 批判のほうが送りやすいと思うんですけど、いいなって反応でなかなか編集部に送らないと思うので、そこはぜひぜひ。それが後藤さんの次の仕事につながります。編集会議のときに通しやすいですよ「こんな反応きてましたーねっ編集長」って。もちろん批判でもかまいません。そういう動きが出ればこういった言説市場ができるわけだから、ほかに書きたい人だってチャンスが広がるわけです。
 ちなみにこの号は私も雨宮処凛さんの『生きさせろ! 難民化する若者たち 』の書評を掲載してます。
   
後藤・遊鬱 
  
 そういうことなら何卒清き一票をよろしくお願いいたします。
  
('-^*)/