日本人は周公の末裔?

     
その後大陸での血統は絶えちゃったから日本人こそ中華の正統!?ウリナラマンセー!\(゚∀゚)/☆
   

周(しゅう)(紀元前1046年ごろ-紀元前256年)は中国古代の王朝。
殷を倒して王朝を開いた。
国姓は姫(き)。

周の伝説上の始祖は后稷(こうしょく)と言う。
后稷は帝舜に仕えて、農政に功績があり、舜から封ぜられた土地の近くに姫河と言う川が流れていたので、これ以降姓を姫としたと言う。・・・

后稷の12世の子孫が古公亶父(ここうたんぽ)である。
古公亶父の領地には善政が布かれていたので栄えていたが、戎狄(じゅうてき)に攻められて首都を失ったが、岐山(きざん)のふもとの周原に移り住みここで前以上の繁栄を手に入れたという。この時から自分達の事を周と呼ぶようになった。
また古公亶父は大族の姜族の娘である太姜と結婚し、その力を得た。姜族羌族の一派とされ、後の太公望が出た族である。

古公亶父の末子である季歴(きれき)は生まれる前に、「季歴を跡継ぎにすればその子が周を繁栄させる」と予言されていた。古公亶父はこの予言を信じて季歴が後を継ぐ事を望んでいたので、長子の太伯(たいはく)と虞仲(ぐちゅう)は出奔して南の荊蛮(けいばん)の地に行き、後に呉の始祖となったと伝説化された。

古公亶父に期待されていた季歴の子の文王は期待通りに善政を尽くし、周の勢力は拡大し、殷より西伯(国を東西南北に分けた時に西を管轄する権限を持つ諸侯)に任ぜられた。

文王の息子の武王は弟周公旦(しゅうこうたん)・軍師太公望らの助力を借りて殷の帝辛(紂王)を倒し、周王朝を建てた。

URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8

呉(ご)(Wu)、(紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。
現在の南京周辺を支配した。
君主の姓は姫。
元の国名は句呉。

長子太伯と次子虞仲は季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れていった。季歴は太白を呼び戻そうとしたが、太伯はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があった。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に国名を呉と改称する)と称し、其の後に国は、虞仲が後を継いだ。

6代王の闔閭(こうりょ)の時代、呉は強勢となり、名臣孫武(そんぶ)、伍子胥(ごししょ)を擁し当時の超大国楚を討った。しかし新興の越王勾践に破れ、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。

URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_%28%E6%98%A5%E7%A7%8B%29

キ族
古代中国の周王朝の王家がキ(姫)姓であり、朝鮮半島にはキ(箕)氏朝鮮があった。朝鮮から日本へ渡ったというスサノオ神話の一族がキ(紀、木、城、鬼)であり、上陸地点かもしれないあたりは伯耆(ほうき)国、やはりキである。彼らが征したとおもわれる東国がアズマ(我姫)と書かれて、ここにもキ(姫)の字が登場している。 吉備真備が登場する「江談抄」の記事で、日本が「東海姫氏の国」と書かれている{長田順行「暗号」ダイヤモンド社、一九七一年、一七七頁}ように、キの国の範囲は、ときには、日本全体をさすほどに広い。 日本書紀巻第一で、スサノオの子、イタケルのひ孫にあたるというアマノフキネがスサノオが出雲で手に入れたという草薙剣天皇家に差し出しているので、ここでスサノオの一族は天皇家の支配に属したことになる。 彼らをキ(紀、木、城、鬼、姫)族と総称してみる。

URL:http://64.233.179.104/search?q=cache:quPIv6ZzfSYJ:www5.ocn.ne.jp/~kennai/kasecu.txt+%E7%B4%80%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A7%AB%E6%B0%8F&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=14

5、朝鮮半島の文、漢氏

 後漢書(孝)安帝紀には、「(107年)冬十月。倭国遣使奉献。」と記されていますから、倭面土国王帥升が、北九州を離れて洛陽へ向かったのは、107年の四月頃でしょう。奴国と戦ってこれを破り、渡航の安全な春を待ったと考えられますので、呉の太伯の末、奴国を破ったのは、106年ということになりそうです。
   
 A・D21〜22年に中国を離れたのなら、その間、八十数年をどこかで過ごしていたわけで、最も可能性が強いのは海を渡った対岸の馬韓です。しかし、この国は、その中の一国にすぎなかった百済に統一されてしまったため、その全体史は詳らかではありません。
 ただ、非常に複雑で、韓を建てた箕氏の滅亡後(*)、統制が取れていなかったことが魏志韓伝に記されていましたし、不弥国、卑弥国という邪馬壱国につながりそうな国名も見られました。《*/B・C195年建国〜A・D246年、魏が滅ぼす》
    
 おそらく、文・漢氏の移動した後漢初期の馬韓は(この頃は箕氏の国)、仇敵の呉人(倭)が優勢だったはずで、元越人のこの一族には居心地が悪かったでしょう。さらに新天地を求め、南へ、南へと移動することになったようです。

URL:http://72.14.207.104/search?q=cache:FOfgQFbwLY8J:boat.zero.ad.jp/~zaw10107/5/kika_2.htm+%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%81%AE%E6%9C%AB&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=8

■ 朝鮮半島の稲作との前後関係

考古学者の大部分は、稲作は朝鮮半島から来たと考えている。その理由は、
C14年代法(AMS)による朝鮮半島の弥生早期の遺跡の年代(前800〜前600)が、日本の稲作開始の年代(前5世紀)より古い。
石包丁の形が類似している。
しかし、今回の測定では、年代的には日本のほうが早いというデータであるし、また、石包丁の形からだけでは、朝鮮から日本に稲作が伝わったとする根拠には不足である。

静岡大学佐藤洋一郎助教授の述べるように、稲作は、同じような時期に、長江流域から日本と朝鮮半島に、海路で直接伝わったものがあると考えられるのではないのか。

■ 倭人は太伯の末であるという伝承
倭人は呉の太伯の末裔であるという伝承がある。
太伯は、周の王室を離れ、長江流域に呉を建国した紀元前12世紀頃の人と言われる。今回の測定結果と近い。太伯が稲作技術を持って日本に渡来した可能性もおぼろげながらある。

URL:http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku213.htm