民族歴いろいろ

      
いろいろな紀元があって面白い。
皇紀は西暦の真似ではじまった。(1872年)黄紀は皇紀の真似ではじまったらしい。(1903年)壇紀はさらにその真似。(1948年)
       
(´-`).。oO(世界の始まりから何年ってのはわかりやすくて良いなあ。)
    
ユダヤ歴:世界の始まりから   西暦+3760
皇紀:初代天皇即位から     西暦+660
・黄紀:黄帝即位から       西暦+2698
壇紀:壇君即位から       西暦+2333
仏暦:釈迦入滅から       西暦+543
ヒジュラ暦:始祖脱出から    西暦−621*
     

ユダヤ暦の年は、西暦に3760年を足した年数に等しい。
聖書に基づいて天地創造から計算したという年数を採用したものだそうである。
URL:http://www.ijournal.org/IsraelTimes/discover/calender.htm

皇紀
    
神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、大日本帝国での神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀年法である。通称は皇紀(こうき)、神武暦(じんむれき)、神武紀元など。

明治5年旧暦11月15日(当時の日本の暦は太陰太陽暦天保暦で、太陽暦グレゴリオ暦だと西暦1872年12月15日)の太政官布告第342号により定められたもので、1873年明治6年)1月1日の日本における太陽暦採用と同時に施行された。
    

干支は暦法に依存せず60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年逆にさかのぼると西暦紀元前660年に相当西暦紀元前660年と計算された事から、神武暦は西暦よりも660年大きな値となり、例えば西暦2000年は、神武暦2660年となる。
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E7%B4%80

黄帝紀元(こうていきげん)とは、中国の清末、革命派が用いた紀元。
中国人の先祖とされる伝説上の帝王黄帝にもとづく。
紀年法としては黄帝紀年(こうていきねん)という。

光緒29年(1903年)、劉師培は『国民日日報』に「黄帝紀年論」を発表し、年号制に反対し、同時に康有為ら変法派が主張した孔子紀年にも反対した。劉師培は黄帝誕生の年を紀元とすることを主張し、その年を4614年とした。 しかし、生卒年は文献上で一致する年がないため、宋教仁は黄帝即位の年とされる癸亥の年を紀元とすることを主張し、1904年を黄帝紀元4602年とした。中国同盟会の機関誌『民報』を始めとして革命派の雑誌はこれを採用した。

武昌蜂起が起こり、湖北軍政府が成立すると黄帝紀元が用いられ、各省政府もこれに応じたが、共和政府樹立の議論のなかで黄帝紀元は帝王在位に基づく紀年法であって民主共和の精神にそぐわないとの意見が出された。

孫文中華民国臨時大総統の地位に就くと、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)を中華民国元年元旦とすると通達し、黄帝紀元の使用は停止された。

URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D%E7%B4%80%E5%85%83

檀君紀元(タングンきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を起点とする紀元である。檀紀とも呼ばれる。
    
『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとに檀君即位を西暦紀元前2333年とし、これを檀君紀元1年としている。
    
大韓民国では独立後、1961年(檀紀4294年)まで用いていた。一部の韓国のメディアでは表示を続けているところもある。
   
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%90%9B%E7%B4%80%E5%85%83

その7:劉師培(1884〜1919)

とにかく不思議な人間です。楊州の代々学者として知られる家に生れ、彼も若い頃から将来を嘱望されていたにも拘らず、突然革命に目ざめてしまった。そして、民族主義でやめておけば良いものをアナキズムにかぶれてしまい、最後には革命を裏切って清朝のスパイになり果ててしまったのである。これだけでも近代中国では一級の「変節漢」であるのに、困ったことに民国成立後には袁世凱の帝制復活を支持する「籌安会」の一員にまでなってしまうのであります。

本人が変なら女房まで変わっていた、というのは言い過ぎでありましょうか。何震という女性が彼の奥さんなのであるが、当時の革命派の中でも有名な女権主義者であった。「女子復仇論」「女子解放問題」などという勇ましい論説まで発表しているが、かなり奔放な性格でもあったようだ。というのは、当時彼らの近くで生活していた人物の回想録に次のような部分があるのです。

「あのワンミャン(劉師培の夫人何震の親戚である汪公権のこと)という人おるでしょう。ね、人の悪口言うんじゃないですけどね、そのね、劉師培はですね、性的に不能です。そうすると何震はその人と関係あるというんです。もうずっと前からですね。聞いているんです。」「〔何震〕の体は中くらいの人です。丸顔でね。別に美人じゃない。かれ(劉師培)は要するに世間知らずですね、夫婦げんかすると、道ばたのミゾにつっこまれて、そこでアーンアーン泣くんです、劉師培のほうが。」
   
TITLE:ドクター・嵯峨の近代中国人物余話
URL:http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~saga/yowa7.html

宋教仁(そうきょうじん、1882年4月5日 - 1913年3月22日)は、中国清末民初の革命運動家、政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用いた。
   
幼少より塾で学び、1900年には生員の資格を得る。1903年、黄興を知り排満革命思想に目覚め、黄興、陳天華らと華興会を創設し、副会長に推される。1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝に露見し、同年末日本に亡命する。
    
1905年6月、法政大学に入学する。雑誌『二〇世紀之支那』を発行する。7月、宮崎滔天を介して孫文を知る。8月、興中会、光復会、華興会が合併して中国同盟会が成立する。12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺し、遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。1906年早稲田大学留学生予科に学ぶ。1907年3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴く。夏、日本に帰る。1908年、『間島問題』を著す。1910年末、帰国する。1911年7月、中国同盟会中部総会を設立する。
     
同年10月、武昌蜂起が起き、宋も武昌に入った。11月、北一輝と上海にいたり、各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席。翌1912年1月、中華民国が成立し孫文が臨時大総統に就任した。翌月宣統帝が退位して清朝が滅亡、さらに翌月、孫文に代わって前政権の実力者であり、大きな軍事力を持つ袁世凱が臨時大総統に就任した。
     
しかし、袁は彼を大総統につかしめた革命勢力を好まず、インフラ整備などの近代化政策を自らの手で強権的に進めようとした。宋は最高権力者が専権を振るう状況よりも、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させしめると考えた(詳しくは後述)。そこで革命組織を改組して国民党を組織、事実上の党首として活躍、同年12月の選挙では圧勝した。
     
この間、袁世凱は宋の懐柔を図るがことごとく失敗した。業を煮やした袁は刺客を放ち、1913年3月、上海駅頭で宋を射殺した。なお、宋教仁の唯一無二の理解者であった北一輝は、宋暗殺の刺客を放ったのは孫文であったとしている。
    
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%95%99%E4%BB%81