やっぱり箸墓は卑弥呼の墓

 

 
漏れは箸墓はヤマト国の姫巫女の墓でFAと思っている。
古墳の時代測定がけっこう大雑把だという本は読んだことがあるので、そのうち年代修正されるだろうと思っていたらそうなった。(^_^)
毎回思うのだが古代の歴史記事って結構正確だなあと。
文字資料は簡単に否定できないってことだ。
  
追記)
ところで箸墓ってのは被葬者の死因が箸が性器に刺さったことからネーミングされている。
それってどういう意味があるんだろうね?
つうか古事記とかって女性器の話ってよく出てくる。
有名なアメノウズメのストリップだってあそこ見せるのがポイントだし、霊力があると思われていたんだろうね。

この埴輪はまさにあそこを見せている姿を模している。
だからあそこをケガして死ぬというのは霊力を損ねたということなんだろうな。
   
追記)
ところで、卑彌呼が姫巫=日女御子説に反論するときに狗奴国の「卑彌弓呼」はどうすんだよ、というのがあった。
でもこれは日子御子=彦覡だろう。「卑弓彌呼」を書き違えたと思われ。
みんな「太陽の子」を自称していたのね。
  

奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定
2009年5月29日3時5分
 
 古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗博物館歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。
 
 「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。
 
 全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。
 
 考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。
 
 歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。
 
 31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。
 
歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」と話している。(渡辺延志)
http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355_01.html

 
ちなみに下記の説は、闕史八代含め初期”天皇”は実在するが、縦系譜でなく横系譜で説明できる、というものだが、漏れは実在説こそとるものの、初期天皇は原ヤマト国の”大倭”であり、実験を掌握したのが”卑弥呼”死後の大乱を収集した崇神天皇からとみている。統一後のヤマト王権は急速に力をつけ、中華王朝衰亡後の朝鮮半島の直接経営に乗り出す、その総仕上げを神功皇后の逸話として伝え、内外統一帝国の最初の大王として応神天皇が置かれているのだ。任那記事の意味はそこにある。2代目の皇帝である仁徳の墓が巨大なのは知っての通り。
 

Q42.闕史八代の天皇は架空か?                                      戻 る
A42.記紀の綏靖紀から開化紀までの八代天皇の事蹟が極端に少ないことから、紀年延長のために創作されたのだと言う曲学阿世歴史学者の説が戦後長期間にわたって日本国民を洗脳している。
 紀年延長の目的だけなら八代などと遠慮せずに五十代以上の架空天皇を創作した方が無理が無いのである。
 しかし、後裔の無い天皇乱造を避け同時代に実在した天皇系譜の人物を縦に並べると同時に古代天皇の在位年数と崩年にゲタを履かせて極端な紀年延長を行い、神武天皇即位年の紀元前660年に辻褄を合わせたのである。
 例えば、紀年延長後の応神天皇の在位(270−310年)と百済辰斯王(実は即位385年)が応神天皇3年に即位の記事に誤差が有るように、過去に遡るほど対外関係の紀年差が拡大する矛盾が露呈する。
 神武紀に新羅関係の記事が有るはずだが、紀年延長により神武即位を新羅も存在しない紀元前660年にした為、対外記事を削除せざるを得なくなったのである。(神武皇兄の稲氷命が新羅王始祖説あり)
 この事実を覆い隠すために日本書記編纂中の持統天皇五年(691)に皇別の雀部氏(神武天皇裔)、春日氏(孝昭天皇裔)、阿部氏、膳部氏、羽田氏、巨勢氏、石川氏、平群氏、紀氏(以上孝元天皇裔)、上毛野氏(崇神天皇裔)と、有力氏族の石上氏、大三輪氏、大伴氏、佐伯氏、穂積氏、采女氏、安曇氏、藤原氏の十八氏に提出させた纂記を焼却して証拠隠滅を謀ったものと思われる。 ※詳細は初期天皇系譜仮説を参照。
 後世、多くの家系は残存記録を元に系譜を復元した様だが、上古の系譜は不鮮明な家系が多いのである。(略)
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/fq&a.htm

 

投稿 貧乏郷士 | 2009/05/30 08:43
 
これについて、いろいろ語るのは面倒だが...
 
最近の考古学者ら歴学学者の意見では、「邪馬台国」=「大和国」で確定です、ほぼね。
で、箸墓古墳が、卑弥呼の墓ならば、「卑弥呼」=「媛命」=「倭迹迹日百襲媛命」で確定です。
倭迹迹日百襲媛命とは、何者なのか?自分で調べてください、野次馬さん。
つまり、魏志倭人伝の西暦240年代の記述が、日本書紀古事記で言う、どのあたりの記述かも分かってきた。
 
というか、自分は前にも、このブログに、そのことを書いたよ。反日学者は大慌てだと思う。このままでは、日本の皇室の歴史が長いのが証明されてしまうから。
 
だいたい、よく、日本の皇室の最初の歴史が嘘っぱちって、決め付けて語る奴らが多いが、嘘つくなら、もっと、うまく嘘つくでしょうw あんな、やたら寿命の長い天皇なんて創作せずw もっと、天皇の寿命は普通にして、代数を増やしたりしてなw
 
魏志倭人伝にも書いてあるが、古代の倭人は、暦の数え方が違っていて、中国人から見たら、やたら長寿がいたらしいw それが、古代の天皇の寿命の秘密でしょう。ただし、記紀を書いた西暦8世紀には既に、古代の天皇の干支没年と大雑把な寿命しか分かってなかった。それは、古事記をみても、だいたい、分かる。
 
しかし、日本書紀は、中国との外交に使うから、無理して、編年体で書こうとして、細かく年代を書こうとした。それが、後世の歴史家が混乱した始まり。日本書紀の編纂者は、おそらく、魏志倭人伝の二人の女王の記述に着目したはず。それが、結局、分からなかったから、媛命と神功皇后という、二人の女王ということで、納得するしかなかった。そこで、年代に無理な改ざんを加えた。おそらくね。古事記にも神功皇后が登場するから、彼女の出来事や事柄は、ほぼ事実なんだろうけど、年代に関しては、日本書紀のほうは、無理に作為をいれた。

 

参考)結構重要な初期天皇
①神武 西暦元年頃
卑弥呼 172年生まれ185年に13歳で即位、248年に76歳で没)
崇神 258年没 
⑮応神 370年没 
21雄略 489年没 倭の5王の最後
25武烈 507年没 古代の古代の終わり

 

卑弥呼の墓」発見か?箸墓古墳の前方部正面に幅60メートルの外濠 - 奈良
 

 
邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市前方後円墳箸墓古墳(3世紀半ば―後半、全長約280メートル)で、前方部正面に幅60―70メートルと推定される外濠跡が見つかったことが27日、分かった。
外濠の幅は、同じ纒向遺跡にある箸墓以前に築造された古墳と比べると突出した規模。
調査した市教育委員会は「古墳は箸墓の時代から、急に周囲と隔絶され近寄りがたい存在になった。被葬者の力が他を圧倒していたことを示すのではないか」としている。
 
外濠跡はこれまで前方部の側面2カ所で確認されていたが、正面では初めて。
本格的な前方後円墳の始まりとされる箸墓の築造時の墳丘構造を考える材料になりそうだ。
前方部の南西約60メートルで、古墳側に向かって落ち込む深さ1.3メートル以上の傾斜を発見。
底付近はアシなど湿地に生える植物と泥が混ざった土層が堆積し、古墳築造時と同時期の土器が出土したことから、外濠の端と判断した。
NIKKEI NET 2008/08/27

 

漢末の鬼道と卑弥呼の鬼道
 
 このように、鬼道についての史料を通覧するならば、次のことが言えるのではないだろうか。鬼道とは、巫覡が卜占その他の妖術を駆使して鬼神と通じる道である。あるいはまた、鬼神が去来するために必要な神秘的交通路でもある。これらの鬼道はもともと特定の法術や集団を指す固有名詞ではなく、古来、使われてきた普通名詞だと考えてよい。張魯の祖父、張陵から3代を経てその系統を引く陳瑞、さらに続く李寛、李脱、李弘らは、自分たちの教えを鬼道と呼んだことがあっただろうか。
 五斗米道と呼ばれていた宗教集団は、第3代の張魯が新入りの信者を鬼卒と名付けたことなどから鬼道と呼ばれるようになったのかも知れないが、彼ら自身は「新出正一明(盟)威之道」と称していた。張魯曹操の軍門に下って後も「天師道」の名のもとに教団は維持された。一方、霊帝の中平元(184)年に張角が起こした黄巾の乱は、卑弥呼の時代と重なる。鎭圧と共に30万とも数えられる信徒が流亡したと伝えるが、そのなかに倭に移入して教えを伝えた者がいただろうか。あるいは、それ以前から多少とも影響を与えたことがあっただろうか。私は疑問だと思う。佐伯有清先生が述べていられるような「張魯の『鬼道』と関連させて、卑弥呼の『鬼道』を、その影響を受けた道教的宗教とする説が強くなってきているが、安易に結びつけることは慎みたい」(佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下 2000 吉川弘文館)という意見が正しいと思う。
http://www.tenri-u.ac.jp/lifelng/dv457k0000007gtj.html