宝賀寿男まつり

チョー面白いので大人買いして読み耽っている
 
公認サイトからエッセンスを

上古史の流れの概観試論
  
弥生期以降の上古史の流れを試論的に概観してみます。
ここでの記事について、個々の論拠や資料はあげませんが、現段階におけるこれまでの様々な研究のまとめ(試論)と理解してください。
記紀の記事を盲信するのは厳に慎むべきことですが、一方、資料の乏しい上古代に関しては、頭から記紀を排除するのもその解明のためには問題が大きいものと思われます。
 
(以下にゃんこがレジュメとした)

<日本人の源流>
        
(1)ヤマツミ族(山祇族)・・・1万年以上前から居住、クメール系※、狩猟・漁労、焼畑農業(※「南蛮」の主体、苗族)
              カグヅチ末裔、月神信仰
              ⇒神別(天神)、中臣連・大伴連・久米直・紀伊国造など
        
(2)ワタツミ族(海神族)・・・紀元前水稲とともに移住、江南系※、農耕+漁労で航海術に優れる(※現在のタイ語族に近縁)
               スサノオ熊野大神)末裔、日神信仰
              ⇒神別(地祇)一部(天孫)、阿曇連・和珥臣・尾張連・三輪君など
       
(3)天孫族・・・・・・・・・・紀元1世紀ころ朝鮮南部経由移住※、鉄器技術
               スサノオ五十猛神)末裔、日神信仰
              ⇒皇別皇親天皇家
              ⇒神別(天神)物部連・出雲臣・額田部連・服部連・鳥取連・玉祖連・鏡作連・忌部首など
              ※東夷として周・商・羌に連なり、満洲起源東夷、箕子朝鮮・扶余・高句麗百済新羅渤海とも同族の可能性高し、
     
              ①北九州松浦半島→佐賀平野筑後川周辺居住。『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家群形成。
               一部は2世紀前半筑前海岸部→大和移住(神武東征)原初大和朝廷を形成。
              ②やや遅れて移住、一部は再び朝鮮半島に戻り、子孫再来日して3世紀頃但馬定住。
       
(4)帰化人・・・・・・・・・・2世紀以降の移住者
              ⇒諸蕃
             
              ①応神朝(4〜5世紀)秦部族・東漢部族
              ②雄略朝(5世紀)「今来の漢人
              ③亡国難民(7世紀)百済人・高句麗
       
 天孫族・・・熊野大神五十猛神八幡神)・角凝魂命・高産霊神(高木神)・天照大神・活玉神(伊久魂神)・天目一箇命少彦名神などを祖神として奉斎。
       粟・麻などの植物。熊・鳥(とくに白鳥・鷹・鷲)などの動物。
       安(夜須、安芸、安濃)・高(多賀)・三野(美濃)・鏡山・鷹取山・嵩山(嶽山、御岳山)などの地名。
       巨石・石神信仰。温泉神、医薬神。妙見信仰。
       鉄鍛冶・製塩や土器・鏡・玉・剣・弓矢・衣類の製作。
       日置部・額田部・鳥取部・服部・玉作部。
        
 海神族・・・大歳神・大国主神大己貴神大物主神事代主神建御名方神猿田彦神・白山比神などを祖神として奉斎。
       稲・葦などの植物。竜蛇・鴨(白鳥もあり)などの動物。
       長(那賀、長田)・葦(葦田)・志賀・竜王山などの地名。
       虚空蔵信仰。
       青銅・銅鐸・銅矛の製作。
       海部・磯部(石部)・水取部・猪養部。
       
 山祇族・・・火神迦具土カグツチ。i火産霊神、香都知命)・天石門別命・天手力男命・多久豆魂命、武甕槌神、九頭竜神、加美神、丹生神などを祖神として奉斎。
       犬狼信仰・月神信仰
       山部・久米部・佐伯部など
       
<紀記の年代>
日本書紀』の紀年については原則として、神武〜仁徳=四倍年暦、履中〜允恭=二倍年暦、安康〜雄略以降=現今と同じ
古事記雄略天皇以前は不確か
 
 
○神武東遷と邪馬台国   
 173年:久留米市域に首都をおいた邪馬台国の王家の庶流たる伊都国王家の庶子的存在であった神武兄弟が、筑前の怡土地方を出発。
 175年:大和盆地南部に侵入、この地を征服して大和近傍地域を勢力圏とする王に即位。
 194年:神武崩御。その後継の手研耳命は一年弱のうちに(短期間だけ在位か)、異母弟の綏靖天皇に殺害され取って代わられた。
 
 3世紀前半、北九州と畿内にヤマト並立。(畿内ヤマトの方が小さい)

天孫族の日本列島渡来の経緯等からみても、王権から排除された王族庶子一派が新天地を求めて、他処に移動する例がツングース系種族には多く見られるが、神武兄弟も同様な例とみられる。邪馬台本国そのものが本拠地を捨てて遠距離の移遷をしたことは、その契機からいっても説明し難く、無理がある。

          
崇神天皇の在位期間
 315-331年:崇神ヤマト、吉備・丹波、北陸・東国に拡大。実質的初代天皇
       箸墓古墳崇神陵か
   
○倭建命等の遠征   
 4C:倭建命・景行・成務による全国統一。
          
神功皇后朝鮮出兵   
 372年:成務天皇の皇后たる神功皇后新羅討伐。(日葉酢媛の可能性大)
     これと前後して朝鮮との交流深まる。
  
応神天皇皇位簒奪   
 390年:仲哀天皇の遺子である忍熊王兄弟等を滅ぼし外戚の応神が皇位簒奪。王朝交代。応神は神功皇后の女婿。
 391-413年:応神天皇朝鮮半島に出兵し高句麗好太王と長期間交戦。
    
○倭五王の中国王朝への遣使   
 朝鮮半島まで勢力を伸ばした倭国が次に中国王朝に修好するのはごく自然な流れ。
 応神天皇以降の遣使は十分考えられ、
 倭王賛=仁徳天皇(在位推定414〜435年)
 倭王武雄略天皇(同464〜487年)
 478年が最後。
   
継体天皇皇位簒奪   
 515年:男大迹王は武烈(在位506〜514年)即位まもなく挙兵、武烈崩御により即位(在位515〜534年)。王朝交代。

    
神武天皇神功皇后武内宿禰も実在した! という意味で漏れの立場と同じ。
ただ早とちりしてはいけない。皇国史観復権じゃないのです。王朝交代説なのです。
著者は神功皇后はオキナガタラシヒメとは別人で応神天皇は新王朝=王朝断絶の立場を取る。
そのうえ天皇の祖先は伽耶から来たとも。。。
ここでイラッとした人は「天皇は韓国人ニダ」とか「日本文化の起源は朝鮮ニダ」という意見を認めたくないんだと思う。
でも大丈夫だから心配しないで(笑)
だいたいその頃「韓国」やら「朝鮮」などという実態はないのです。「中国」だって今の中国とは関係有りません。
皇祖皇宗が降臨したころの東アジアはいまとは全く違う雑居地帯。
上野駅から来た人を先祖は上野人といっちゃうような短絡は止めましょうw
惜しむらくは宝賀さんも追求が伽耶新羅で打ち止めなことですが、ひとりの人にオリエントまで語れというのも酷ですw
そこで鹿島昇さんや小林惠子さんの出番・・・ (ヾノ・∀・`)ナイナイ
そこからは岡田英弘先生や白川静先生に繋げるのが良いと思います。