中国史からみた日本

国際教養大学学長の中嶋峯雄さんは日本には珍しい本物のインテリだ。なんとなく岡田英弘小室直樹とおなじタイプに感じる。
ある日新宿の花園神社に行って何気なく置いてあったチラシを持ってきたら、それは『神道時事問題研究』という新聞で、そこに中嶋峯雄さんの講演が採録されていた!なんという偶然!
ちょっとオカルトめくが、関心のあるものには引き寄せる力が働くという実例。

国史からみた日本
  
東京外国語大学学長
国際教養大学学長   中嶋峯雄
   
 中国四千年の歴史と言われますが、中国の歴史にとって日本の存在は、ほとんど取るに足らない、無視してよいものでした。我々からみると、漢字も仏教も儒教も中国を通じてですから、中国文化の影響を大きく受けています。だけど、中国からみると、日本はまさに中国が直接に影響を及ぼした国、つまり朝貢国以下という意識が潜在的にあります。
 ここでは、明、清ぐらいから考えてもいいのですけれども、明の時代に中国が日本との関係で何か大きく取り上げたということはありません。例の『国姓爺合戦』で有名な明の功臣、鄭成功の母は天草の人ですし、台湾にいくと神社にもなっています。特に台南では大変な存在でありますが、中華、中原からみるとずっと遠いところの出来事であって、中華帝国それ自体には大きな意味を持っていないと思います。
 中国は日清、日露戦争以来ずっと日本が侵略したという歴史を教えていますけれども、日清戦争は日本の侵略戦争だったでしょうか。朝鮮半島の問題が色々関わってくるわけですが、日本は大清帝国に脅かされていました。「定遠」「鎮遠」といった巨大な軍艦が玄界灘に来て日本が脅かされていたわけです。結局、日清戦争が勃発して、これは日本の勝利になりまして、その結果、日本は台湾を領有することになります。中国史からみた日本というのはここで一つ大きな結節点になります。
 李鴻章清朝の大官僚であり、さすがの人物であります。日清戦争の後、下関の春帆楼で伊藤博文講和条約を結びます。伊藤博文が十年前、天津条約を結んでいて、その時に「お互いに西欧列強に対して自分たちは共同で強くなって防衛しようではないかと言ったのに、どうして貴公はこういう形で日本に負けるようになったのか」と問うたら、李鴻章は「それは中華思想のなせるところだ」と答えた。つまり自分たちは中華思想に安住していたが故に、この十年間、近代化を怠ってしまったということを言うんです。
 今の中国の人達も日本軍国主義とか、反日とか言っているけれども自分たちが戦後どれだけうまく国造りをやってきたのか、権力闘争ばかりで社会は安定しなかったし、、今も国中が乱開発です。安物の建造物を造っては壊し、壊しては造っていて、いつ果てるともない工事現場のようになっている。従って国内総生産(GDP)は確かに膨らむかもしれませんが、全体的には歪んだ経済発展です。環境破壊が進み、資源は枯渇し、さらには貧富の差が広がっています。中国社会自体は本当に成熟したいい国家になっているだろうか。言論の自由はあるだろうか。学問の自由は保障されているだろうか。こういうことを一つとっただけでも大変深刻な問題があるわけです。さすが李鴻章中華思想を批判して、日本のせいにはしていません。
 清朝末期に康有為に代表されるような改革派が出てきた。変法運動は国家の成り立ちを根本から変えようとしたが、結局挫折します。その時、西太后は、「汽車、汽船は孔子様の乗り給わざるものなりき」と言った。中国には孔子様がある。孔子様があれば全てだ。これこそ中華思想なんです。汽車、汽船というのはまさに近代テクノロジーであり、近代ヨーロッパの思想であり、科学技術の成果なのです。我が国の場合は明治維新以降、多くの知識人が一生懸命にヨーロッパの精神や学問を学ぼうとした。中国の場合は出発点においてそうではなかった。
 そして、洋務運動を推進させるためのスローガンは「中体西用」です。中国を体にするんです。西洋というのは用いるためにすぎません。今も日本の進んだテクノロジーとか技法だけをどんどん取り入れ、真似をして、知的財産権とか、所有権もないがしろにしています。日本が明治維新以来蓄積したテクノロジーの本質を全く学ぼうとはしないわけです。ノウハウばかり取り入れようとする。同じ事の繰り返しです。
 日本の場合はこれに対する言葉は「和魂洋才」です。まさに大和魂、大和ごころ、あるいは武士道といってもいい。この洋才は単なる技術ではなく、近代のエスプリ、ヨーロッパの思想であり、戦後は民主主義です。こういう違いが日中間にはあるわけで、そういうところにそもそも近代史における出発点の違いがありました。ここを中国の人達はどれだけ自覚しているかが重要なポイントです。
 この清の時代、日本との接点の一つがあるとすれば、粛親王の娘の川島芳子が、私の郷里の長野県松本女学校に白い馬で通っていました。養父の川島浪速は松本藩士の出で東京外語の支那語の中退ですが、大変中国語がよくできた。粛親王は浪速を信頼され、自分の娘を養女に出したわけです。そして、川島浪速の一番の功績は紫禁城(現故宮博物院)が灰燼に帰するのを守ったことです。北清事変があって列強が介入しました。ドイツ軍が今にも裏山の景山から攻撃しようとした時、彼は中華門とかあちこちの門で、「西太后はここにいない。蒙塵しているから砲撃をやめてくれ」と叫んで歩いた。それで世界に誇る中国の文化遺産が守られたんです。
 時代は下って、中華民国孫文の時代になります。孫文辛亥革命の前から日本にしょっちゅう来ています。宮崎滔天を始め孫文を支援する有志が多勢いた。日比谷の松本楼孫文と縁がありますけれども、そういう意味で非常に日本は貢献をしているわけです。だけど、そういう貢献は一切中国史の立場から中国の教科書には出てきません。
 孫文は、晩年、神戸で「大アジア主義」の演説をしました。大アジア主義日露戦争の勝利に鼓吹された演説です。東洋の島国だと思われていた日本が巨大なロシア帝国を破ったということの歴史的な意味はものすごかったわけです。トルコにしたって、インドやインドネシアにしたってみんなそれでヨーロッパ列強に対して目覚めて植民地独立に行くわけです。孫文は大アジア主義の中でその事を非常に強調しています。今、そういうことは一切触れられていません。触れては困るわけです。日清、日露の戦争以来、日本は侵略国家だと見倣す中国では、世界史の教科書にも日露戦争は出てきません。
 やがて孫文中華民国軍閥時代になり、そして、1921年、コミンテルンに鼓吹された中国共産党が成立します。この中国共産党の文献をみていると、日本の文化とか、日本人論という形での言及はありません。抗日戦争、そして国共内乱がありますから、共産党と国民党がいかに日本をやっつけるか、どちらが強く日本を攻撃するかという形での言及になっています。その間、中国でもいわば共産党につながる人達の中で日本に留学する人が出てきたりします。魯迅は内山書店の内山完造との出会いもありますし、『藤野先生』は東北大学の講師です。それから、周恩来早稲田大学で聴講したりしましたが、留学生としてはあまりうまくいかなかったようです。
 その頃の注目すべき作家に夏衍がいます。夏衍は、なぜ中国が列強あるいは日本に侵略されるようになったのか、その原因を自分たちの責任において追求すべきだ。侵略されたという被害者意識だけで、物事を考えるのは間違いだ。それは非常に無責任な態度だということを言っています。夏衍も文化大革命で批判され、晩年に復活しましたが、こういう良識をもった人もいました。
 やがて、毛沢東絶対化があり、権力闘争の一環として激しく批判された訒小平が生き残って毛沢東が死去すると後継者の華国鋒と争った四人組の逮捕後、復権を果たします。こういう状況の中であの偉大な文明国の中国はいわば文化的にも病んできたと思います。中国はあれだけ人口が多いのに読みたくなるような現代作家がほとんどいない。そこに中国の問題点があるわけで、決して日本が責められるだけではありえないのです。それがやがて江沢民胡錦涛となってきます。江沢民は父親などが日本軍の犠牲にあったとのことで、反日感情の強い家族に育てられました。日本に来た江沢民の姿は際だって反日的でした。
 中国が日本の国連安保常任理事国入りに反対するのは、まさに、こんな立派な国を作っている日本という存在が目障りなんです。中国は経済的に発展したというけれども、それは色眼鏡で見るとそうなるんです。たしかに北京の繁華街・王府井一体の変貌は目覚ましく、東京の六本木とお台場が一挙に集まったかのようです。しかし、同じ北京の中心部でも、私自身が定点観測をしてきた東四の裏通りや東廠胡同のあたり、天安門広場南の前門地下道や前門大街に近い裏通りなどは、以前とまったく変わらずに目を覆いたくなるような貧困と不潔が今も続いています。市の西方へ約30キロばかりタクシーを飛ばして、観光客の行かない首都鉄鋼総公司のある国有企業地域の町などでは、経済発展とはどこの国のことかと思われる光景に出くわします。
 この格差がすごい。一人あたりの所得格差は百対一です。我が国は四対一ぐらい。台湾が六対一くらい。そういう中国社会を相手にしていくことは大変なことですが、やはりそこをよく考えていただきたいと思います。
 ざっと中国史の中で見てきましたけれども、ちょっと台湾のことについて触れてみたいと思います。
 蒋介石は日本の陸軍士官学校に留学し、陸軍にも勤務していましたから、日本についてかなり詳しい。彼が、終戦の時、「以徳報怨」徳を以て怨みに報いると言ったことは今の中国では一切教えられていません。そして、最近の中国では、昭和20年に、日本はもう中国に降伏したかのように教えられています。中華人民共和国ができたのは1949年ですから、日本は中華人民共和国に降伏しているわけではないんです。中華民国蒋介石政府にです。この四年間の意味は本当に大事ですね。
 そして、蒋介石の息子の蒋経国はそれなりに色んなことを考えて、李登輝さんに譲った。私も実は蒋介石時代の独裁的な台湾は嫌いで、中華民国はあまり好きではなかったんですけれども、とにかく李登輝さんになってからは完全に民主化しました。近く邦訳される李登輝筆記『見證台湾』に出ていますが、私の著作を詳しく読まれていた李登輝さんの求めで私が初めてお会いしたのは1985年3月です。中華世界において民主化なんて本当に有史以来、初めてです。皇帝型権力構造の中国で選挙によって首長を選ぶ、これ自体が中国にとって目障りだったんです。
 それから、もう一つ中国にとって目障りだったのは台湾化を行ったことです。台湾アイデンティティーがますます強くなる。これはいくら軍事力や政治力あるいは外交によって押さえつけようとしても押さえきれない台湾の国民意識の成熟です。だからこそ中国はこれを軍事力で押さえなければならなります。しかし、中華人民共和国は一度も台湾を統治していません。政治はもとより軍事や外交だって経済だって教育も文化もみんな台湾自身でやっていけるわけですから、台湾は主権独立国家です。ここに中国の一番の弱みがあるんです。だから、強がりを言う。強がりを言うことがアジアの平和や安全を脅かすことになってはいけません。
 いずれにしても、日本は非常に多く中国の文化的影響を受けながらもまったく独自の文化をつくっています。なぜ日本には茶道があって中国には茶道がないのか。中国ではお茶の種類も飲み方も色々あるし、おいしい中国茶もあるけれど、茶道はありません。日本の茶道はまさに日本の文化です。一期一会の文化であって、まさに日本的美意識、日本的な美です。中国の陰陽二元的な美意識からは出てきません。利休の「茶の心」は中国にはないんです。陸羽というお茶の神様はいます。茶室もあるんだけど、いわゆる日本の茶道における茶室とは全く違っています。そういう意味では、日本と中国との間には大きな違いがあり、日本は文化的に独自の創造をしています。
 日本には日本なりの文化を、日本なりの歴史を自分達できちんとしていけばいいのです。そして、日本の伝統、神道はまさにその伝統の中核であるけれども、日本は中国ばかりかヨーロッパの文化やアメリカの文化の影響を大きく受けながら実に巧みな創造をしています。日本および日本人というものに自信をもって、ぜひこれからも力を合わせていい社会をつくっていただきたいと思います。
(第四六三回研究会 平成十七年八月二十三日、花園神社で)