2chテンプレ検証
2chの歴史板にときどき貼られるテンプレ
せっかくなので漏れの見解をつけてみる
■極右民族主義的=一般的朝鮮人が認められない事柄一覧
○弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること。(にゃんこのコメント)
弥生人の定義にもよるが、米作民という意味ではほぼ間違いないだろう。
朝鮮半島は米の原生地じゃないし、起源が長江〜雲南一帯であるのはほぼ確実。
問題は、稲作が朝鮮で定着し技能を身につけた「朝鮮人」が日本列島に移住したのかどうかだが、結果的に朝鮮半島では米作はほとんど定着しなかったことが分かっている。
そもそも朝鮮は雑穀地帯。
朝鮮で米作が盛んになるのは日本統治以降寒冷地用に品種改良された米作が定着してからだ。
したがって中国沿岸から直接か、せいぜい朝鮮半島を経由して移住定着したのが弥生人というのが正解だろう。
またこれは当時朝鮮半島に住んでいた民族はなにかという問題に繋がる。
つまり北部の中国人コロニーと西南部沿岸の倭人・韓人、東北部の扶余系諸民族という色分けになるが、このうち倭人・韓人というのはそもそも長江沿岸まで繋がる越族グループの一部なのだ。・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること。
(にゃんこのコメント)
上述の通り。
親朝鮮のサヨクやザイニチ活動家に聞いてみたいのは、そもそも彼らの「朝鮮は単一民族国家」という自己主張をどう考えるかということだ。もともと紀元前後は雑居地帯だし、朝鮮人が形成されたのは新羅による統一以降だ。
その後もモンゴル人・女真人の侵略や明軍の駐留により人種の混交が進んでいる。現在の朝鮮文化は李朝時代が起源であろう。・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること。
(にゃんこのコメント)
まぁ伝説だけど、確かに三国史記に書いてある。ふつうに(朝鮮人に遠慮せずに)考えれば新羅3王家のひとつ昔家は倭人系だろう。
残りの2つは扶余系と中国系か韓人系と思われる。
新羅の中国系住民は秦時代の流民のようだが、その一部に秦氏がある。
新羅は朝鮮半島では異例にユーラシア世界との関連が強い文化をもっていたが、それを担ったのが秦氏だろう。
メソポタミアの宗教と繋がる大陸からの避難民が新羅を経由して一部が日本に来たという話につながるのだ。(にゃんこのコメント)
説明するのがめんどくさいが、「従属的」の意味にもよるが、百済・新羅には倭に頭が上がらない理由があった。
単純な問題で倭は人口の多い軍事大国だ。しかも太平洋に面して後顧の憂い無く戦争を仕掛けられる位置にある。
中国と対立している両国にとって後背の倭国に攻められたら致命的なのでひたすら下手に出ざるを得なかった。
だから百済・新羅から倭に人質が送られた。逆はない。
いわゆる朝鮮からの「文化伝来」というのも、このゴマスリ外交の一環なのである。・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)。
(にゃんこのコメント)
これも上述の一環で説明できる。
初期の倭国にとって大事なのは中国との貿易。これを背景に日本を統一したのがヤマト王権だ。
そのときの貿易ルートに支社・出張所を置いたし、利権確保のために軍を駐留させたし、現地政権に多数アドバイザー参加した。
そのうち小国分流の伽耶の一国は実質上倭国の属国で、これが任那であり、ヤマト王権の出張所でもあった。・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での始源性の不在)。
(にゃんこのコメント)
こういう抽象的な言い方は検証不能だしレイシスト的レッテル貼りと言えよう。
ただ、一般論として圧倒的な文明圏に近接すると文化の独自性を維持するのは難しい。
日本文化が独自なのは距離がとれたという偶然の要素によるものが大きいと思われ、朝鮮が劣っているという話ではないと思う。・常に某かの国の属国として歩んできた歴史。
(にゃんこのコメント)
同上。
三国時代の朝貢以来一貫してどこかの属国であったのは事実だが、それでも吸収合併されず実質的に独自の文化圏を守ってきたのだから強かだとも言える。
新羅も李氏朝鮮も北朝鮮も外国の援助で作られたようなものなのに、その後裏切って自立しようとするもんね。・姓が漢族のものであること。
(にゃんこのコメント)
これは明々白々なんだけど、漢族というより中華文明的にOKという整理なんでは?
いまだって欧米に移民する韓国人は欧米風の名前をつけるしね。
「日帝と違って強制じゃないからOKなんだ!」というのかな?・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)。
(にゃんこのコメント)
これも明々白々なんだけど、どうも認識薄いよね。はっきり日明戦争といえばいいのに。
そもそも朝鮮征伐も日清戦争も不毛地帯である朝鮮半島領有による利益なぞ狙っていない。
問題は通路なんだよね。・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)。
(にゃんこのコメント)
これはそうとも言えるしそうでないとも言える。
別に幕府は朝鮮は属国と認識していない。
本当に朝貢なら朝貢使というべきだが、敢えて通信使という呼称を日本側も認めている。・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること。
(にゃんこのコメント)
後半はともかく、パスパ文字起源は知られていない。
だが、そもそも発明は既存のなにかを元に発想されるわけで、恥ずかしいことではない。
形態はパスパ文字から取ったにしても朝鮮語の発音記号に特化させる発想はすごかったわけだし。
ハングルの独自性を過剰に主張し他の文字を誹謗するから突っ込まれるだけ。・韓国併合の合法性と妥当性。
(にゃんこのコメント)
観念的な話ではどう考えても勝手だが、国際法なんて慣習法なんだから当時の列強が認めた時点で合法なんだよ。
だいたい脅迫下で調印したら無効なんて言い出したら全ての終戦条約は無効になるぞ。
降伏条約調印のとき300機のB29を東京上空に威嚇飛行させた米国が無効論なんて認めるわけないじゃん。・近代以前の竹島に関する不認識。
(にゃんこのコメント)
別スレ参照。
問題なのは日本語で情報読めるザイニチまで韓国領を主張することだね。
所詮は心理学の問題。岩礁一個より対韓貿易黒字1兆円のほうが大事という話。・併合下における近代化の功績。
(にゃんこのコメント)
これも日本では常識なんだけどなあ。
サヨクも「功績」自体は認めつつ「所詮日本人の利益のためだ」として否定しているに過ぎない。
しかし韓国内では事実そのものがタブーだったんだよね。
最近李教授の教科書とかでボツボツでてきたが。
ところでサヨクの批判だが、日本人の不利になる植民地経営などありえないんだから問題は本質的には日本人の利益のためとはいえ朝鮮人のためにもなったのかどうかだろう。
そういう意味でサヨクの批判は無内容だ。・土地を奪ったという嘘(そもそも土地を持たない極貧小作農が大半。不申告や所有権が証明されないため総督府が接収した土地は全耕地の3%にすぎない)。
(にゃんこのコメント)
これも上述の通り。3%という数字は雄弁だね。
なにしろ昔は調査された土地=日帝の収奪みたいな把握されて90%以上が取り上げられた!なんて馬鹿な主張がどうどうされてたもんなあ。・名前を奪ったという嘘(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Japanese_Name_Change_Bulletin_of_Taikyu_Court_.jpg)。
(にゃんこのコメント)
サヨクも次々に発言を修正しているので、いまは「事実上強制された」という理解。
でも、その程度の認識も韓国ではないんだよね。姓と氏の違いすらわかっていない始末。
だいたい事実上にしても強制されたかどうかは微妙だが、問題は太平洋戦争中の内鮮一体政策のころだろう。
このころは確かに朝鮮人を兵士にとるための同化強制がされていたと言える。・言葉を奪ったという嘘(日本統治時代には公教育として朝鮮語・オンモン教育を実施)。
(にゃんこのコメント)
同上。
逆に言えば、軍国主義になる前にハングル教育をしたのが日本だという事実を認識していない。
日帝時代に義務教育が進んだのは周知の事実だが、全部日本語でやっていたわけじゃない。
そう考えるとハングル教育の基礎は日本がつくったと演繹できそうなものなんだけど・・・心理学ですね。・強制連行という嘘(出稼ぎのために密航したのが実態。当時は渡航制限があった。しかも戦後にやって来たケースもある)。
(にゃんこのコメント)
近現代史はあきるなあ。漫画嫌韓流4でも読んでください。
日本では時間の止まったサヨクと団塊爺さん以外ではほぼ絶滅したね。・性奴隷という嘘(売春婦。親により前借金の形として売られたのが実態)。
(にゃんこのコメント)
これも概ねウヨクの言うとおりなんだが、だいたい挺身隊=20万人の慰安婦とかいうなら韓国政府認定の被害者が300人くらいしかいないってことにまず疑問を抱かなきゃ。
ただし、当時騙されて(誰に?)慰安婦になった女性を日本政府が組織として救済すべく全力を尽くしたかといえば疑問である。
もちろん実際救済された女性もいたようだが、おおかたは未成年だろうがなんだろうが大目に見ていたらしく、それが今日禍根を残しているのです。・固有語の語彙が乏しく、また日本のように字訓という制度的保証がない状態ですでに語彙のおよそ7割が漢語であること(学術的語彙は9割が漢語)。
(にゃんこのコメント)
ハングルが表音文字しかないことは余計なお世話だ。固有語云々も世界的に普通にある話。日本だって同じ。
自国語で概念世界を構築できるなんて国のほうが普通は珍しいんだよ。
ただ概念的な言葉のほとんどを漢語に負っていること。近代語彙のかなりの部分が日本語に負っていることは庶民レベルではあまり知られていないね。
ベトナムもそうだけど、漢字がないと世界認識の効率が悪くなる。
それは自覚して教育を見直すべきだと思うけどね。
【韓国】 現在進行形の歴史歪曲の背後に「津田左右吉の影」〜日本の主流歴史学界を撃つ[05/15]
[ハンギョレ創刊21周年特集]イ・ドギル 日本の主流歴史学界を撃つ/①植民史観と老論史観
▲中国社会科学院から公式刊行された秦漢時代歴史地図。万里の長城を韓半島に深々と引き込ん
でいる。
中国は東北工程で満州はもちろん韓半島北部までを中国史の領土だったと主張している。北朝鮮有事に軍事介入できる歴史的根拠を用意したのだ。その核心論拠は漢が古朝鮮を滅亡させ設置したという漢四郡にある。漢四郡の中心地である楽浪郡が古朝鮮の首都であった平壌地域にあり残り三郡が漢江の北側にあったので漢江北側が古代中国の植民地だという主張だ。こういう東北工程に対抗するために設置した機関が高句麗研究財団とそれを継承した東北アジア歴史財団だ。
ところで東北アジア歴史財団の現行ホームページは ‘正しい歴史’ という項目で「紀元前3〜2世紀、準王代の古朝鮮と衛満朝鮮は平壌を首都としており…」と書いている。古朝鮮の王城である平壌に楽浪郡を設置したという中国東北工程の内容と一致する。高句麗研究財団も一時、楽浪郡の位置を平壌だと表わした歴史地図を上げてネチズンの抗議を受けて畳んだことがあった。東北工程に対応しろとして設置した国家研究機関がむしろ東北工程論理に同調する異常現象が進行中である。
「楽浪郡=平壌地域説」が日帝時代の京城が現在のソウルだったように確固不動な事実ならばそうかもしれない。そのような場合、私たちは ‘嘗て漢江以北は中国史の領土だったが今はちがう’ という守勢的防御に出るべきだろう。しかし、すでに1963年に北韓のリ・ジリンは<古朝鮮研究>で漢四郡は韓半島にはなかったという事実を論証した。南韓でもムン・ジョンチャン先生が1969年に刊行した<古朝鮮史研究>を通じて、そしてユン・ネヒョン教授も<韓国古代史新論>(1986)を通じて、筆者らも<古朝鮮は大陸の支配者であった>(2006)等の著書を通じて漢四郡が韓半島内にはなかったと論証した。
にも関わらず国民の税金で運営される国家研究機関は東北工程に対抗するこういう理論を完全に握りつぶしたまま、漢四郡が韓半島内にあったと言っている。高句麗研究財団と東北アジア歴史財団が高句麗問題に対してはトーンを高めながらも、古朝鮮問題に対しては事実上沈黙を決め込んでいる内心もここにある。これは現在の史学界主流の地形に根本的で構造的な問題があることを意味する。
韓国は大学内の教壇史学者らと大学外側の在野史学者らの間に歴史認識を巡って集団的葛藤を経験している唯一の国だ。在野史学者らは教壇史学者らを日帝植民史学の後裔と批判してきた。彼らの主張に無理な部分があるのも事実だ。しかし、韓国史学界は解放以来、今日まで朝鮮史編集会が作った韓国史認識体系に対する総合的検討と批判をせず、こうした批判を自ら招来した。批判どころか朝鮮史編集会の主要論理がそのまま韓国史の定説としてまかり通っているのが現実だ。
在野史学者らは日帝植民史学の頂点に国史学界の泰斗イ・ビョンド博士がいると主張した。しかし植民史学の教祖はイ・ビョンド博士ではない。真の教祖はイ・ビョンドの早稲田大学留学時期の師匠であり満鉄と朝鮮史編集会出身の津田左右吉だ。現在韓国古代史学界で定説と認定しているイ・ビョンドの理論は津田らの理論をそのまま継承したり若干の修正を加えたものに過ぎない。津田の韓国古代史観は簡単だ。南満洲鉄道会社の委嘱を受けて書いた<朝鮮歴史地理>などの著書で津田は韓半島北部には楽浪郡をはじめとする漢四郡があり、漢江以南には計78ヶの小国らがうようよしていたと叙述した。そして韓半島南部に古代版朝鮮総督府である任那日本府があったということだ。
ところで津田はこういう主張の理論的根拠を提示しなかった。これを事実と前提にして、次の論理を展開する非学問的態度を取ったのだ。韓半島北部の強大な漢四郡がなぜ78の小国でうようよする肥沃な三南地域に進出しなかったかは説明しなかった。いや説明できなかった。それでこそ任那日本府が成立することができた。
問題は<三国史記>が漢江南に早くから新羅と百済という強力な古代国家が存在したと説明しているという点だった。<三国史記>記録のとおりならば、任那日本府は存在できなかった。そこで津田は<三国史記>初期記録が操作されたといういわゆる三国史記初期記録不信論を創案し遂げた。一人で<三国史記>初期記録不信論を主張しながらも「<三国史記>上代部分を歴史的事実の記載とは認定しにくいということは東アジアの歴史を研究する現代の学者らの間で異論がない」(<三国史記>の新羅王本紀に対して,1919)であたかも多くの学者の支持を受けているように強弁した。後日イ・ビョンドは任那日本府説は否認しながらも津田の<三国史記>不信論は若干の修正を加えて受け入れたし、その弟子らに
よって現在定説となった。
(後略)
筆者は21世紀世界化時代を生きる私たちの2世たちがこれ以上、植民史観と老論史観で綴られた歴史観で教育を受けてはいけないと考える。生きている日帝植民史観は現在東北アジアの和解と平和体制構築に大きい障害となっている。植民史観に対する東アジアの真の反省が和解と平和体制構築の土台になるだろう。こういう目的から連載は大きく四部分から成り立つだろう。 ‘①漢四郡は韓半島内に存在したのか? ②<三国史記>初期記録不信論は妥当なのか? ③老論史観はどのように朝鮮末期史をわい曲させたのか? ④独立軍の抗日武装闘争は存在しなかったのか?’もちろんすべての主題に対する反論を歓迎する。
ソース:ハンギョレ新聞(韓国語) 「現在進行形 歴史わい曲の後には津田左右吉の濃厚な影」
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/354663.html