高山正之って頑固爺さんなイメージがあるけれど、実は爽やかなイケメンなのだった。
ちぇ、いいよな。ウヨクなこと言っても外見がいいとなんか格好良くみえる。
でも1942年生まれとは意外だ。68歳ですよ。みえないね〜
変見自在 408 高山正之
(週刊新潮10年8月12/19日号)
劉備が曹操と赤壁で戦っていたころ、その上流の武漢に三層の塔が建てられた。
壁に描かれた鶴が宴の賑わいにつられて踊りだすと言われ、その美しいたたずまいとともに黄鶴楼の名で人々に親しまれた。
唐代には李白が孟浩然の送別の宴を持ち「故人西のかた黄鶴楼を辞し……」の詩を詠んでいる。
孟浩然は「春眠暁を覚えず」を詠んだ人だ。
支那の建築物は例えば秦の阿房宮のようにそれが華麗なほどすぐ壊される。
何でもぶち壊す支那人の特性のためで、珍しく長生きした黄鶴楼も清代の末には壊されてしまった。
百年後、日本のODAで潤った江沢民が支那の文化財再建第一号としてこの楼の復元を思い立った。
ところがああいう民族だから「三層で各層に破風の入った」楼の設計図も資料も何も残っていない。
結局、日本が提供した往事の写真をもとに再建したのだが、さて出来上がってみたら五層の塔。こっちの方が立派と思ったのか。彼等は復元という言葉の意味も分かっていない。
そんな支那人と米国人は双子のようによく似る。
彼等が初めて米大陸にきたとき数千万頭の野牛と二億羽の旅行鶴が天智にあふれ、幾百万のインディアンが平和に暮らしていた。
米国人はそれをたった二百年でぶち壊した。旅行鶴は一羽も残らず、野牛もほぼ絶滅の際にある。
インディアンも「白人国家の優れた力を思い知らせ、戦いを挑んだことを悔やむように兵士もその家族も徹底的に殺す」(W・シャーマン将軍)ことでこちらもほぼ絶滅させられた。
「米国は砂漠だった」と福田恆存は言ったが、正確には米国は米国人が砂漠にしたのである。
米国は先の戦争でこのシャーマン戦法を採用した。日本軍とは戦場で戦わずに銃後の街を爆撃した。
名古屋には一度に四百五十機のB29爆撃機が飛来して街を焼いた。
お堀と松の緑に包まれた名古屋城は絵のように美しい。米軍機は空襲の帰り道、ここに二千発の焼夷弾を落として焼いてしまった。
彼らはひたすら壊す。文化財を守るなどという意識はこれっぽっちもない。
ルーズベルトはシャーマンの言う「白人国家の優れた力」を原爆で示そうとし、投下都市を選んだ。
第一候補は京都。人工八十六万。盆地状。梅小路操車場上空五百㍍で爆発させれば五十万は死ぬと読んだ。
彼は原爆の威力を正確に測るため通常爆弾による空襲を禁じた。
しかし最終段階で京都は後回しにされた。スティムソンの心変わりと言われるが、結果的に京都は通常爆弾の空襲もなく終った。
人工六万の奈良はもともと奈良はもともと空襲の対象リストにならなかったからこちらも無傷で残った。
こすい米国はこれを見逃さなかった。GHQは新聞記者を呼んで「ラングドン・ワーナーが日本の文化財リストを出して戦火から守れと米政府を説得した。おかげで京都、奈良は爆撃を免れた」と書けと。
朝日は言われるままに報道し、奈良市もGHQに媚びてワーナーの像を法隆寺の外に建てた。ワーナーのリストには名古屋城が入っていたが、細かい詮索はGHQが許さなかった。
お人好し日本人はころりと騙された。戦災のなかった鎌倉もワーナー様のリストのお陰と鎌倉駅前にワーナー記念碑を建てた。
本郷の東大が戦火を免れたのも右に同じと語られている。
かくて日本人は米国人は文化を大事にするいい人で京都奈良を守ったと本気で信じるようになった。
北京政府が「京都、奈良の爆撃を止めさせた梁思成の銅像を奈良市に贈った」と産経新聞が報じた。
氏素性も怪しい。何より彼が米政府にとやかく言える立場にもなかったと記事は伝える。北京のいい子だった「平山郁夫」が話の出どころというから何とかの浅知恵の産物か。
米国の騙しのテクニックに倣って日本人の心証をよくしようという狙いか。甘く見られたものだ。
梁思成の銅像、奈良に建立
「人民網日本語版」2010年4月26日
中国文物学会の羅哲文会長(左)と駐中国日本国大使館の川上文博参事官(右)が、銅像前に花輪を献上した。
中華社会文化発展基金会「梁思成銅像建立組織委員会」と中国政協新聞社が共同で主催した「古都の恩人・梁思成」講演会が24日、北京で開催された。同講演会において、梁思成の銅像序幕式が、今年10月31日の「平城遷都1300周年祝典」で行われることが明らかになった。
清華大学美術学院の李象群教授工作室で制作された梁思成の銅像は、24日の講演会現場でお目見えした。講演会に出席した中国文物(文化財)学会の羅哲文会長と駐中国日本国大使館の川上文博参事官が、銅像前に花輪を献上した。梁思成の銅像(胸像)は、奈良県政府に寄贈され、奈良県文化会館に永久保存される。梁思成記念銅像は、中国国内の一部都市にも建立され、一連の記念イベントが開催される予定。
清朝末期の著名政治活動家・啓蒙思想家だった梁啓超の長男・梁思成(1901-1972)は、有名な建築家。第二次世界大戦中の1944年、連合国軍は日本本土への大規模な空襲を展開した。当時、「戦争地区域文化財保護委員会」の副主任だった梁思成が、「京都と奈良を爆撃しないように」と連合国軍に提案したことで、千年の歴史を持つ古都は爆撃から難を逃れた。このことから「古都の恩人」「人類文化遺産保護の先駆者」と称えられている。(編集KM)