日中親善の幻想を捨て対話より行動で接せよ

nyankosensee2005-11-30

   
岡田英弘はもれの永遠のスターだ。
漏れは彼の中国理解に完全に同意している。
彼は嫌中派だとかなんとか言う人がいるが、彼が中国を嫌いかどうかなんてどうでもいいことなのだ。彼の学問のフレームが普遍妥当的なことが大事なのだ。
まぁそうは言っても「中国人」には受けないだろうなとは思う。
そもそも「中国人」というもの自体が近代に捏造された虚偽概念だと暴露しているのが岡田理論なのだから。
いっておくが、ベネディクト・アンダーソン流に「国民なんてどうせ人工概念よ!」なんて言っているのではないよ。そんな当たり前のことを言っているのではない。その基底になる民族概念そのものが「中国人」には適用できないと言っているのだ。
そして同時に、実質的に中国人≒漢人であり、漢人というものも民族概念ではなく一種の階級に過ぎず、中華思想とはその膨大な被支配人間集団のルサンチマンそのものであることを暴露している。。。近年形成されつつある疑似国民≒「中国人」にはとても直視できない事実だろうねえ。
   
と思っていたらさっそく在日華僑の罵倒を発見。
莫邦富といえば結構有名な(中共公認の)ジャーナリストだけど、この汚い罵倒の仕方!お里が出るなあ。
彼は1953年うまれのずっぽし文革世代。ルサンチマンも強いんだろうねえ。
僕は在日華人の知り合いも少数ながらいるけど、その内の一人も同じような感じだった。別に差別的なことを言っている訳じゃないのに、中国人にとってネガティブな指摘をすると突然激昂しちゃうのだ。なんだか韓国名物火病みたいだった。てか韓国人は凄く親しくなった人はいたけど、中国人ってなんか心の壁が厚い気がする。それって偏見?差別?キューダンされちゃう?
 

日中親善の幻想を捨て対話より行動で接せよ
   
岡田英弘 東京外国語大学名誉教授
      
靖国問題東シナ海ガス田問題……。日本と中国の間に存在する諸問題について、「対話こそが解決への道だ」という論調がある。しかし、同じアジア人同士、話せばわかると考えるのは幻想だ。我々日本人と中国人は、歴史的にも文化的にも異なる民族であり、互いに理解しあうことは不可能なのである。中国との対話が意味を成さない現実を認識し、いかにして言動から本質を見抜き、接していくかを考えねばならない。
   
 中国人は、歴史的に言っても、文化的に言っても、日本人とはまったく違う民族である。このことを、私たち日本人はまず知るべきである。
 日本人は、7世紀に日本国をつくってから、中国大陸でつぎつぎ交代する王朝とは正式な外交を持たず、19世紀なかばまでの1200年の間、基本的には鎖国政策をとっていた。日本国は、日清戦争をするまでは平和国家であった。長い間、日本人は中国人と直接つきあわずに、独立して幸福に暮らしてきたのである。そのために得をしたことが多いが、損をしたこともある。
 損をしたことといえば、まず日本人は、国家は個人を保護するためにあるものだ、と信じ切っているということが挙げられる。信じ切っているから、ひとたび敵性国家が日本国民を拉致すると、みんな激昂して、日本国は経済制裁を加えろ、と主張することになる。個人と国家を同一視しすぎるのである。
 自分たち日本人が、意見を一致させることをいつも優先し、国家が国民の意見を政策に反映させることを当然と思っているために、中国でも同じだろうと思い込む。そしてさらに、日本の文化はかつて中国大陸から来たのだし、中国人は同じアジア人だから、日本人と同じで素朴だろうと、勝手に信じ込むのである。
 ところが、ちょっと待った。日本と中国とでは、地理環境がぜんぜん違うのを忘れている。日本は四方を海に囲まれて、地域が限られている。私たちが「よそ者」とよんできた、他郷から来た人だって、日本のなかから来るのだから、それほど違うところから来たわけではない。せいぜい似通ったところ、山は青く水は清い古里に決まっている。
 しかし中国は違う。中国は日本に比べて、はるかに規模が大きいのである。平原といえば、どこまでもどこまでも平原が続き。際限がない。また山地といえば、山また山の連続でやはり際限がない。砂漠も、どこまで行っても同じ砂漠、湖沼も、どこまで行っても同じ湖沼である。中国の農民や漁民は、その果てしなく広大な自然のなかで、小さな集団をつくって暮らしてきた。村の狭い土地に立て籠もって、異なった土地には出て行かず、一生の間、耕すだけ、あるいは漁をするだけだった。
●妻子とて油断は禁物 他人に心開かぬ中国人
 中国では、よそ者と言えば、まず言葉がまったく違う。昔から中国では、いろいろな異国の人々が北からやってきたが、みんな耳慣れない言葉をさえずり、いきなり白刃を突きつけて、食事を取り上げ、女を奪って行った。そればかりではない。同じ中国人でも油断はならない。官吏はさらに悪質で、都から来ていつまでも居座って、なんだかんだと理屈をつけては、洗いざらい取り上げる。あとには塵っぱ一つ残らない。中国では、官吏といわず、異国人といわず、村にやってきたよそ者は泥棒と同じ、じゅうぶんな警戒に値する者だ、というのが決まりである。
 このことを知れば、中国人でも農民は素朴だろうという思いこみが、どんなに間違っているかがわかるだろう。この、よそ者は悪者だ、少なくとも内心どんな悪意を抱いているかわからない、という、長い歴史でつちかわれた文化は、中国人の夫婦関係にも及んでいる。中国の夫婦喧嘩の壮烈さは日本人にも有名だが、それというのも、女が異姓すなわちよそ者の代表だからなのである。中国では結婚した後も姓が変わらない。これは、女の地位が高いからではなく、中国では、女は一生の間、異なった集団の出先であり、ただ子どもを生むために夫と結婚しているだけだからなのである。現代の日本人のように、夫と一緒になりたい、と欲して結婚するのではない。それだから、中国人の夫婦関係は、日本人に比べれば薄情なものである。
 だいたい中国人というものには2種類あって、互いにまったく隔絶している。1種類目の中国人は「文字」を知っている人で、他の種類は「文字」を知らない人である。文字を知って、これを自由に使える中国人は、いまなら共産党の幹部や国営企業の経営者であり、人口の数%にすぎない。その他大勢の中国人は、せいぜい自分の名前を漢字で書けるくらいであって、文字を知っているとはいえない。
 中国における文字は

WEDGE DECEMBER 2005

大本営」がなくなったいま、
大本営発表も存在しなくなった。しかし、その精神を受け継いだ報道姿勢と報道方針が、日本のマスメディアには依然としてみられる。つまり事実をでっち上げて自らに都合のいいような報道をすることだ。こういう報道は「大本営報道」と言われる。

12月5日、京都に出張したさい、東海道新幹線グリーン車に置かれていた車内誌「WEDGE」12月号のトップを飾ったエッセイは、その現代版大本営報道の名作である。岡田英弘という東京外国語大学名誉教授が書いたもので、タイトルは「日中親善の幻想を捨て対話より行動で接せよ」である。

エッセイの内容は、中国との対話が意味を成さない現実を認識し、自衛官を派遣し自衛隊機を飛ばす行動で中国に接せよといったものだ。
これは余命幾ばくもない人間の妄言と片付ければいいだろうと思う。しかし、中国を分析する時、その人が取り上げた根拠をみて、私は思わず大本営報道という言葉を思い出した。

「大体中国人というものには2種類あって、互いにまったく隔絶している。1種類目の中国人は『文字』を知っている人で、他の種類は『文字』を知らない人である。文字を知って、これを自由に使える中国人は、いまなら共産党の幹部や国営企業の経営者であり、人口の数%にすぎない。その他大勢の中国人は、せいぜい自分の名前を漢字で書けるくらいであって、文字を知っているとは言えない」

分かりやすく言えば、読み書きができる中国人が数%しかいない中国とは、先進国である日本と文明人である日本人は付き合う必要がない、という主張だ。

東京外国語大学名誉教授たる人間は、数%という数字がどれくらいの人数を意味するのかまったく分かっておらず、自らの発言のおかしさに対する理解力すらもち合わせていない哀れな人だ、と私は新幹線の中で初めて知った。自分が言ったウソを真実だと信じ込んでいた戦時中の大本営発表のばかばかしさが、いまの日本に依然としてのさばっている事実も、改めて思い知らされた。
    
TITLE:週刊ウェブマガジン[Next One]・新華僑作家「莫邦富」の視点
URL:http://www.nextone.jp/no051222/va/va04.html