渡来人は大活躍?

   
日本の文化の一部が大陸からわたってきたということは間違いない。
しかし、最近の「渡来人」万歳の動きには史実を踏み越えた政治的でいやなバイアスを感じる。在日朝鮮韓国人を持ち上げるという政治的な目的のために、過去の帰化人を実態以上に誉めあげているように見えるのだ。
そして「帰化」という言葉が日本政府への恭順を想像させるから中立的な「渡来」と言い換えろ、という動きがあるが、変である。
いまだって日本国籍をとることを帰化という。アナキーな状態でもない限り、先住民・移住先政府の許可を得て移住するなら帰化というべきだろう。帰化した本人が本心でどう思っていたかとは無関係だ。
   
さて、帰化人だが、そもそも大勢力ではない。
古代の日本列島の人口は300万人であまり変動しなかったといわれている。いっぽう大和朝廷成立以来の帰化人総数は1万人〜20万人と諸説あるが、5〜7世紀の300年でそれだけなら年平均300〜6600人で人口比0.01〜0.2%でむしろ少ない。
                      
また、その帰化人だが、そもそも彼らは朝鮮人かどうかわからない。
そもそも「朝鮮人」ができあがるのは後世のことだし、そこまで言わなくても朝鮮半島南部には多くの倭人が住んでいたことは確実である。敢えて日本列島にわたってくるのはコネのある連中だろうから、帰化人のそうとう多くの部分は倭人だったと思われる。新撰氏姓禄で解説されている1182氏族のうち、帰化人である漢系163氏、百済系104氏、高句麗系41氏、新羅系9氏の合計は317氏27%である。半数は「中国人」である。しかし百済系・高句麗系・新羅系というのはいわば先祖の「国籍」である。百済民族などというものはなく、百済には倭人漢人・韓人・扶余らが雑居していた。だから民族構成はこれだけではわからないのである。漏れが思うにこの百済系・新羅系のかなりの部分は倭人なのではないだろうか。
ちなみに金達寿などは、漢系はほんとうは朝鮮人なのに差別のために漢系を称しただけだと言うが、そんな差別意識があるならそもそも記紀にそんな記事を載せるはずがない。4世紀まで中国の植民地だったのだから当時の朝鮮半島に多くの漢人が居住していたと考えるのが自然だ。金達寿は日本に対しては朝鮮人の混住を主張するが、朝鮮に対しては中国人の混住を認められないらしい。なお、帰化人中の最大勢力だった秦氏は漢系である。
      
そして朝鮮半島出身者が有力であったと主張するものがあるが、その割には彼らの地位は低い。日本で最高に重用された百済王一族の出世頭でも従三位が最高だ。高句麗系なぞぎりぎり昇殿が許される従五位でしかない。まぁ昇殿が許されるんだから差別されているわけではないにしても、やはり新参者として地位が低かったと言って良いと思う。
(ちょっと話が逸れるが、関裕二は藤原鎌足=扶余豊璋説を主張しているが、もしそうだとしたら実の弟百済王禅広に対してえらく冷たい。日本で本性を隠して活動することは不可能だろうから、百済王一族との関係が全く話題にならないのは、やっぱり無関係なんだろう。)というわけで、韓国人が「百済人」や「高句麗人」を祖先認定して禅広や若光を同胞扱いするのを見ると、「そもそも韓国人の祖先とは何人と考えているの?」という違和感を感じるのだった。
   

扶余豊璋(ふよ・ほうしょう、生没年不詳)は百済最後の義慈王(在位641年〜660年)の王子。倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。中国史料では余豊と呼ばれる。日本書紀には百済名をクゲというとある。(中略)
これを知った豊璋は密かに高句麗に逃れた。日本は中国に簡単に破れたが、高句麗はこれまで隋・唐の大軍を何度も撃破しており、頼れると思ったのだろう。だが、その高句麗も内紛に付け込まれて668年唐に滅ぼされた。豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、高句麗王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南(中国南部)地方に流刑にされた。
なお日本には豊璋の弟・禅広が残っており、その子孫が持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜って百済の王統を伝えた。
   
TITLE:扶余豊璋 - Wikipedia
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99%E8%B1%8A%E7%92%8B