東アジア古代三国史

東アジア古代三国史

東アジア古代三国史

  
中国人の書いた歴史書はけっこう面白い。
もちろん中華バイアスはかかってはいるものの、朝鮮人のようにアイデンティティ防衛のために拗くれた解釈をしないから率直な感じがする。
日本の古代史ってのは中国大陸との交流史なわけで、反対側から眺めるのは勉強になる。
交流史というなら朝鮮半島だと思う人がいるかもしれないが、それはある意味まちがっている。
朝鮮半島は独自の役割を果たしてはいたが、文明史的には日本文化は中華文明との緊張関係で成立しているのである。
 
本書の主張の特徴は以下の点である。
 
(1)古代朝鮮は中国人植民地から始まったとしていること
(2)前近代に日中は3回戦争しているが、中国は一度も負けておらず、日本は一度も勝てなかったとしていること
(3)日本が1401年〜1589年のあいだ冊封されていたとしていること
(4)「中国5000年」の文化的優越意識と漢人贔屓?が見え隠れすること
 
歴史観の枠組みがおもいっきりマルクス主義なので、古代奴隷制社会→中世封建制社会を基軸になっているのはご愛敬としても、朝鮮征伐を語るくらいからいきなり「中朝人民の英雄的反侵略闘争の勝利!」といった具合になってしまうのは笑った。しかもこの頃から典拠不明の既述が増えるし、なんかポジショントークしなきゃならないポイントなんですかね?
まぁ1961年生まれの安徽師範大学歴史学科・山東大学歴史学科・北京師範大学史学所卒業、北京師範大学教授という経歴を考えればこの程度で済んでいるのはまだマシってことなんだろうか。
 
ところでちょっと面白かったのは以下のくだりだ。

一二三一年、撒礼塔の率いるモンゴル軍が高麗を攻撃、連戦連勝して高麗の王城に迫った。高麗の高宗は仕方なく講和を申し入れ、モンゴル軍は巨額の財物を脅し取った上で撤退した。しかし、高麗の京、府、県にダルガチ(達魯花赤=鎮守)七十二人を残し、高麗に対する監督統治を続けた。[p179]

このダルガチってもしかして・・・

李成桂の四代前の高祖父は、名を「李安社」と言いますが、実は、彼の官職が問題なのです。
元朝(蒙古)の正史である『元史』には、李安社が、元朝に仕える地方官吏「達魯花赤」であったと記しています。
達魯花赤とは、蒙古帝国が占領併合した地域の統治官・行政長官として設置した官職で、現地の徴税・戸口調査・駅伝事務・民政一般・治安維持と言った行政全般を大汗(ハーン)に代わって執行した代官です。
そして、その達魯花赤には、稀に色目人(西・中央アジア出身者)が登用される事はあっても、原則として蒙古人(及び蒙古系女真人)が任命される事が慣例であり、当時の被支配階級であった支那人、ましてや「支那人の子分」に当たる高麗人が任官する事等到底あり得なかった訳です。
その達魯花赤に「高麗人」李成桂の高祖父である李安社が任官していた。通常では絶対あり得ない「高麗人」の達魯花赤任官。これは、李安社が「絶対あり得ない」異例中の異例としての任官を果たしたと言うよりも、寧ろ、李安社が高麗人では無かったと考えるのが極めて自然である訳です。
そして、それは取りも直さず、李成桂自身も純粋な「高麗人」では無かった ── おそらくは、女真人と高麗人の混血 ── だろうと言う答えに行き着きます。
URL:http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5905

http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20090507/1240025426

ふつうに考えて原住民を監視する代官に原住民はつけないわな。
李成桂はモンゴル人かジュルチン人で、少なくとも被支配民たるコリア人じゃないこと確定ですね。
   

第1章 古代東アジア三国の初期の交流
概説
第一節 中国と朝鮮半島国家の初期の往来
  一 箕子の朝鮮入りと移民の波の出現

商部族の間で盛んだった鳥のトーテム、支石墓(石の棚のような墓で、テーブル型と碁盤型がある)、抜歯の習俗などは、朝鮮半島青銅器時代(ほぼ紀元前十世紀から同五世紀)に広くみられた。こうした神話伝説や民俗風習の共有がみられ、そして当然ながら隣同士という地縁関係もあったため、商朝滅亡後、箕子が同じく東夷に属する朝鮮半島に移ったのは情理にかなっているといえよう。[p15]
 
 注目すべきは、こうした漢文化の影響が「漢四郡」の置かれた朝鮮の北方地区に限られず、半島南部の地区に対しても魅力と吸引力をもち、彼らを漢文化にあこがれさせたことだった。(略)南部の一部部落は、南に移住した北方人が南方の土着人と雑居してできた移民社会だった。出土品からも分かるように、漢四郡の文化は半島最南端の済州島などの地にも影響を与えていた。[p24]
 
 三一三年と三一四年に朝鮮半島楽浪郡帯方郡高句麗によって滅ぼされたあと、そこに生活していた多くの中国人は、あるいは帰国し、あるいは留まったが、日本に移民したものもかなりいた。(略)古代日本の外来移民は秦氏と漢氏の二つに大分される。この記述から、六世紀前半までに日本に来た移民は、秦人だけでも七千戸以上に上っていたことが分かる。その人数は全体で三万人余りだっただろう。漢人の戸数や人口については統計がないが、どちらもほぼ同じくらいの人数だったとすれば、当時の移民の数は六、七万にも達していたことになる。[p60-61]
 
『広開土王碑』の碑文によると、日本は三九一年に大軍を派遣して海を渡り、朝鮮半島南部に進入し、百済新羅を打ち破ったあと、南部地区を日本の従属国にした。この時期の百済新羅は事実上、日本の植民地だったのである。その後、日本はさらに朝鮮北部にも進出しようとした。四〇四年に日本は漢江を渡って帯方郡の故地に進入を試みたが、高句麗軍との戦いで惨敗を喫した。北部の高句麗が強大だったため、朝鮮半島併呑の日本の夢は実現しなかった。
 五世紀に入って日本勢力が半島南部を徐々に支配し、百済新羅保護国にするようになると、日本は外交ルートを通じて半島南部占有の目的を遂げようと考え始めた。[p65]

にゃんこの注)
この朝鮮半島からの移民=帰化人を朝鮮の学者はみんなウリナラ認定するのだが、漏れはまえまえから素直に秦人・漢人と理解した方がスッキリすると思っていた。まさに我が意を得たりである。これは逆にいえば当時の朝鮮半島は「単一民族国家」なんかじゃないことを意味するから朝鮮ウヨクは認めたくないんだろうけど、三国史記にもふつうに書いてあるんだけどなあ。

  二 衛氏朝鮮の成立と「漢四郡」の設置
  三 三韓部落から三国の競い合いへ
  四 朝鮮三国と中国魏晋南北朝政権との交際
第二節 古代中国と日本との早期の交際
  一 徐福東渡の伝説
  二 漢光武帝の金印の謎
  三 女王卑彌呼の魏への遣使
  四 「倭五王」と劉宗政権の遣使往来
第三説 古代朝鮮と日本の早期交際
  一 朝鮮からの移民と漢文化の伝播
  二 古代日本の朝鮮半島侵略

その後も、唐と日本の水軍は数回にわたって公選したが、日本軍は戦うたびに敗北した。白村江の戦いで唐軍は、日本の戦船四百余艘に火を放って破壊し、無数の的を殺して海水を真っ赤に染めたという。日本軍惨敗の知らせが周留城に伝わると、城を守っていた百済の王子は部隊とともに投降した。百済はここにおいて完全に滅亡した。日本の陸軍は周留城その他の地区から急いで撤退し、帰国した。
 白村江の戦いは、百済を完全に滅ぼしただけではなく、日本の拡張の野心にも打撃を与えた。この失敗以降、豊臣秀吉朝鮮出兵まで、日本が朝鮮で軍事行動をとることはなかった。[p92]

にゃんこの注)
日本では鬼室福信と豊璋王の内紛のトバッチリで戦闘に負けたと説明されることが多いところ、鬼室のキの字もでてこず、唐の軍船が優秀だったから勝ったという整理になっている。まったくのウソというわけじゃないが、事の半面しか説明できていない。日本軍は1000艘中400艘を失っただけなのに撤退してのはなぜか?ようするにあんまりやる気がなかったのだ。朝鮮半島領有の最大のモチベーションは鉄利権だったのだが、7世紀には日本でも鉄の自給が始まっているので百済王家と関係の深い天智天皇以外は出兵に反対だった。なので敗戦を理由に撤退したというのが真相だろう。その後朝鮮に興味を失ってしまうのもそのせいだ。

  
第2章 中国隋唐帝国時期の東アジア三国
概説
第一節 隋帝国時期の東アジア三国関係
  一 隋朝の高句麗征討
  二 隋朝の百済新羅との関係
  三 小野妹子の出使と国書問題

中国の歴代皇帝は天を敬い、自ら天子と称してきたので、隋の文帝は倭王が自らを天の兄弟だといっていることに腹を立てた。[p82]

にゃんこの注)
この最初の遣隋使で文帝を怒らせた理由は日本では「天を兄とか、言ってることがイミフ」と解釈されている。しかし中国人からみれば皇帝=天子は天の子なんだから、天の弟>天の子になるので無礼!てほうが説得力あるよね。こういう発見があるから中国人の書いた本は面白い。しかし怒られたというのにその後も「東の天子」とか「東天皇」とか、やる気満々(笑)

第二節 唐帝国時期の東アジア三国関係
  一 朝鮮三国の紛争と白村江の海戦
  二 日本の遣唐使と鑑真の東渡
  三 唐朝と新羅の関係
第三節 日本と新羅の制度改正
  一 隋唐帝国の制度改革
  二 日本の大化の改新
  三 新羅の隋唐制度模倣
第四節 隋唐時期の日本と朝鮮の関係
  一 隋および初唐時期の日本と朝鮮三国関係
  二 新羅統一後の日本との関係
  
第3章 中国宋元時期の東アジア三国
概説
第一節 宋元時期の中国と高麗の関係
  一 宋遼金政権と高麗の多角関係
  二 元朝と高麗の緊密な関係
  三 宋元時期の朝鮮と中国の文化交流
第二節 宋元時期の中国と日本の関係
  一 両宋と日本の交際
  二 元の世祖の日本の東征

元軍の第一次日本征伐はこうして幕を閉じた。事後の統計によると、私兵の損害は一万人に近かったが、その多くは暴風による死者だった。[p217-218]
十五万人近い元軍と四千余艘の戦艦は、日本軍に敗れたのではなく、台風によって滅んだのである。[p225]

にゃんこの注)
日本の場合には侵略なのに元は東征やら征伐ですか ( ´_ゝ`)フーン
まぁそれはいいとしても、元寇引き分け・日明戦争勝利というのは言い過ぎだな。元寇は日本軍勝利、日明戦争は引き分けだろ。
ちなみに「亀甲船」のイメージは征韓論者の日本人が言い出したのでそれを広めた朝鮮人学者本人が後から否定しているというのは知らなかったな。木造装甲の表面に槍を立てたもので、しかも3艘しかなかったのでは大勢に影響があったとは思えないな〜

 このうち、弘安の役では、いわゆる神風・台風によって元軍に大きな被害が出たことは事実のようだが、文永の役では、実はこれを確定するだけの根拠は今のところ存在しない。
 そもそも文永の役で神風があったとされているのは、新暦では十一月の後半。この季節に台風はほとんどなく、船が暴風雨で消滅するほどに急激に天候が荒れるとは考えられない。(略)
また、元寇を語る時の基礎資料の一つ、『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』には次の既述がある。「夜明ケレハ廿一日之朝、海之面ヲ見ニ蒙古之舟共皆馳テ帰レリ」(略)
高麗側の資料『高麗史』では、夜間の暴風雨で多数の艦船が覆没したとある。(略)
 しかし、蒙古側の資料『元史・日本伝』では、「至元十一年冬十月、入其国敗之。而官軍不整。又矢盡。惟慮涼四境而帰」とあり、要するに軍の統制が取れず、矢も尽きたので撤退するというのである。(略)
兵器上の勝ち目である毒矢が不足しつつある不安や、副司令官の劉復亨が討たれたことによる蒙古・漢・高麗三軍の混乱に加え、日本側の夜襲による反撃への恐怖から、攻撃を中止して軍船に戻り、ついでに暴風雨を理由にして撤退したということは、十分にありえる。[家村和幸著『真実の「日本戦史」』p17-18]
 文永の役とは違い、この季節に二ヶ月も本格上陸を阻止し続けていれば、当然ながら、台風の一つや二つはやってくる。
石塁を築いて上陸適地を全て塞ぎ、その上で待ち構えている士気旺盛な鎌倉幕府軍四万、敵の上陸無しと判断するや、恩賞目当てに小舟で敵船に乗り移り、白兵戦を挑んだ鎌倉武士たちの剛胆さ。これらが結果的に、大陸を暴れ回った元軍に対して陸戦を許さず、狭い船上・船内ゆえに毒矢もてつはうも使えず、集団戦法もできない状態に持ち込み、得意の「一騎打ち」で切りまくることになったのである。これこそが弘安の役における日本軍の勝因であり、台風があってもなくても結果は同じだったのである。[同p20-22]

戦争の勝敗とは野戦軍司令官が敗北を自任することによって生じる。秀吉軍と戦った主力の敵は明軍であって朝鮮軍ではない。常時明軍は朝鮮軍を数で上回っていた。この戦いは日明戦争であって、不運にも朝鮮は戦場になった。そして文禄の役で敗北を自認したのは明の野戦軍司令官李如松であって沈維敬を通じて和平を画策した。また、この両役を通じて、秀吉軍の中の主だった武将のうちで戦死した者はいない。
 この戦争は対称的に、すなわち平等な武器をもって戦われていない。秀吉軍は火縄銃を装備していたが、明軍や朝鮮軍は中世様式の大砲はあったが小銃はもっていなかった。こういう非対称の戦争では、スペインのピサロがインカ兵に示した如く、銃兵は簡単に刀槍兵を圧倒できる。(略)ところが、一ヶ月半後の四月、秀吉軍は全軍を日本に撤退させてしまう。これはなぜだろうか?
 理由は単純で平壌から北へ進む兵站が成立しなかったためである。[別宮暖朗『韓国の妄言』p72-73]

「鉄甲」亀甲船神話、ゆらぐ
1 :日出づる処の名無し[]:2007/12/05(水) 23:46:24 id:bpuE0U9l
http://www.donga.com/photo/news/200712/200712040182.jpg
「世界初の鉄甲船」と言う亀甲船の神話が搖れている。
ソース:東亜日報(韓国語)‘鉄甲’亀甲船神話搖れる
http://www.donga.com/fbin/output?n=200712040182
  
歴史著述家、朴ウンボンさんは最近出した「韓国史の常識を正す」で亀甲船は鉄甲船ではなく木板に鉄錐を差し入れた船と見なければならない、と指摘した。
 
朴さんは李舜臣将軍の乱中日記や後代の記録のどこにも亀甲船が鉄甲船と言う記録がないし、李舜臣の甥、李芬が残した文や英祖の時、改造された亀甲船を視察した朴ムンスの報告書に「厚い版で覆われている」と記載された点をあげた。ここで板は木版を意味すると考えるのが妥当だというのだ。
 
季刊「歴史批評」冬号に掲載された韓国科学技術院(KAIST)のシン・ドンウォン教授の「鉄甲亀甲船論争史」には亀甲船が鉄甲船という主張の起源を詳細に追跡した。それによれば、最初の記録は李舜臣将軍に敗れた日本の将帥、外岡の回顧録「高麗船戦記」だった。外岡は「大きな船のうち3艘が亀甲船で、鉄で要害にした」と言って鉄甲船説を主張した。
 
1831年、韓国を征伐すべきだという日本の「征韓偉略」はこれを引用して、李舜臣による敗北を合理化するために亀甲船を鉄甲船に脹らました。国内最初の記録は「亀甲船が天下で一番先に作られた鉄甲船」と述べた愈吉濬の「西遊見聞」(1895年)だ。
 
シン教授は愈吉濬が日本で「征韓偉略」を見るなどして伝え聞いたものと推定した。これは1906年、崔錫夏の‘朝鮮の魂’や1908年丹斎・申采浩(シン・チェホ)の‘大韓の希望’のような文を通じて抗日意識とかみ合い、国内に広く広がった。丹斎は以後、鉄甲船説が征韓論の延長線から出たことを知って1930年代、朝鮮日報に連載した‘朝鮮上古史’を通じて鉄甲船説を否定した。
 
これは光復後、1957年キム・ジェグン、1958年チェ・ヨンヒなどにつながったが、軍事政府が介入してきた。シン・ドンウォン教授は「若い申采浩が正しいのか、晩年の申采浩が正しいか」と言いながら、この論争の真偽を軽く引き分けにした。シン教授は亀甲船に先立って1585年、オランダで鉄板によって一部を覆った船を作ったというジョセフ・ニーダムの「中国の科学科文明」を紹介することで最小限‘最初’のタイトルについては留保的な態度を見せた。

  三 宋元時期の日中民間海上貿易
  
第4章 明清時期の東アジア三国関係
概説
第一節 明および清初・中期の中国と朝鮮の関係
  一 明朝の中国と朝鮮の友好関係の発展
  二 明と朝鮮の壬辰衛国戦争

一五九二年に始まった壬辰衛国戦争は二つの段階を経て、最終的には中国・朝鮮軍民が手を携えて奮闘し、日本の侵略者を打ち破る形で決着をみた。この戦争は後人に何を語っているだろうか。第一に、日本が久しく朝鮮に野心を抱いていたことである。朝鮮の三国時代、日本は早くも動き出した。だが白村江の海戦で失敗し、日本には朝鮮をわがものにする能力がまだないことを暴露した。壬辰衛国戦争の際に豊臣秀吉が和平交渉の使者に伝えた七項目の条件から分かるように、この戦争を始めた目的の一つは、朝鮮の領土を占領し、朝鮮を自国の従属国にすることだったが、根本の目的は当然、一歩進めて中国を占領することにあった。(略)この戦争で明朝は、属国を守るために、また自国を守るために、前後数回にわたって派兵して朝鮮を援助した。抗戦の過程で両国人民は互いに支持し合い、深い戦闘的友情を結んだ。また抗戦勝利後、明朝は機に乗じて朝鮮になんらかの要求を行うようなこともしなかった。われわれは苦楽をともにし、「唇歯相依る」という言葉で表現されるよ友好関係と戦闘的友情を築いたのである。[p274-275]

にゃんこの注)
「われわれ」って、誰に向けてアジっているのかなあ?(;^ω^)
だいたい歴史用語に価値判断を含む「衛国」なんて形容をつけないで欲しいお。
じつは朝鮮征伐の目的は中国支配にあった!・・・なんて最初から秀吉言ってるじゃないですか。朝鮮なんか領有しても儲からないことわかっているくせに。それにしても北京政権がなぜ朝鮮半島に必死に属国を維持しようとするのか、よくわかりますね。(笑)

  三 清初・中期の中国と朝鮮の宗藩関係の変化
第二節 明および清初・中期の中日関係
  一 明と日本の宋藩関係樹立と勘合貿易

一四〇一年、足利義満は博多商人、肥富の建議を受けて正式に遣使、明朝に貢納して通好を求めた。(略)ところが一四〇八年に足利義満が病死すると、足利義持は父のやり方を変え、明朝との関係を断絶した。(略)一四二八年に足利義持が亡くなり、足利義教が即位した。彼は直ちに明朝との貢賜関係の回復に着手し、朝鮮に斡旋を依頼した。(略)一四三二年、足利義教は遣使して国書を呈し、明朝の正朔を奉じ、明の宣宗の宣徳年号を使うことを表明した。宣宗は手厚く回賜し、日本の使節との間で「宣徳貿易条約」に調印、両者の宗藩関係と貿易関係が正式に回復された。(略)宣徳八年(一四三三年)から嘉靖二十六年(一五四七年)までの百余年間に日本は十一回の対華貿易団を組織した。[p293-294]

にゃんこの注)
足利義満が「臣」を自称して貿易をしたというのは知っていたけど、勘合貿易全体が朝貢関係下で行われたとは知らなかった。これ結構重要なことだと思うんだけど、漏れが知らないだけ?

  二 倭寇の患と威継光
  三 清初・中期の中日関係
  
著者あとがき
役者あとがき