韓国は日本軍によって占領されていたけど併合されていない??

      

      
これ、彼らの幸せ脳の中ではナチドイツに抵抗したフランスを想定しているんだよねえ(笑)
AAの植民地解放闘争と同一視されたくない。
なので議論が普遍性をもたず破綻する。
    
繰り返しになるけれど、
上海臨時政府なるものも国府軍に間借りした数十人の反体制亡命者に俄作りの「光復軍」300人くらいをセットしただけの代物なのよ。
しかもだんだん厄介扱いされて最後には100人もいなかったらしい。
それとは別に毛沢東が朝鮮を見たこともない「朝鮮族」を組織した部隊は大隊1000人くらいいたらしいが、こちらも日本軍と交戦してない。
唯一戦闘経験のある金日成の「パルチザン」はソ連軍の一小隊で50人くらいしかいなかった。
それで対日闘争とか無理アリ杉www
   
しかし実態は別として植民地化って「国際法上どうよ」という疑問はあった。
というか「国際法」という法律があるわけじゃないので、現在法的にどう解釈されているの?という疑問。
で、この問題に関して必ず見るコピペがある。
  

「2001年にハーバード大学英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず 韓国主張崩れる

                                                                                                                                                              • -

産経新聞2001.11.27)
   
【ソウル26日=黒田勝弘
   

    
日韓の歴史認識問題で大きな争点になっている日韓併合条約 (一九一〇年)について合法だったか不法だったかの問題をめぐり、このほど米ハーバード 大で開かれた国際学術会議で第三者の英国の学者などから合法論が強く出され、国際舞台で不法論を確定させようとした韓国側のもくろみは失敗に終わったという。
  
会議参加者によると、合法論は国際法専門のJ・クロフォード英ケンブリッジ大教授らから出され「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」と述べた。また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(一九一四−一八年)以降のもので当時としては問題になるものではない」と主張した。
  
この学術会議は米ハーバード大アジア・センター主催で十六−十七日開かれたが、韓国政府傘下の国際交流財団が財政的に支援し韓国の学者の主導で準備された。
これま でハワイと東京で二回の討論会を開き、今回は韓日米のほか英独の学者も加えいわば結論を出す総合学術会議だった。
   
日本からは海野福寿・明大教授や笹川紀勝・国際基督教大教授、原田環・広島女子大教授ら五人が参加したが、海野教授の「不当だが合法」論や笹川教授の不法論など見解が分かれた。韓国側は「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に不法論を主導している李泰鎮・ ソウル大教授はじめ全員が不法論で、会議をリードしようとした。
  
しかし日本の原田教授は併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し韓国を保護国にした日韓保護条約(一九〇五年)について、皇帝(国王)の日記など韓国側資料の「日省録」や 「承政院日記」などを分析し、高宗皇帝は条約に賛成し批判的だった大臣たちの意見を却下していた事実を紹介し注目された。併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英国の学者らから出されたという。
 
日韓併合条約については韓国や北朝鮮からはいまなお執ように不法論が出され謝罪 や補償要求の根拠になってきた。日韓国交正常化の際も激しく対立したが、合法・不法の結論は出さず「今や無効」との表現で国交正常化(一九六五年)にこぎつけた経緯がある。
  

  
でもこれのオリジナルな議事録をみたことがない。
調べてもこれに関するデータのありそうなリンク先はことごとくNot Found。
ホントにあるのか?アインシュタインの日本評と同じようなネトウヨの妄想なんじゃねえの?と疑っていた。
  
そしたら唯一こんなのが見つかった。
貴重な証言なのでメモ。
ようするに無効論なぞマトモな学者は相手にしていないってことか。
  

     

  
第3回韓国併合再検討国際会議(Final Conference of "A Reconsideration of the Annexation of Korea”)参加記−「合法・違法」を超えて
  

神戸大学大学院国際協力研究科助教授 木村 幹
    
第3回韓国併合再検討国際会議は、2001年11月16日、17日の両日に渡り、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジ市のシェラントン・コマンダーホテルにて、同市所在のハーヴァード大学の全面的な協力により行われた。その名称からもわかるように、同会議は同年1月にハワイにて行われた第1回会議、及び同じく4月東京都多摩市にて行われた第2回会議を引き継ぐものであり、また、これら一連の「韓国併合jを巡る国際会議のいわば締めくくりの役割を持つ会議として行われたものである。会譲には、都合、日本側5名、韓国側4名に加えて、ハーヴァード大学及びその近郊における多数の東アジア研究者、更には、その他の欧米や日本からも多数の参加者を迎えて行われた。以下はこの会議に日本側参加者の一人として参加した筆者による、同会議の参加記である。
   
本会議の目的は明確であった。それは90年代、主として李泰鎮ソウル大学)・海野福寿(明治大学)両氏を中心に、再び活発に行われた韓国併合の「合法性」を巡る議論に一つの解決を与えんとすることであり、そのことはこの会議、そしてそこに至るまでの過程が、一貫して韓国側の強いイニシアチブによって導かれたことからも明らかであろう。背景にあったのは、韓国側の明白な外交的思惑であったと思われる。即ちそれは、1965年の日韓条約において曖昧なままに処理された両国の「過去jを巡る議論に対して、今後、より正確には、会議が構想された時点において今後行われるであろうと予想されていた、日本と朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)との聞の国交正常化交渉の場を利用して、事実上、韓国学会が北朝鮮をサポートする形で、自らが曖昧にしか処理できなかった「過去」の問題に対して、日本にその責任を認めさせようとする思惑であり、その意味で本会議は当初から強い政治的意図を帯びたものであったということができる。そのような会議の性格は、この会議をして、学術的なものとしては、極めて異例なまでの、明確で対立的な論点を有するものとさせることとなる。即ち、会議の最大の焦点は、韓国併合の「違法性」を主張する韓国側の議論が受け入れられるか否かであり、それは何よりも、各々の報告者が自らの自由な見解を自由に展開した日本側参加者とは対照的な、この会議における韓国側報告者の入念な準備と、「違法性」主張に向けられた一致した議論のあり方に良く表れていた。
   
議論の焦点となったのは、1910年の韓国併合に先立ち、1905年に日韓の閤で締結されたいわゆる「第2次日韓協約」の法的有効性であった。韓国側の理解によるならば、韓国併合とそこに至るまでの一連の条約に至るまでの過程は、この第2次日韓協約により、韓国が日本に外交権譲渡を強制されたことが重要な契機となっており、それ故、この協約の有効性が否定されるなら、即それは日本による韓国併合は違法なものとなり、いわゆる日本植民地支配は、日本帝国主義による、違法な「強占(強制的軍事占領)」とされる。
   
韓国側の以上のような前提については、後に論じるとして、このような理解を大前提として、韓国側は、この第2次日韓協約の「違法性」の理由を次のように歴史的・法的に構成した。
  
即ち、その論拠の第一は、嘗て、90年代中盤以降、季泰鎮・海野両氏の間で活発に繰り広げられ、その結果、今日では広く知られることとなった、いわゆる「強制による条約無効」の議論である。そこで主張されるのは、1905年に締結された第2次日韓協約(いわゆる保護国条約)は、日本側の強制により、韓国側が無理やり締結されたものであり、その条約締結の手続には重大な瑕疵が存在する。手続き的瑕疵が存在する以上、この条約が無効であることは明らかであり、それ故当然、この条約を前提としてその後到来する韓国併合そのものも無効である、ということである。
  
勿論、このような手続き的暇疲にその根拠を求める、韓国側の主弓割こは、それが越えなければならない一定のハードルが存在する。言うまでもなく、その第一のハードルは、そもそもの「強制」の内容である。周知のように国際法においては、ある特定の条約の有効性を否定する根拠として、その締結過程における「強制」の存在が主張される場合、この「強制」は、条約当事国そのものに対してではなく、条約締結に当たる国家の代表者そのものに対してのものでなければならない、とされるのが通常である。国際法が「国家に対する強制」と「代表に対する強制」を区分するのは、現実の様々な条約締結過程において、力のある国が、それを有さぬ国に対して、明に或いは暗に、自らの強大な力の存在をちらつせ、これを以て条約締結過程そのものを有利に運ぼうとすることが頻繁であり、そのような状態において「国家に対する強制」による条約無効を認めることは、国際社会に現に存在する様々な条約、更にはそれらによって構成される国際法秩序を揺るがしかねない、からである。従って、問題はそのような「代表に対する強制」と言えるものが存在するか否かであり、議論はこれを歴史的に証明できるか否かに集約されることとなる。
      
本会議、そしてそこに至るまでの一連の議論の特質は,この「代表に対する強制」を巡る議論が、条約に実際に署名を行った当時の韓国側外務大臣に対する強制のレベルではなく、もう一段上に存在する、当時の大韓帝国における主権者であった高宗(光武皇帝)に対して、直接的な強制が行われたかを巡って争われたことであり、その結果、この会議の最大の論点の一つは、それを強く主張する李泰鏡氏がそのことを歴史的に論証できるかであった。
  
結論から言うなら、この点について李泰鎮氏は、既に第2回会議において海野氏から指摘されていた、李泰鎮氏が最大の根拠として引用する文献に対する疑義に、有効な反駁を行うことがなく、結果、実際に皇帝に対する強制が存在したことを直接的に証明することはできなかった。勿論、そのことがこの時、日本側が高宗個人に対する強制・脅迫を行わなかったことを証明するものではないことは、言うまでもなかろう。寧ろ、明らかになったのは、この点を証明することが困難であること、言い換えるならば、この点を突き詰めてゆくことにより、第2次日韓協約の無効、更には、韓国併合そのものの無効を証明することが、如何に困難であるか、であったということができよう。
   
このような自らの論議の弱点を補う為に季泰鎮氏が本会議において展開したのは、寧ろ、第2次日韓協約の締結手続における、他の部分における様々な瑕疵、或いは、異常性の指摘であった。氏の多岐に渡る指摘を、過度の簡略化を承知で筆者なりにまとめるなら、その議論は二つに集約されることとなると思われる。
   
その一つは、同条約に証明した韓国外務大臣に対する全権委任状の欠如や、協約に対する国王の批准の欠如など、条約締結過程における手続そのものに対する不適切性の指摘であった。この点については、既に事実そのものは確定した状態にあり、問題は寧ろ、これらと協定の有効性を関係付ける、当時の条約手続とその有効性をめぐる国際法を如何に判断するか、という法的、或いは法史学的な議論へと連結されることとなろう。
  
もう一つの、そして歴史家である李泰鏡氏による指摘としてより重要であったのは、この協約の締結過程が、当時の大韓帝国憲法に相当する「大韓帝国国制」に定める手続きに反しており、それ故無効である、という指摘である。それは法的には、国内法の規定を根拠に、条約の無効を主張するものであると言うことができよう。これに対しては、既に先立つ会議において、原田氏から「大韓帝国国制」に定められた諸規定が当時、どの程度まで実際に履行されていたかが不明確であり、それを基に大韓帝国の現実の「国内法」を判断することの不適切性が指摘されていた。が、より重要であるのは、通常考えられている「国際法は国内法に優越する」という国際法と国内法の関係を規定する大原則を、この議論が如何に乗り越えるかであり、この点が明確にされなかった以上、この議論もやはり、韓国併合の違法性を巡る議論に直接的な解決を与えるものとなることは、困難であったろう。この点については、同じく手続き的な部分についての指摘を中心に展開された、康成銀氏(朝鮮大学)の議論も同様であったろう。何れにせよ、それまでの「代表に対する強制」を巡る議論より遥かに困難な、「何がどの程度まで行われれば、条約の法的効力が否定されるか」という、条約締結当時の国際法を巡る議論が必要であり、これらの李泰鎮氏の指摘は、一連の過程の異常性を指摘し、これらに対する歴史的,法的議論を呼び起こすものでこそあれ、直接的に条約の効力無効を証明するものということはできない。
   
勿論、議論は条約締結の手続きについてのみ向けられた訳ではない。この点において重要であったのは、韓国側、特に金基ソク氏(ソウル大学)によって主張された、そもそもの議論の前提となる、主権者たる高宗の意思を確定しようという一連の試みである。言うまでもなく、仮に高宗の意志が、条約に表明されたものと異なることが証明されたとしても、それが条約そのものの無効に結び付けられるためには、引き続き、そのような錯誤ある意思表明が行われるに至った原因と責任の所在の解明が行われ、最低限、それが日本側の行為による結果であることが明らかにされなければならない、と考えられるが、ともあれ、この作業は条約の「実質的内容」に迫るものとして、単なる法的議論の準備作業としてのみならず、歴史的議論としても、基礎的でこそあれ極めて重要なものであったということができる。加えて、この点については、第2次日韓協約に関わる高宗の一連の意思表明が、主として欧米列強に対するアピールとして行われたことの結果として、比較的よく知られた、信頼のおける資料による構成することが容易であり、その意味で、この議論は、韓国併合の合法性・違法性を直接的に議論しようとする本会議全体の中では、あくまで李泰鏡氏の議論に対する補完的な役割を果たすものでしかあり得ないが、にも拘らず、先の李泰鎮氏の主張に比べるならば、相対的に「手堅い」ものであったと言うことができよう。
  
とはいえ、このような金基ソク氏の主張も、本会議ではそれがそのまま受け入れられた訳ではなかった。この点について注目されたのは、原田氏によって指摘された、大韓帝国国内における、全く異なる高宗の意思表明の存在であった。原田氏によれば、国外に対しては条約締結過程における日本側からの強制の存在を理由に、当該協定が無効であることを主張する高宗が、この協定を結んだことを非難する国内の勢力に対しては、寧ろ、それが主権者たる自らの意思に適ったものであり、それ故、当該協定は有効である旨主張されている、とされる。原田氏との若干の解釈の相違を承知で、筆者の見解を述べるならば、このことはこの時期、或いはそれ以前から、高宗は必ずしもこの問題に対して確固たる意志を有しておらず、寧ろ、状況の変化に対して、よく言えば柔軟に、悪く言えば機会主義的に対応していたことを意味しているのであろう。実際、自身が国王の地位に就いてから後における、高宗の柔軟な政治的方針の変更は数多く見ることができる。韓国併合に対する法的解釈を巡るものとしてはともかく、寧ろ、当時の大韓帝国に対する歴史的理解を巡る議論として、今後注目してゆくべき議論である、ということができよう。
   
日韓両国の歴史学者の間での議論が、以上のような、従来から持ち越された明確な論点を持った、悪く言えば従来からの議論の枠組みを出ないものであったのに対し、他の分野、そして日韓以外の地域からの参加者の議論は、このような「歴史のしがらみ」を離れた自由なものであった。笹川克典氏(国際基督教大学)の、膨大な国際法テキストに対する調査に基礎を置く、主として、これらテキストが第2次日韓協約をどのように議論しているか、そして、これらテキストにおいて「強制による条約」がどのように議論されているか、を巡る議論は、その主たる論争相手である坂元茂樹氏(関西大学)が本会議に欠席したこともあり、若干、それまで2回の会議に参加しなかった者達には、理解の困難な傾きを有するものとなった。同氏が一貫して主張したのは、韓国併合の合法性の主張と根拠となる法的議論は、その当時において、未だ必ずしも明確なものではなかった、ということであったが、この議論は、皮肉なことに、韓国側の議論をサポートしようという笹川氏自身の明確な意図に反して、他の報告者の報告ともあいまって、韓国併合、更には、第2次日韓協約当時の国際法を定めることが、如何に困難であるかを証明するものであるかに思えたのは、決して筆者だけではなかったであろう。この点について、テキストではなく、当時の列強、特にイギリス政府による一連の条約に対する理解と解釈を中心に議論したのは、キャティ氏(ダービー大学)であった。同氏は、以前の会議から一貫して、「そもそも国際法といえるものが存在したかどうかさえ疑わしい」帝国主義全盛の時代において、特定の条約の合法・違法を判断するに足る「法」を発見することは、困難である、と主張していたが、その延長線上のものと見るなら、本会議における氏の報告は、条約に対する当時の列強の見解を紹介することにより、当時の「法」が現実的な列強の「力」に対して如何に劣位に置かれていたか、また、当時の国際社会が如何に法そのものや、法的手続きを軽視していたかを示すものであった、というなら言いすぎであろうか。
    
同様の点において、キャティ氏よりも更に踏み込んだ見解を披露したのは、クロフォード氏(ケンブリッジ大学)であった。氏によるならば、そもそも当時の国際社会においては、国際法は文明国相互の間にのみ適用されるものであり、この国際法を適用するまでの文明の成熟度を有さない国家に適用されるものではない。言い換えるなら、文明国と非文明国の関係は、文明国相互においてと同様に国際法によって規定されるようなものではなく、それ故、前者においては、後者において必要とされるような手続きは必ずしも必要とされる訳ではない。極論するなら、通常、そのような文明国と非文明国との関係の一類型として登場する、植民地化する国と植民地化される国の関係においては、その最終段階一即ち、植民地化−そのものにおいて必ずそれが「条約」の形式を必要とする、とさえ言うことができない。当時において寧ろ重要であったのは、このような特定の文明国と非文明国との関係が、他の文明国によってどのように受け止められていたかの方であり、単純化していうなら、植民地化において「法」が存在していたのは、正にそこにおいてのみ、であった。そのような意味において、日本による韓国併合は、それが英米をはじめとする列強に認められている以上、仮令、どのような大きな手続き的瑕疵があり、また、それが非文明国の主権者の意志にどれほど反していたとしても、当時の国際法慣行からするならば、「無効」と言うことはできない。
 
既に以前の会議から明らかになっていたように、韓国側の主張の最大の限界が、歴史的事実の側においてより以上に、当時の国際法の状況にあることは明らかであった。そして、本会議の議論が最終的に、「韓国併合が違法か否か」を巡るものである以上、この点を避けて議論することが事実上不可能であることも、また、余りにも明らかであった。論理的に考えるなら、ここにおいて強国側、或いはこれをサポートする人々が自らの主張を貫徹するのであれば、とり得る選択肢は二つしかなかった。その一つは、上述のような欧米の国際法学者連の意見に対抗して、彼等の意見を支える国際法を実証法的に「発見」、「確定」する試みである。先に紹介した笹川氏の議論は、正にこれを目的としたものであったろうが、既に述べたように、それが依然、模索の過程にあり、何らかの結論を「確定」したという段階に至っていないことは、明らかであった。しかしながら、より重要であったのは、韓国側にはとり得べき道がもう一つあった、ということである。即ち、それはこれまで紹介した法学者達の取っていた「実証法的」議論から、何らかの理想主義的一例えば、自然法的一議論へとその足場を移し、実証法的議論においては避けることのできない「当時の国際法」を巡る議論から離脱して「あるべき法」を直接的に議論する方向へと転換を行うことであった。事実、既に以前の会議から、そして本会議においても、実証法的議論がなされる一方で、「法は正義に適ったものでなければならない」と言った形の自然法的議論が、韓国側参加者、例えば、今回も報告者であった白恵銃氏(ソウル大学)や、李根寛氏(建国大学)の報告や発言の端々に、素朴な形ではあれ、頻繁に現れており、韓国側が後者を中心にその議論を再構成することは決して不可能ではなかった。実際、今日活発に主張されるようになった、先住民族の権利等を巡る議論や、他の地域における植民地支配を巡る議論は、明確にこの方向性を有しており、仮に韓国側がそのような主張を行ったとしても、その試みは決して国際的に孤立したものとはならなかったかも知れない。
   
しかしながら、本会議において最も興味深かったのは、結局、韓国側参加者が誰一人として、このような法的議論の根本的転換を行うことなく、それが帝国主義時代における、列強の為の法として作られていた、20世紀初頭の国際法の枠組みから離れることができなかった、ということであろう。結論的にいうなら、本会議において、「韓国併合は違法である」という韓国側の主張が、欧米の研究者、就中、国際法を専門とする欧米の研究者によって、全く受け入れられなかった、のは、このような韓国側主張の論理構造によるものである、と言えようし、それ故、少なくとも議論の一貫性、という意味では、韓国側の議論は最初から重大な欠陥を有していた、というべきであろう。
   
筆者−それも本会議において韓国併合の合法・違法を議論するものとして参加する筆者ではなく、韓国ナショナリズム研究者としての筆者一にとって、本会議の議論に参加して最も興味深かったのは、このような極めて基礎的な法的議論などに、当に承知していない筈がない韓国側の参加者が、ついにこの点について明確な回答を出さなかった、ということであった。そのような韓国側の姿勢が最も象徴的に現れたのが、この点について直接的な質問をぶつけた筆者に対して、韓国側における国際法的議論を束ねる存在である、白忠拉氏が、これに対して回答を留保した、という事実であったろう。それは、一言で言うなら、一連のこの国際会議の締めくくりである第3回会議においてさえ、韓国側は、この点についてついに一貫した方針を出すことができなかった、ことを意味している。
  
韓国側の議論のその根本部分における不徹底性と、それを斎した実証法主義への拘泥の原因。想像力を逞しくして、この点について仮説を提示するなら、それは恐らく、次の二つであったろう。その第一は、韓国の植民地化、更には韓国そのものを、他の植民地化されたアジア・アフリカ諸国と同列に扱われることへの心理的抵抗である。この点については、韓国側の歴史的事実を対象にした議論の方向性にもよく現れていよう。例えば、李泰鎮氏による、韓国を日本と対等な「文明化」を遂げた立憲君主国家である、とする議論は、同時に彼が紹介したエピソード、ソウルの路面「電車」は東京のそれよりも歴史的に先んじたとも合わせて、その方向性を明確に示して言えよう。言うまでもなく、本来、当時の国際法において重要であったのは、わが国の条約改正を巡るそれにも端的に現れているように、「当時の事実」、そのものよりも、寧ろ、「当時の(列強の)認識」であり、この議論は本来、本会議に関係あるような議論としては、余り意味のあるものと言うことはできない。にも拘らず、このような主張が示す、現在の韓国人における過去への認識を示すものであるとするならば、それ自身、極めて興味深いものであると言うことができよう。現在の韓国のみならず、過去の韓国をも国際社会に認めさせる。その意味でこの主張は、過去のそれよりも、寧ろ現在の韓国の何かしらかの部分を示している。
   
韓国側を実証法的議論の泥沼へと向かわせたもの。その第二は、言うまでもなく、現実的な政治的配慮であったろう。先述のように、本会議、更には、それを取り巻く90年代以降の議論が、日本と北朝鮮との国交回復交渉を念頭に置いたものであったことは周知の事実であり、それ故、それは「学聞的に一貫はしていても、現在の国際法を巡る状況においては、即座には認められがたい議論の枠組み」を通じて議論することを避け、「学問的に極めて困難であっても、現在の国際法を巡る状況において、既に認められている議論的枠組み」に依拠して議論する他はなかった。その意味で、政治的思惑を以てはじめられた今回の会議、更には、そこにおける韓国側の議論は、結局はその政治的思惑によって、自らの発展を妨げられた、というなら些か言いすぎであろうか。
   
韓国側が実証法的枠組みと自然法的枠組みの聞で、その姿勢を明確にしなかったこと、は、結果として、本会議、そしてそこに至るまでの一連の会議における、歴史的観点からの分析を不十分なものとさせることとなった。即ち、本来なら、「韓国併合とは何であったか」、更には、「(合法・違法論を離れて)韓国併合が『不当』だとするならば、何が『不当』であったのか」を歴史的に検証する絶好の場であった本会議は、そのような場としては、極めて限定された意味しか持つことができなかった。その意味において、日韓の角逐から距離を置くことのできる、欧米の歴史研究者は冷静であったと言うことができよう。本会議における、ダデン氏(コネティカット大学)の新渡戸稲造のそれを中心とする日本植民地政策を巡る議論、更には荒井信一氏(茨城大学)の日本の国際法実践を巡る議論は有意義なものであったと言えよう。同様の意味でより大きな意味を有したのは、ダイク氏(ハワイ大学)のアメリカ合衆国によるハワイ併合に関する報告であったろう。とはいえ、ここで注意されなければならないのは、このハワイ併合が、本会議において議論された韓国併合に関する議論とどのような関係を有しているかについては、決して簡単ではない。ハワイに関してアメリカが行ったのは、正にその支配の「不当性」を認めて若干の補償を行い、政治的解決を図る、というものであり、韓国側が求めているものとは明確に異なるものである。ダイク氏がいみじくも述べたように、このような議論において重要なのは、法的・技術的な分析よりは、寧ろ、それを取り巻くより大きな歴史的実像を明らかにすることであり、その中で「力のある国」とそうでない国、また、その中で権利を侵害される人々の立場を如何に考え、必要ならば如何に救済するか、ということであろう。その意味で、本会議がダイク氏の言う「技術的」な部分を中心としたものとしたことは、大きな問題があったというべきなのではなかろうか。何れにせよ、ダイク氏の報告が氏自身の意図を離れて我々に投げかけているのは、我々はそろそろ真面目に「不当性Jの方にも向き合わねばならない、ということであったろう。
   
最後に、様々な問題を抱えていたとはいえ、本会議、そして一連のそこに至るまでの国際会議が無意味なものであった、ということを筆者は言わんとするのではない。重要なことは、今回のこの会議においては、政治的・信条的に微妙な問題をはらんだこの問題を議論するに当たって、日韓双方の研究者が、極めて論争的な環境ではありながらも、国際社会の前で、冷静に議論し得たこと、そして、その結果として、これまでの議論が如何に、全体としての問題の中で、些少な部分を議論しているに過ぎず、我々が如何に何も知らないか、そしてそれが時に如何に障害となっているか一事実のみではなく、それを議論する枠組みについてもーを確認し得た、ということであろう。勿論、そのことは日韓が交流を深めていけばよい、ということを意味しない。ビジネスや政治の現場でそうである様に、交流の活発化は、同時に両国の間の軋轢が起こる機会をも増やすこととなり、或いは、それは時に、日韓双方や、日韓内部での研究者間の対立をも深刻化するやも知れない。否、断定的な表現が許されるのであれば、そのような深刻な機会に、我々、何かしらの「日韓」を取り巻く問題に関る者達は、直面することがこれから必ずや増加することとなろう。しかしながら、重要なことは、対立を避けて、徒に楽観的で「耳心地の良い」議論ばかりを行うことではなく、寧ろ、各々の研究者自らが、自らのプロフェッショナルな領域で、冷静に議論を戦わせることであり、その意味で、本会議は一つの模範となり得るものであったろう。また、この会議を開催するに当たって、尽力された各方面の方々の苦労には大きなものがあり、一参加者として、その労をとられた方の存在あって、この会議が成立していたことを、読者諸氏にお伝えしたいと患う。
   
最後に、蛇足ではあるが、会議開催後−ケ月以上を経た今日、マスコミのそれを含めて、本会議に対して様々な報道や報告がなされている。しかしながら、その多くは、会議の一面のみを捉えて誇張したものや、極端なものとしては、満足に取材もせずして記事を執筆し、会議の実相とは全く異なる報道をしているものさえ存在する。一参加者として、このような行為は、会議における報告者やコメンテーター、更には傍聴者をも含めた参加者や関係者に対する冒涜以外の何者でもない、と言うことを指摘したい。この点について、研究者が冷静に議論するに当たり、それを取り巻く社会の側の良識が如何に重要であり、その欠如が如何に障害であるかを認識できたことは、本会議に参加した結果得られたもう一つの大きな成果であった、というなら、皮肉に過ぎるのであろうか。
   

クロフォード氏
  
参考■会議での報告者と報告表題一覧
 

李泰鎮ソウル大学
"Procedural illegalities of Treaties for Divesting Korea of its Sovereignty(1904-1910)"
 
金基ソク(ソウル大学
"Emperor Kwan-Mu's Freedom Fighting against Japanese Invasion in 1905 and after"
 
海野福寿(明治大学
"Reevaluation of Yi Taejin's Theory of Invalidity of the Annexation Treaties:The Formes and Procedures"
  

原田環(広島女子大学
「第二次日韓協約について」
  

荒井信一(茨城大学
「日本の対韓外交と国際法実践」
  

康成銀(在日本・朝鮮大学)
「一次史料から見た『乙巳五条約』の『締結』過程一歴史の偽造と歴史認識
   

Alexis Dudden(コネテイカット大学)
No title(with papers)
  

Anthony Carty(ダービー大学)
No title(without papers)
  

Jon Van Dyks(ハワイ大学
"Comparing the Annexation of Korea by Japan to the Annexation of Hawaii by the U.S."
    

笹川紀勝(国際基督教大学
"0ld Treaties between Japan and Korea(1904-1910)during the Time of "classical" lnternational Law"
   
李根幹(建国大学)
"The Theory of Duress in the Laws of Treaties Revisited - With Particular Reference to the Japanese Annexation of Korea"
Read by David R.McCann
"The Illegality of the 1905 Convention between Korea and Japan"
   
白忠拉(ソウル大学
"Japanese Annexation of Korea from Intemational Law Perspectives"
  
註・報告のタイトルは原則として、当日のスケジュール表記載のものとし、同表に報告等のタイトルが記載されていなかったものについては、提出されたペーパー等を基に記述した。

  
追記)
ちなみにこの無効論であるが、よく考えるともし認められると現行政府のレジティマシーが揺らいでしまう。
公定韓国人の歴史観では、

 1895年 大韓帝国成立(なぜ成立したのかはスルー)
 1910年 大韓帝国滅亡・日本による占領始まる
 1917年 大同団結宣言、大韓帝国皇帝は主権を放棄したので、国民が継承するとのこと
 1919年 3・1独立運動大韓民国臨時政府樹立(世界に先駆けた運動だそうです)
 1945年 独立運動勝利・日本による占領終わる
 1948年 大韓民国成立

となるのだが、
 
 Q:なぜ韓国皇帝が主権を放棄したといえるのか?
 A:日韓併合条約を締結したから
  
なのである。
 
もしそれを認めないなら、1945年まで大韓帝国が続いていることになるのだけれど、大韓帝国から大韓民国への権力委譲っていつ発生したことになるんだ?
だいたい独立していた、占領されただけ、というなら独立運動って呼ぶべきじゃないよな(笑)
  

「創刊89特集 臨政樹立90周年―3・1運動から臨時政府まで 義兵は“帝国”、改革派は“民国”論争
朝鮮日報』2009年3月18日付
  
(3)朝鮮から大韓へ、帝国から民国へ
  
 我々は“大韓人よ、大韓としての道を保つように”という愛国歌を歌う。3・1運動の時に独立を要求する万歳を唱えて“大韓独立万歳”を叫んだ。ここで‘大韓’は国の名前である。我々は‘大韓’という国の国民であって、‘大韓’という国の独立のために万歳を叫んだのである。
 我が国の名前を‘大韓’と定めたのは1897年である。‘国王’を‘皇帝’と呼ぶようにして、‘朝鮮’という国の名前を‘大韓’に変えたのである。これを大韓帝国という。大韓帝国は‘大韓’という国に皇帝が主権を持っているという意味である。大韓帝国日帝の侵略を受けて1910年滅亡した。国を奪われた韓民族は、国土と主権を取り戻して国を再び建てるために独立運動を展開した。しかしどんな国を建てるのかについては、意見が違った。衛正斥邪思想に基盤を置いた義兵系列は、大韓帝国を復活しようとし、開化思想に基盤を置いた勢力は国民が主権を持つ国を建てようとした。前者を復辟主義、後者を共和主義という。
 独立運動過程で、自然と国家の主権について議論がされてきた。結論は共和主義であった。1917年、上海の独立運動家たちは全民族が大同団結して臨時政府を樹立することを提案した‘大同団結宣言’がそれである。これは大韓帝国の滅亡について君主である隆熙皇帝が主権を放棄したものと見て、君主が放棄した主権は国民が継承せねばならないとした。
 1919年4月1日、独立を宣言し、4月11日国内の独立運動家たちが中国の上海に集まって、大韓民国臨時政府を樹立した。彼らはまず国会のような臨時議政院を構成した。最初の会議でシン・ソグ(不詳)が国号を大韓民国とすることを提議し、可決された。そして政府の官制を定めて閣僚を選出し、臨時政府を樹立した。
 大韓帝国は君主が主権を持った国であり、大韓民国は国民が主権を行使する国である。そして臨時政府樹立とともに制定公布した大韓民国臨時憲章第1条は、“大韓民国は民主共和制とすること”とした。大韓民国臨時政府が樹立によって、我が国の歴史は君主主権から国民主権に、君主専制から民主共和制に変わる民族史の大転換がなされたのである。
 大韓民国臨時政府は国家と政府の二つの意味を込めている。国家が成立するためには、国民・主権・領土の三つの要素が必要だ。臨時政府は1919年9月公布した憲法で、“大韓民国は大韓人民により組織すること”(第1条)、“大韓民国の主権は大韓人民全体にあること”(第2条)、“大韓民国の領土は旧韓帝国の版図と定める”(第3条)として、国家の要素を備えたのである。
 大韓民国臨時政府を樹立によって、我が国の歴史で初めて国民主権・民主共和制・民主主義の歴史が始まった。以後、臨時政府は27年余の間政府組織を維持運営しながら、民主共和制を発展させ、定着させた。民主主義の原理に立脚した憲法を提供し、これを基礎に政府を組織運営してきた。そして大統領制・国務領制・主席制など政府の指導体制も多様に実験した。民主主義の花という議会政治も実施した。“大韓民国は臨時政府が臨時議政院の決議によってこれを統治すること”として、議会を通して政府を組織し運営したのである。
 解放後1948年の制憲国会で大韓民国政府が樹立された。制憲憲法の前文は“我々大韓国民は己未年3・1運動で大韓民国を建立して世界に宣布した偉大な独立精神を継承して、民主独立国家を再建することにおいて”と、大韓民国政府を樹立した根拠を明らかにした。現行憲法もその前文で、大韓民国大韓民国臨時政府の法統を継承したと明示している。大韓民国臨時政府を継承・再建したのが大韓民国政府である。
 日帝に国を奪われ植民地支配を受けたが、我が民族の歴史は断絶しなかった。民族史の脈はそのまま続いてきた。独立運動過程で大韓民国臨時政府を樹立し、大韓民国政府を建てた。このようにして、我が国の歴史は‘朝鮮’から‘大韓’へ、‘帝国’から‘民国’へ発展した。
  
韓シウン・檀国大学歴史学科教授
(「歴史と国家」雑考より翻訳を転載)
http://6322.teacup.com/tsujimoto/bbs/8

  
王様の遠縁の李さん         共産主義の父の李さん         中国人の子分の金さん
  
「この臨時政府の初代大統領は李承晩、副大統領は李東輝であった。李東輝は朝鮮共産主義運動の父というべき人物であるが、反共が国是である韓国ではこの事実はふつう伏せられている。臨時政府では、民族主義者たちと共産主義者たちの内紛がつづき、李承晩でさえ二年後には追放されてアメリカに渡った。その後、臨時政府は中国国民党の指導下に入ったが、当時の中国政府の勧める金元奉を主導者とする朝鮮民族革命党との合同に失敗し、国際的な承認を得ることができず、テロリズム以外で日本と戦うことはなかった。そして国民党政府の強い圧力によってかろうじて維持されてきた臨時政府は、日本の降伏後急速に統率力を失い、事実上外地で崩壊したのであった。以上の事実は建国神話の形成により被覆され、韓国では教科書などで彼らが日本と軍事的に戦い、反日の伝統を培ったことになっている。」
古田博司『韓国学のすべて』新書館 2002年5月 16頁)
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/10/05/549358