鶏泥棒


    
嫌韓2ちゃんねらーには夙に知られた朝鮮通信使の実態。
そのシンボルとも言える鶏泥棒事件がなんと日韓併合100周年企画の新聞小説にも出てきてしまいました(^_^)
日経新聞だからなぁ、これで全国区ですなあ。
もっとも一部不良朝鮮人のやったことで、それを恥じる朝鮮人もいたのだ、というエクスキューズがたつ形になってますけどね。
   

日経新聞3月18日朝刊文化面)
  
韃靼の馬 (134)
辻原登
宇野亜喜良 画
  
《東上 15》
  
 納屋のほうから老婆が出てきて、「泥棒、泥棒、鶏泥棒!」と叫んだ。
 つかみかかってきた農夫を投げとばして、丁が抱えた鶏を張へとリレーする。
 隣近所の連中が何毎かと集まってきて、三、四人の若者が張たちに向かっていった。
 騒ぎは近くの寺の宿舎にいた朝鮮人たちにも届き、事情を呑みこんだ馬上才の騎手姜(カン)が白のところへ歩み寄った。
「ここをどこだと思っているんですか!」
「馬上才の分際で、つべこべぬかすな。おれは両班(ヤンバン)だぞ。百姓のものを取って何が悪い!」
両班が偉いといっても、朝鮮のことではないですか。異国では通りませんよ」

  
こんなものまで・・・(^_^;)

 
追記)
さすがに話題になってやばいと思ったのか、極左京都新聞が火消しに動き出した(笑)
しかし、お粗末なそのロジックはあっという間にネット住人に論破されてしまったのだった(´Д⊂ヽ
       

通信使「鶏泥棒」ぬれぎぬ?ネットで話題、伏見来訪の絵図公開「一部だけ見ず判断を」
 
インターネット上などで「朝鮮通信使が鶏を盗んだ証拠」として取り上げられることが多い「通信使淀城下到着図」が、京都市歴史資料館(上京区)の展示「朝鮮通信使と淀」で公開されている。
 
ネット上では一部をトリミングした画像が大半だが、同資料館は「絵図全体や記録をみると、盗んでいるとは断定できない。ぜひ全体をじかに見て判断してほしい」と呼び掛けている。
 
絵図は、1748(延享5)年に朝鮮通信使が淀藩(伏見区淀)の城下を訪れた際の様子を、接待役を務めた藩士の渡辺善右衛門が描いた。使節を見ようと見物人が集まったにぎにぎしい様子が描かれている。
 
路上で鶏を持った使節が周囲の日本人と争っているような様子が一部に描かれており、ネット上では「鶏を盗んだ」として、当時の朝鮮を非難する材料として取り上げている個人ブログもある。
 
しかし同資料館によると、善右衛門が同時期に、当時の様子を詳細に記録した「朝鮮人来聘記」には、鶏が逃げ出した記録はあるが、窃盗の記述はなく、絵図の作者に使節を非難する意図があったとは考えにくいという。
 
さらに、絵図全体を見ると、鶏を手にした使節の上には、使節の食材などを準備した建物「下行所」があり、鶏が民家で飼われていたものではなく、使節のために用意されたものだった可能性があるという。
 
絵図には、暴れる馬を使節が取り押さえる様子も描かれており、下行所から逃げた鶏を使節が捕まえようとしたとの見方もできるという。
 
資料館は「歴史資料は、一部だけを取り上げて断定すべきではなく、ほかの資料と突き合わせるなど慎重な扱いが必要だ」と話している。
 
展示は5月16日まで。月曜・祝日休館。無料。
 
ソース:4月9日京都新聞朝刊23面(第三社会面)

3 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:45:24 id:xzjU4mfb
町民らしき人に襲われてるのはどう言い訳するんだろ?w
 
4 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:45:26 ID:5gAKWlbo
残念ながら盗人行為は文字情報で記録が残ってます
  
12 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:50:19 id:Qgjqo0fa
新聞記事の画像では右端の取っ組み合いと日本人が棒切れ持って朝鮮人に襲いかかっている箇所がカットされてる

  
14 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:50:26 id:u9WYZRWy
通信使は偉い 蛮族日本人に文化を伝えた と言っていたのがあの絵でめちゃくちゃになったから必死なんだろうw
     
19 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:51:34 id:pMLsPRKo
>>1
苦しい言い訳乙wwwwwww
     
24 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:52:36 id:rmCUCd7N
朝鮮通信使の連中が町の猫を片っ端からつかまえて食べたので、町から猫がいなくなった』という藩城の記録が残っています。
  
32 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:53:42 ID:9JTx2aEv
>>1

んじゃ、これはどう説明するの?w

  
34 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:53:51 ID:kg+oe6MH
え〜と、不逞鮮人の記録は鶏だけじゃないんだがw
盗みはもちろん、こちらがもてなすと勘違いして物凄い不遜な態度w
宿泊先の寺で、世話係の下女に国技炸裂させてるだろw
    
47 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:56:13 id:I0UCNUnL
逃げた鶏を捕まえたくらいでは絵にはならん
異国人が盗みをはたらいて、それが衝撃的な出来事だったからこそ絵として残っているんだろうよ
    
49 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:56:32 id:A1nH5V+0
ネットが発達した時代、新聞記者は、ネット情報強者よりレベルが低い。
  
52 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 20:57:20 id:kME0S/D1
絵でも町民が朝鮮人を押さえようとしとるんだが、どう見ても鶏泥棒だよな
      
76 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 21:00:42 id:pZTFIRDC
日経で連載中の小説だと盗んでる
     
86 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2010/04/09(金) 21:02:26 id:rg8Q5qj7
日本のマスコミも相変わらず駄目だな
反論すればするほど、恫喝人の嘘が強烈な印象として残る
日本が明治維新を無事に迎えられた理由は、特亜との類似点が乏しいということだ

http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1270813434/-100

朝鮮人
2007-06-14 10:46:04
http://blog.goo.ne.jp/55yasuji/e/9dbd8f8ded728be79ccedef3c2192cc2
  
画は有名な「朝鮮通信使、鶏泥棒の図」です。
 
 一行は大量の高麗人参を持ち込み、各地で金銀と交換し巨利を得ていました。(略)
 
 『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社より、
 
 「通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」
 
 現在、多くの日本人、韓国人は、何人かの朝鮮通信使と日本の儒学者との間に親交があったと思っています。それは、確かに一つの歴史的事実です。しかし、同時に、朝鮮通信使の傲慢で尊大な態度と無礼で無法な行為の数々を苦々しく思い、憤りを感じていた日本人が多かったことも、また歴史的事実なのです。
 
 朝鮮通信使は、まるで頭の悪い不良中学生と同じですから、日本の庶民が、朝鮮通信使は猫が大好物であると、彼らを笑い者にするような噂をしても、当然でしょう。布団のように嵩張るものさえ盗むのですから、持ち運びやすいものなどは、すかさず盗んだことでしょう。まさしく朝鮮通信使は国家使節の皮を被った窃盗団だったのです。

 さて、また1764年4月6日。この日の昼、江戸からの帰途、大阪は長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級官人が鏡を紛失しました。通信使の都訓導(中級官人)、崔天宗という者が、これを咎め、「日本人は、盗みの仕方が上手だ」というような悪口を言いました。

 これに対応した鈴木伝蔵という対馬藩の通詞(通訳)は、紛失しただけで何の証拠も無く日本人が盗ったと言われたのは「日本の恥辱」になると感じ、また、日頃から通訳として朝鮮通信使のそばにいて、彼らの姑息な窃盗にうんざりしていたので、「日本人のことをそのように言うが、韓半島人も、食事の際に出た飾りの品々(食 器など)を持って帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返しました。
 
 そうです。朝鮮通信使は、食器も盗んでいたのです。
 
 当然、接待役の武士は、このような朝鮮通信使の盗癖を知っていたでしょう。武士たちは、国を代表する使節が宴会で出された料理の皿を盗むのを見て、驚き呆れてしまったことでしょう。こんな幼稚な人々に下手に関わるよりも、さっさと他領へ送り出せばそれでよいと考えたとしても無理ありません。あるいは、朝鮮は清の属国であることから、韓半島人を低く見て、可哀想だからと大目に見たのかもしれません。しかし、このような態度は結果として、朝鮮通信使を益々増長させることになったのです。物を盗むことは犯罪であると教えてあげたほうが、朝鮮通信使のためにも良かったと思います。
 
 鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、身に覚えがあったからでしょう頭に血 が上り、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ちました。
 
 鈴木伝蔵は、下級の武士とはいえ武士です。このままでは、武士として生きていく ことができません。思いつめた鈴木伝蔵は、仕方なく崔を殺すことを決心します。
 
 その夜、鈴木伝蔵は、崔天宗の喉を槍で突き刺し殺害しました。
 
 対馬藩にとっては、朝鮮との貿易は大きな利益をもたらしました。
 また、日本との貿易で大量の銀を得ていた朝鮮は、日本と貿易をしなければ、清との朝貢や私貿易で使う銀に不足し、ますます貧乏国になっていったでしょう。
 一方、対馬藩を考慮外にすれば、日本は、朝鮮と外交関係を持っていることに何の利益もありませんでした。
 日本と清とは国交が無くても、貿易関係があり、長崎の唐人屋敷や、その周辺に中国人が滞在していました。黄檗宗の僧侶を始め、絵師、学者などの文化人も来日していました。中国文化は、朝鮮経由でなくても、直接、恒常的に入ってきていたのです。

 幕府権力が確立し、朝鮮通信使朝貢使に仕立てることで対外的な力関係を他の大名に見せつける必要がなくなれば、朝鮮通信使は無価値になりますから、朝鮮との外交を止めても良かったのです。それは、朝鮮通信使の来歴をみれば分かります。江戸時代265年間に、朝鮮通信使の派遣は12回でした。そのうち半数の6回が1655年までの江戸時代初期の50年間に行われ、最後の1811年は江戸には来ず対馬止まりの来日でした。

 1607年、 1617年、 1624年、 1636年、 1643年、 1655年、 1682年、 1711年、 1719年、 1748年、 1764年、 1811年

 1636年、第4回の朝鮮通信使が来日した頃には幕府権力が安定し、朝貢使の役をさせる朝鮮通信使の価値は低下し始め、先例として惰性で続けられたものの、1764年をもって朝鮮通信使は完全に無価値になり、その使命を終えました。
 
 日本は、貿易によって対馬藩と貧乏な朝鮮を救うために、朝鮮と外交をしていたに 過ぎないのです。
 
 要するに、朝鮮通信使は、外交的に全く意味の無い国からやって来た、妙な音楽を 演奏する窃盗団でした。