副島講演会+植草リバイバル講演

今日三宅坂の社会文化会館(元社会党本部、社会党浅沼稲次郎の胸像が置いてあるオンボロビル)でソエジーの講演会があったので行ってみた。
民主党と大蔵独裁の関係を確認したかったのだ。
そしたらスペシャルゲストとして植草一秀さんが出てきて1時間講演、全体では13〜17時、休憩除いて200分のロングランであった。
沈まぬ太陽』と同じくらいだよ(^_^)
植草さんがこういった公の場に出るのは事件以来初めてだそうだ。復活おめ(゜∀゜)ノ【∴∵+祝+∵∴】ヽ(゜∀゜)
   
結論として、非常に満足であった。
やっぱりオザワンは馬鹿じゃない。ちゃんと権力確立へ向けて闘っている。
そして興味深いことに、チャンネル桜に出演の右派系論者とまったく同じ結論を植草・ソエジーとも言っていた。
”平成22年度予算を緊縮をしたらおしまいだ”
民主党はそれを分かって敢えてperformanceをしていると信じたい。
   
漏れの頭の中のモヤモヤが綺麗に晴れた。
決戦は2010年10月だ。
    
参考)
  

    
国会から北側を眺めるの図
国会図書館の向こう側に左から自民党民主党社民党の本部が並ぶ。
一番立派なのが自民党だけど、どの政党も安っぽいねえ・・・まさに国辱モノですよ
あんまり豪華だと反感を買うと思うのかもしれないが、もう少し立派でもいいだろ常考
向こう側が最高裁で、皇居の並び遠くに靖國神社も見える。
   

権力の館を歩く
 
東京・三宅坂 日本社会党社会民主党)本部=御厨貴

 
 55年体制そのままに、日本社会党本部が入居する社会文化会館は自民党本部に先んじて永田町の一等地にお目見えした。「大野党に恥ずかしくないものを」と力んでも、「労働者の党」に資金集めは容易ではない。さりとて財界に頭を下げるなどその自負が許さない。党名も党勢も一変したいま、建設秘話を探る御厨貴・東大教授を当時と変わらぬ故浅沼稲次郎委員長の像が迎えた。
 
(中略)
 
 政権交代を現実のものとするための「権力の館」の建設は、江田を中心にまわる。江田人脈のフル回転だ。まずは江田が一九四三年から河北省石家荘で働いていた時の「石門会」である。東洋交通社長・西村勇夫、西松建設社長・西松三好。設計は西村の縁で皆川建築事務所・皆川利男、後に会館館長を弟の皆川日出男、そして施工は西松建設となる。
 
 実はオリンピックのための高速道路工事と二四六号線道路拡幅工事のため、これまでの社会党ビルは奥行を奪われることになった。いずれ自民党もということで、自社二大政党制を公認するかのように、国有地(それも当時のビルのそば)の借り上げと相なった。党本部が国からいわばお墨付きをもらい、しかも自民党より先の建設ともなれば、社会党の地位向上これにしくはないと感じられて不思議ではない。
 
 最大の問題は資金集めだ。そこで江田の学閥二つが浮かび上がる。神戸高商の「凌霜会」と東京高商の「如水会」。江田自ら「党の潜在財産をはじめて顕在化したということがいえる。一般的に“社会党がいってゼニが集まるはずがない”という先入観がある。ところが、案外、潜在財産というものはあるんだ。こんど動いてみて、しみじみそんな実感をもったよ」と含みをもたせて語っている。今は企業者側と労働者側に別れたが、青年時代は一つ釜の飯を食った仲だ、あるいは「同窓」だという意識、これが寄付金につながるということだ。
 
 しかしそれで江田の言う潜在財産がすべて明るみに出たわけではあるまい。「社会新報」を読んでいくと、四億とも五億ともいう資金は、なかなか集まらず、完成近くの六三年になるとカンパの呼びかけが強く要請される様子が分かる。しかも企業者側と戦う党が企業献金に頼るのはダメとの左バネも強くなっていく。
 
    □     ■
 
 そこで社会文化会館の建築的特徴に触れたい。当時としては最先端の近代的機能が盛り込まれた。六、七階の文化ホールは自由民主会館のそれより天井も高く映画演劇も可能なモダンスペースとなっている。「社会党に誰でもこれるというムード」を作り、「この辺が新しい東京の文化センターとなることも夢ではない」とまで江田は述べた。文化の象徴として当時五百万円で購入したスタンウェイのピアノは今でも健在だ。もっとも企業に借りてもらうため、当初は宣伝や営業にも苦労したようだ。そして賃料と建物担保で金銭運用していくのが、会館の仕事になったのである。
 
 内部構造は幅三〇〇〇ミリの廊下をはさんで、九五〇〇ミリ×五四〇〇ミリのブースが十六個並び、部屋としては各階十一ブースが使用可能だ。当初、一階に印刷工場、二階に書記局、委員長室、書記長室、中央執行委員会室、三階に会議室、四階に会館事務局、東京都本部の簡明な構成である。部屋を広げる場合は複数のブースをつなげる。このため遂(つい)に委員長室と書記長室は同じ構造と広さになった。合理的といえようか。
 
 実は都市構造的にも興味深い点がある。社会文化会館工事と三宅坂周辺の高速道路工事は工期もほぼ同じで、西松建設が担当していた。いわば社会文化会館は首都高速道路と一体となって建設された。資金面で格安に請け負うという駆け引きもこれに関連したかもしれない。なお玄関は二四六号線道路沿いには作らなかった。
 
 二階から四階までのバルコニーが印象的。政権獲得の際、歓喜し来れる国民に向けて挨拶(あいさつ)するためだった。しかし当の江田は一九七七年追われるように党を離れ、村山内閣もまたバルコニーの効用には浴しえなかった。(みくりや・たかし=東京大教授、日本政治史、建築と政治)=毎月第3水曜に掲載します
 
 (注1)社会文化会館
 地上7階、地下1階。名前を変えた「三宅坂ホール」は688人を収容する。東京都千代田区永田町1の8の1に所在。
 
毎日新聞 2009年5月20日 東京朝刊
http://mainichi.jp/enta/art/yakata/archive/news/2009/20090520ddm014070156000c.html

 

どうなる民主党本部引っ越し案 各党本部賃料はいくら?
 
 民主党内で党本部の移転案が浮上している。次期衆院選で勝って与党になった場合、現在入居しているビルでは狭すぎるというのが理由だ。ただ巨額献金事件で小沢一郎代表の公設第一秘書が逮捕され、追い風も失速気味。政権交代が実現できなければ、引っ越しも幻に終わりそうだ。
 
 民主党は国会近くの民間ビルの6フロアを間借りしている。延べ床面積は計約1000平方メートルで、自民党本部の10分の1以下。駐車場も狭い。与党になれば自治体関係者の陳情や、官僚、外国要人らの来訪が激増するのは必至。党内では「現状ではとても対応しきれない」との見方が強い。2005年の「郵政選挙」の前には国会周辺の物件を具体的に検討したが、惨敗で立ち消えになった。
 
 その民主党が国会論戦でしばしばターゲットにしてきたのが、自民党本部の「国有地問題」だ。国会近くのビルは地上9階、地下1階で、敷地は約3300平方メートル、延べ床面積は約1万3600平方メートル。黒塗りの車が頻繁に出入りし、年末の予算編成や税制改正のシーズンには省庁や業界の関係者が廊下にあふれる。
 
 敷地は国が所有するため、年間約7000万円の賃借料を支払っているが、約1億3000万円とされる民主党本部の賃借料と比べれば格安。鳩山由紀夫幹事長は1月、通常国会の代表質問で「自民党が真剣に改革に取り組むなら、まず国有地を返還して身を切る姿勢を示すべきだ」と迫った。
 
 しかし鳩山氏の発言は、思わぬところから反発を招いた。自民党と同様、社民党も国有地に党本部を構えているからだ。
 
 本部ビルは地上7階、地下1階で、最高裁判所国立国会図書館に囲まれた一等地。賃借料は年間約3000万円で、このほか建物の委託管理料として財団法人「社会文化会館」に年間約9000万円を支払っている。
 
 旧社会党時代は衆参両院で200人を超えたこともある所属議員は、いまや12人。他党からは「民主党と党本部を交換したら」と皮肉まじりの声も聞かれるだけに、社民党幹部は「政権交代に向けて選挙協力を強めている時期に言わなくても」(幹部)と不満を漏らした。
 
 自民、社民両党の党本部は、いずれも東京オリンピックの道路拡張計画で立ち退きを迫られ、現在の国有地に移転した経緯があり、55年体制の名残ともいえそうだ。
 
 このほか共産党は05年、東京・千駄ケ谷に党本部ビルを新築。地上11階、地下1階と、地上8階、地下2階の2つの棟からなり、延べ床面積は約1万6000平方メートルと自民党本部を上回る。公明党は新宿に党本部ビルを構え、国民新党は国会近くのビルの一フロアを賃借している。
 

http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20090309022.html
[ 2009年03月09日 09:44 ]

  
ちなみに、自転車で転んだガッキー総裁だが、宏池会の転落を象徴するようで笑える。。
  

権力の館を歩く
 
東京・赤坂 宏池会事務所(日本自転車会館内)

 
 池田勇人を筆頭に大平正芳鈴木善幸宮沢喜一と4人の首相を生んだ名門派閥「宏池会」。吉田茂以来の保守本流を自任し、日米基軸の戦後政治を象徴するかのように東京・赤坂のアメリカ大使館前に事務所を構えてきた。だが政権交代が実現し自民党が下野した今、伝統を継ぐ谷垣禎一新総裁には再建の重責が待つ。御厨貴・東大教授が“聖地”を訪ね、その盛衰と活路を探る。
 
 ◇風化する保守本流の聖地 池田以来の伝統振り返り、今こそ変革の時
 
 戦後かなり早く(一九五四年)から、その建物はアメリカ大使館正門に対峙(たいじ)するように建っていた。古くは赤坂貿易会館、日本短波放送会館と称し、今は日本自転車会館と呼ばれている。太い柱が立ち並び周囲を睥睨(へいげい)しているかのような重厚な趣きがある。正面玄関横の地下入口の前には、竣工直後の一九五五年に創業し、東京で初めて“しゃぶしゃぶ”を紹介したという「ざくろ」のいつに変わらぬ看板が目につく。
  
 日米関係は、敗戦と占領以来一貫してこの国の基軸であった。マッカーサー吉田茂の絆(きずな)は太く強かった筈(はず)だ。それを再確認するかのように、旧自由党系で吉田茂の薫陶を受けた面々は、アメリカ大使館の真ん前にあるこのビルの一角に、定期的な集まりをもった。『佐藤栄作日記』によれば、保守合同後の一九五六年二月三日、このビルで「事務所開き」が行われ、八月二十日の条(くだり)で「丙申会」という名称が初めて出てくる。池田勇人佐藤栄作吉田茂系統の人々は、ここで鳩山一郎首相の訪ソと日ソ国交回復に反対し、“執権”とまで言われた河野一郎とその一派の打倒を、目ざしていた。吉田政権の退陣によって初めて敗北を喫し反主流に転じた彼らは、強硬な党内野党として“新党結成”をも視野に入れていた。
 
 まさに戦う「丙申会」。大磯からの吉田の叱咤(しった)激励の様が目に浮かぶようだ。池田が最強硬派だったにもかかわらず、結局新党に踏み切れぬまま、ポスト鳩山をめぐる自民党最初の総裁公選への対応に迫られる。そして「丙申会」は分裂した。『佐藤日記』の一九五六年十二月六日の条に、「余は一統を率いて岸支持へ。益谷、林、池田三君は丙申会残党と共に石井支持へ」と明記されている。佐藤から見れば、「丙申会」主流は自分たちで、池田らは傍流ということになる。
 
 だが果たしてそうか。吉田系統の人々の最初の集まりは、実は一九五二年十一月末、当時の吉田内閣通産大臣であった池田が、「中小企業の一つや二つ」と国会で失言し、不信任案が通過し辞任を余儀なくされたコトに端を発する。失脚した「池田を慰める会」を池田邸で開いているうちに、それが池田の個人事務所を作る思惑と交錯しながら、自転車会館の一室の会合となっていく。この当時、池田と佐藤は信濃町の池田邸で打ち合わせをしていたが、それも「丙申会」の場に移っていく。おそらくは池田が実質的オーナーでありながら、佐藤も吉田派の幹部としてごく当然の如(ごと)く池田と対等の気分で、出入りしていたことは間違いない。
 
 岸か反岸か、次期総裁をめぐる争いの中で池田と佐藤は分かれた。二カ月余の石橋政権の後、人間万事塞翁(さいおう)が馬のならい、岸政権が成立するや、佐藤は主流に、池田は反主流にと命運を分けた。かくて一九五七年六月、「池田勇人を総理大臣にする会」として「宏池会」(注1)の趣意書が作られ活動が始まる。要は「池田を慰める会」も「丙申会」も、そして「宏池会」も、すべては政治的敗北を契機に将来を期するために作られた。順風ではなく逆風の最中(さなか)の会合の設定であった。現代に連なる派閥事始めとしては、面白い事実だ。
 
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 日本短波放送会館五〇五号室。これこそが戦後保守の祖たる吉田茂を受けつぐ“聖地”なのだ。池田派=宏池会保守本流を自任する所以(ゆえん)である。宏池会事務所は池田、前尾繁三郎大平正芳鈴木善幸宮沢喜一と五代にわたる会長の間、実に四十余年拡張も移転もせずに当初の規模とスタイルを守り続けた。分裂と拡大など激しい変化を遂げた佐藤派−田中派そして砂防会館の歴史と、それは対照的である。
 
 かくて宏池会の館は、一貫して五階北東側の四分の一を占めてきた。残念ながら直接アメリカ大使館を見ることはかなわない。事務所の中は大きく四区画に分れる。西から順に総会室、事務員室、会長室、応接室である。基本的にはエレベーターを降りてすぐ右側のドアをあけ、事務員と顔パスで中に入れた。総会室は毎週木曜日の定例昼飯会に、奥の応接室は幹部会や毎日の昼食時ににぎわった。例の会館地下の「ざくろ」などから店屋モノが届けられ、館の中では昼食のあいまに情報が飛びかうのが常であった。
 
 池田時代には応接室が下村治(しもむらおさむ)来訪時の部屋となり、ここで経済に関する勉強会が開かれている。さらに事務局長の木村貢(きむらみつぎ)(注2)の机は会長室に置かれ、木村は宏池会の人脈や金脈を含め事務一切を取り仕切り、館の主となった。さらに大きな会合の場合には、六階の「講堂」を借りるなど、ビル内での部屋の貸し借りは頻繁に行われていた。宏池会の館には家族的雰囲気が漂っていたのであった。
 
 池田は四十名、前尾は二十名、宏池会の初期領袖は規模のメリットを小さく見積もった。前尾にとって代わった大平から田中派と同様、「数は力」にも頼るようになった。しかし鈴木、宮沢は「数は力」に執着しなかった。宏池会が「公家集団」と揶揄(やゆ)されたのは、池田との個人的つながりの重視と、「寛容と忍耐」の池田政治への憧憬(しょうけい)の念とを、常に“聖書”と見なし続けたからではなかったのか。
 
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 “聖書”と“聖地”。この二つに挑戦したのが、池田勇人を知らぬ六代会長加藤紘一に他ならない。加藤は一九九八年十二月の会長就任以来、二〇〇〇年十一月の「加藤の乱」で一敗地にまみれるまで、宏池会の伝統に手を入れ続けた。まず館の主木村貢を解任し、次いで宏池会事務所をTBRビルに移転する。自転車会館は、砂防会館と比較しても国会から遠く不便だし、狭い上に使い勝手が悪くセキュリティも皆無というのが、加藤の“聖地”への診断であった。
  
 「加藤の乱」の後、宏池会は分裂し、加藤−小里貞利谷垣禎一の一派と、堀内光雄丹羽雄哉古賀誠の一派に分かれ、領袖もめまぐるしく代わる。河野洋平麻生太郎の別派も加えれば、三つの系譜となるが、池田を知る宏池会の伝統はもはや遠いものとなった。二〇〇八年五月、谷垣派古賀派は合同し古賀を会長に「中宏池会」となった。
   
 宏池会の正統性を担保するために、古賀派は、自転車会館の一階に小さな事務所を置き、かつての館の主木村貢を顧問にすえた。“聖地”復活だが、歴代会長の写真として池田から宮沢までの五代と、堀内、丹羽の二人は掲げられているものの、乱をおこした加藤の額はない。しかも今回の選挙での大敗をうけ、館の維持も苦しいと言う。“聖書”はすでに雲散霧消し、“聖地”また風化の一途をたどる。
  
 野党自民党総裁となった谷垣禎一保守本流の意識や宏池会の伝統を、もはや表立って主張はできまい。それでも「保守」を問わず語りに口にしてしまう谷垣の表情には明らかにとまどいの色がみてとれる。まことに宏池会の呪縛は大変なものだ。池田と分かれた佐藤の系列は、田中角栄に簒奪(さんだつ)された時点で、吉田以来の伝統が切れた。だから楽なのだ。しかも地方利益と砂防会館の相互関係は、田中によって新たに主導された。そこで谷垣が前途に光明を見出(みいだ)すためには、保守本流の意識と宏池会の伝統とを大胆に切り離さねばなるまい。そして実は革新や改革を背景に置き、能動的で品格を備えていた宏池会の歴史を、失われた選択肢を探りながら今こそ再構成すべきなのである。(みくりや・たかし=東京大教授、日本政治史、建築と政治)
  
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 (注1)宏池会
  
 「宏池」の由来は、中国後漢の学者馬融(ばゆう)の一節「高光の〓(うてな)に休息して宏池に臨む」から陽明学者の安岡正篤命名。1957年の設立趣意書には、「自得する所にあって、綽々(しゃくしゃく)たる余裕あるを示す好(よ)い句であります。(中略)時局の前途多難の折柄、同氏(=池田勇人)を後援しその政治的使命を遺憾なからしめるため、『宏池会』を設立いたしました」とある。
  
 (注2)木村貢
  
 広島県出身。北海道大卒業後、52年に池田勇人の秘書となる。57年、宏池会事務局に入り、61年から00年まで事務局長。01年から顧問。宏池会を語る上で欠かすことができない人物である。