日本人と日本語のルーツ

日本人と日本語のルーツを掘り起こす 考古学からDNAまで

日本人と日本語のルーツを掘り起こす 考古学からDNAまで

  
著者は専門の学者ではない。昭和9年生まれの製陶業者であるが、在野にあって研究しオペラをものしたりしているらしい。
漏れの好きな物好きなおじさんである。こういう趣味人がいるのが日本の良いところだねえ。
 
さて、筆者は旧石器時代から論を興しているが、漏れの着目する点は、水稲栽培の伝播を揚子江下流域におき、朝鮮半島を過大視せず、古墳時代の人口流入を半島にいた倭人としている点である。また旧石器時代の日本人?の独自性も指摘する。
しかし宮崎さんはウヨクではない。日本列島でのクニの始まりは流入してきた中国人によるものであろうとアッサリ推論している。宮崎さんはただ自然な推論をしているだけなのだ。逆に言えば無理に朝鮮半島を持ち上げたり日本人独自説・優秀説に繋がるかもしれない論を慎重に排除している学会のほうがよっぽど異常なのだ。こういう政治に遠慮せず実も蓋もない言い方をする人が漏れは好きである。(^_^)
   

1997年3月、供用開始された韓国初等科学校社会科の国定教科書に紀元前2333年古朝鮮建国と明記されている。他の教科書にも同様の記載があるが、日本ではとても考えられない話である。ここで指摘したいのは、図5−6の古朝鮮に半島南半部が入っていないことである。上記の年代をここで詮索する暇などないが、いみじくもこのような教科書ですら朝鮮の南北を同質に捉えてはいないのである。(略)考古学では今なお多くの意見が、水稲朝鮮半島から北部九州に渡ったとしている。「弥生開始は3000年前」が発表された後では、朝鮮半島水稲が伝播した時期は4000年だろうといわれるようになった。しかし、水稲であった根拠は示されていない。[p140-141]

ここから入ったのは、ツングース族そのものではなく、ツングース語に干渉された言語の話者集団であった。ツングース語と朝鮮語、同時にアルタイ語朝鮮語の間に溝がある原因はここにある。
穢貊は長白山脈の東から東海岸沿いに、扶餘は西側を南行した。そしてそれぞれ半島内で土着民と融合し、独自の文化を形成した。ここでは、この穢貊の言語を原始穢貊語という(後の新羅語につながる)。またこの扶餘の言語を原始扶餘語という(後の百済語につながる)。[p142]

有名な伝説に、毎年のように繰り返される洪水から耕地を守ろうとして禹は治水に大成功を収め、その功績によって帝舜から禅譲されて夏を創始したという。この事績が4000年前であれば、前述の厳文明がいうように、中国大陸に水田の領域が定まる最終段階であり、灌漑治水の成功と夏建国とはごく自然に繋がる。王都は黄河下流域の二里頭(河南省偃師県偃師市。1959年に発見)にあった。二里頭は竜山文化期以来の文化的中心である。殷もまた同じく一時二里頭を都とした。殷は黄河下流域を中心とする巨大国家であった。
夏・殷のこの全体的様相は、長江文明が北上して黄河文明と融合して高い文化性を持つに至ったということであろう。これを支えたのが余剰米であったと思われる。
周は陝西省の奥地から出てきた異民族であったが、殷の一員に加わった。周の言語はチベット語と同系であったといわれる(西田龍雄)。[p144](にゃんこ注記:殷語はタイ語系)

朝鮮半島の歴史における最大の問題は、楽浪郡設置以前における状況がよく解らないことである。(略)衛氏の建国は前194年ではないかいわれる。その時朝鮮王であった箕準は衛満に追われて海路で南に逃げ、馬韓の王になったと伝えられる。その頃に馬韓といわれるものはいまだない。これらの物語の場所は確かに朝鮮半島および周辺であるが、その中心人物はやはり漢族であり、中国人の入植といわれることもある。(略)同じ武帝治世で見過ごしてはならぬ重要な政策に「塩鉄専売」がある。これは漢の国政発展と財政に資する重要な施策であった。日本から楽浪郡まではるばる鉄を仕入れに出かけた理由がここにある。
また半島最重要の事件として、前37年頃北部ツングース族である高句麗遼寧省桓仁県に建国した。これが半島における漢民族以外による最初の建国である。[p151]

4世紀中頃、馬韓百済が、すぐ続いて辰韓新羅が建国された。日本ではすでに統一国家が成立している。高句麗は4世紀終わりに半島南部まで南下したことがある。そこにいた倭人は、一時高句麗を北方へ追い払うほどの勢力をふるっていたが、逆に好太王に撃破された。この時、半島内の倭人社会の中枢が日本に渡来したようである。須恵器、金銅製品、鉄製品の工人が帰化し、乗馬も伝わったといわれている。その後100年余り、半島内の倭人は文献から姿を消す。
5世紀以降、高句麗(北部)、新羅(南東部)、百済(南西部)の三国が鼎立する時代が続く。百済は半島西部の穀倉地帯を広く領域としていた。高句麗の南下によって北部を削り取られ、475年には漢城を攻略されて一時滅亡を余儀なくされたが、南の熊津に遷都して復活した。百済高句麗の南下に対抗して新羅と同盟したり、日本に援軍を求めたりした。
半島最南部に弁韓のあった地域はその頃伽耶といわれたが、三国史記(高麗の仁宗の命で12世紀に編纂された朝鮮人による朝鮮最古の史書)では三国とは別扱いである。伽耶が韓であるという認識は後代まで薄かったのではなかろうか。伽耶地方は新羅百済、大和のバランスの上に存在し、後になってから大伽耶連合を組んだことがあったが、元来小国の集合である。大和とは長らく一定以上の関係を維持していた。任那は、伽耶地域に存在し、日本の宮家が設営されていたこともあったらしい。鉄の仕入れという当時最重要の業務のためにどうしても必要な司所として宮家があってもよい。562年、新羅は大和に入貢しながら任那を併呑した。この時大和は鉄を安定的かつ廉価な仕入れ先として百済との関係を確立していたから、任那を維持することは必要でなくなったと思われる。(略)唐もそれ以上半島支配にコストをかけることを避け、日本に続いて半島経営を放棄した。ここに初めて新羅による朝鮮半島の統一が実現し、朝鮮半島朝鮮人のものであるという観念が確立したのである。
半島の倭人はそれまで命脈を保っていたが、百済が崩壊した時、最終的に、日本に逃れて日本人の支配に収まるか、新羅人の凌辱にまかせるかの選択を迫られた。その結果、王侯貴族から一般庶民に至るまで多数が日本に帰化した。ここに、揚子江下流ルートは名実ともに[p174-]

日本語はどこから来たのかとよくいわれるが、日本語は縄文時代以前からあったのだというのが日本語にとって最もふさわしい。主な要素をもう一度列記してみよう。
 
 A 4万〜2万年前の石刀・細石器文化の言語が到来した。
 B 7000〜3000年前、揚子江下流域からオーストロネシア語系言語が少なくとも2回到来した。
 C 弥生〜古墳時代にかけて、扶余語要素が朝鮮半島西部の言語を経由して到来した。
 D 続いて漢語が入り、
 E 江戸時代末期以降、欧米語が入るようになった。
 
極東最果ての島国という環境が言語要素の滞留と内発発展にほどよい揺り籠となった。大陸の真ん中と違って、成立過程は比較的単純であり、類例のない古い要素を集積している可能性が高い。[p209]

 
おまけ
 

遣唐使は白村江戦の前後にも第4回(往659年、復661年)と第5回(往665年、復667年)が派遣されており、題4回の遣唐使であった坂合部石布が長安に一時抑留されるという事件も発生した。これが無事帰国したり終戦後逸早く遣唐使が再開されたりしたのは、普通ではあり得ない、大変奇妙な話である。[p186]