建国記念の日に「戦後民主主義」を考える

 
戦後民主主義」って言葉はなんだか変だとずっと思ってきた。
戦後民主主義をまもれ!」みたいなつかいかたをされる。
どうして「民主主義」だけじゃだめなの?
 
わざわざ「戦後民主主義」っていうからには「戦前民主主義」ってのもあったと言うわけだろう。
だけど社会科学の用語として「民主主義」に戦前も戦後もない。
だからようするにこれは社会科学の概念じゃなくて歴史的現象を指すんだよね。
すると上記標語は敗戦によってきまった社会体制を変えるなっていうだけの話なんだよな。
でもさ、どっちに変えるのかは兎も角、こんな時代に62年前の体制を変えちゃ(・A・)イクナイ!!って話はないよな。
変える変えないじゃなくて原理原則を語れよ、みたいな。
したがって漏れ的にはこれは敗戦の記憶が薄れるに従って役目を終えると思っている。
だから正確には「敗戦民主主義」というべきだと思うのだ。
 
ところで話は飛ぶが漏れの歴史観には司馬遼太郎がまったく影響していない。
もともと嫌いだったし所詮つくりごとの小説だし。。
それと同じでまったく興味のないのが丸山真男吉本隆明
でも周囲の団塊オヤジを観察するに「司馬遼太郎丸山真男」がどうも「敗戦民主主義」の核心のような気がするのだ。
で、その権化のようなオヤジがいる。
http://critic3.exblog.jp/6344013#6344013_1
このオヤジ文章が上手い。ただし内容的には共感できない。
でも彼のようなタイプが戦後民主主義の最良の部分なんだろうなという感じはする。
だから団塊オヤジならどう考えるのかな?という興味でつい読んでしまうのだ。
(同様の「観察対象」には余丁町散人さんとか草加耕助さんがいる。サヨクばっかし(TдT) あとちょっと下でfinalventさんもか)
それで、考え込んでしまうのだ。
このひとたちをどう総括すべきなのか・・・
 
人生時間は有限だから放っておくというのも手なのだけど、いまや「敗戦民主主義」が終わろうとしているのだし、
なんかちゃんと勉強しておかなければいけない気になるのだ。
さすがに丸山真男の主著くらいは学生時代に読んだけど、だから何?って感じだった。
この感じ、吉本隆明よんだときもそう思った。
なんでこんな話にみな熱くなれるの?漏れって不感症?という感じ。
それって江戸時代の人には平田篤胤が衝撃だったんだよ、といわれる感じににている。
いろいろ歴史事実を知ったあとでやっと「ああそうか、当時の人はこんな風に感じたんだろうなあ」とぼんやり理解できる。
(しかしその割には廣松渉に熱中した漏れって・・・)
 
個人的には団塊ちょい下オヤジは影響を受けたしあこがれたりして嫌いじゃないのだけど、
思想的にはアメリカ幕府(@北野幸伯)のもとで謳歌した昭和元禄の内弁慶思想でしかないような気がするんだよねえ・・・
(世界理解という意味では大日本主義時代より退嬰してるわけ)
  
追記)
  
もう終わった敗戦民主主義だけど、その最後の「理論家」が在日朝鮮人姜尚中だったというのも象徴的だね。
これは皮肉や悪口ではなくいうのだが姜尚中はすでに破綻している。というか姜尚中は思想家ではない。
政治評論を余芸でやっている凡庸なウエーバー学者に過ぎないし、丸山の後裔ではなくてどっちかつーと竹田青嗣の末裔だ。
サヨクはちゃんとした思想家を用意すべき!・・・でもいないんだよなぁ。
理論が崩れていって残ったのが民族的ルサンチマンによる日本憎悪でしかなかった。というのはいかがなものか。