村山談話

  

   
さて次に政府見解とされる「村山談話」の内容をみてみよう。
所詮談話にすぎないのだけど、閣議決定されたものであるし、当時も自民党は政権党であったのでぞんざいにはできません。
漏れが問題だと思うところには、争点になるけど漏れはOKと思うところはで着色してみた。
   
まず引っかかるのは戦争での死者をすべて犠牲者と表現しているところである。
たとえば中国で祖国防衛戦争に斃れた人を犠牲者と呼ぶだろうか?
これは小泉が靖国神社に参拝したときの「心ならずも」に感じた違和感と同じである。
極右のように糾弾するつもりはないが、それがすべてと決めつけているのが押しつけがましく感じる。
  
一方、「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」という部分はそれほど違和感がない。というのは戦争はギャンブルであり、そんなギャンブルにやすやすと突入していった日本政府は軽率であった、「騙された」責任があると思うからだ。そして中国や東南アジアの戦地での非戦闘員の死を招いた。日本の戦争目的が正しかったとしても、多くの苦痛を与えたことは事実である。それは素直に反省すべきだ。ここを正当化したら革命のためには犠牲は正当化されるという共産主義と同じことになってしまう。
  
だが、やっぱり「植民地支配と侵略によって」はいただけない。
この言葉は価値観が入りすぎている。米国はイラク侵攻を反省することはあってもイラク侵略とは言わないだろう。あまりにも卑屈な迎合にみえる。
 
しかしそのような違和感を感じるにもかかわらず、漏れも全体としてはアルル氏に同意する。
この程度の談話なら、致命的に日本史を毀損するわけではないし、「余計な戦争に巻き込まれない」という日本の教訓を強化する意味はあると思う。
はっきりいって優等生ぶりっこが鼻につくけど、これくらいのことは言ってもいいかな、という感じだ。
   
追記)
漏れは「犠牲者」を没主体的な「被害者」と同等と感じて上記文章を書いたのだが、goo辞書で見たら「戦争や災害などで死んだり、大きな被害を受けたりした人」と書いてあり、必ずしも同等ではないようだ。それならその部分もクリアされて、気になるのは「植民地支配や侵略」の部分だけになった。
  

「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)平成7年8月15日
  
 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
    
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
   
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
   
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
   
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
   
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
    
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
   

さて、これがいわゆる「村山談話」の全文である。意外にも短い。
日本軍が悪さをしたと延々と書き連ねられているのかと思いきや、そういうわけでもない。ただ、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」とあるだけである。確かに大東亜戦争を利用して、自国の独立に利用した知恵に長けた、旧植民地の指導者たちがおり、それを支援した日本側の「ロレンス」のような将校が、映画「ムルデカ」が描くようにいたことは事実であり、村山談話は事実の一側面にしか光を当てていないという反論はあろう。しかし、それほどひどいものでもない。
  
日本の当時の政治家たちの敗戦責任をと問うたと読めるという意味でこの談話は今後につながるものであるとも思う。
   
ただ、村山談話と並んで評せられる、河野談話は別である。ここには明らかな誤りが見られるからである。これはいわゆる「従軍慰安婦」(戦場娼婦)について、「日本軍の関与」があったということを反省している文章である。
  
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