- 作者: 姜尚中,中島岳志
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2008/02/23
- メディア: 単行本
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昔漏れは生姜先生の本は20冊くらい読んだと思うが、あるときから彼は所詮朝鮮民族主義者に過ぎないのだと見切りをつけて読まなくなってしまった。また、中島岳志は『パール判事』でのあまりに不誠実な歪曲ぶりに嫌悪を感じ見切りをつけた。その二人の対談本だからスルーかなと思っていたのだが、店頭で捲ってみて意外に面白かったのでとりあえず購入、モスバーガーで2時間読了してしまった。
ところで上で面白いと書いたけれど、普通の意味では新しい知見があるわけではないし、知的興奮があるわけではない。
だけど、「戦後民主主義」の最後の論客達がサヨクをどう総括しているのかが率直に語られているのが興味深いのだ。
姜 (略)結局今、護憲運動がなぜこんなに廃れたかというと、「国のため」という、そのロジックがなかったからだと。そのためにもやっぱり保守のある根っこの部分をもうちょっと、ビビッドに再生させないと駄目だと思っているんです。
結局、国家・伝統・天皇 というのを全否定したサヨク運動は民衆に見放されたということを2008年にやっと認めたってことだ。遅すぎるよ。・゚・(ノД`)・゚・。
以前紹介したサヨク朝鮮民族主義者が書いていたように、日本のサヨクはいま「保守」に変態したがっているんだよね。で、ある意味それは正しいわけ。というのも(漏れが常々書いているように)「戦後民主主義」ではサヨク(反日社会民主主義)こそ体制であって、それが60年続いてきた以上、その現状維持を図る勢力はもはや「保守」と言えるから。しかも今上天皇自体が最高位の護憲主義者であるのだから、勤王(戦後の)伝統堅持で、保守そのものじゃ〜!と。
もっとも漏れ的には保守の起点を米軍占領前の独立した日本=戦前に置いているので「東京裁判史観」というアメリカ製歴史観(と憲法)を否定できない限り保守とは認めないけどね。
きのう、姜尚中と中島岳志の対談本『日本 根拠地からの問い』を読んだ。
ようするにサヨクの新旧対談なんだが、これが結構面白かった。
なんで面白いかというと、この10年くらいの「保守論壇」での議論を換骨奪胎してサヨクの生き残りを図ろうという意図が赤裸々に語られていたから。
じつは現在敵のラスボス設定はサヨクも右翼も「グローバル資本主義≒ネオリベ」で一致してる。
ただそれに抵抗する正義の勇者設定が、右翼は「パトリ(愛郷心)あるネーションステート(国民国家)」で、サヨクは「階級」だった。
それがこの本で二人は「階級」を捨てパトリを復権させて「ステート(国家)を拒否したパトリの連帯」を標榜したのが新しい。
漏れはグローバル資本主義に対抗するには「パトリの連帯」なんかでは無理だと思うので、ある種の国家の復権が必要だと思うんだけど、そこまで認めるのはサヨクにとってはアイデンティティ危機に陥るから無理なんだろう。ただ右翼の側もいまさら単純に「国家マンセー」ではなく、ステートを僭称する「お役人」の専横が問題なんだという認識はもっているわけだから、実際上は限りなく問題意識が接近してるんだよね。。
しかし考えてみればそんなことは既に1937年にトロツキーが『裏切られた革命』で指摘していた。ネオリベ(俗流トロツキズム)に対抗するにはトロツキーを見直そうというオチでした(笑)
(略)
実はこの本と前後して右翼の対談本『大和ごころ入門』@村上正邦・佐藤優も読んだんですよ。非常に対照的で興味深かった。言っていることが非常に似ている。(というか右翼側の議論をサヨクが真似しているんだから当然なんだけど)
この村上・佐藤両氏は二人とも国策逮捕の刑事被告人なんですよね。いはば国家に裏切られた人たちなんです。でもサヨクと違って「国家は悪」にならない。社稷という言葉を持ち出して、日本人の共同体の集まりを理念的な国家=社稷として位置づけたうえで実際の統治機構としての国家=官僚制を相対化する。そして悪をなすこともあるとはいえ国家=官僚制は必要と判断し、いかに社稷の側から統御するか考える、という構成です。そこで国家=官僚制=権力を抑制するシステムとしての天皇=権威を重視する。ここで「右翼」になるわけです。実はそれは西欧での世俗諸侯とローマ法王の関係と同じなんですけどね。権力と権威が一致するとロクなことにならないという知恵です。
左翼というのは人間絶対主義で、世界は人間が設計できるという思想です。だからこそ革命でそれまでの歴史をチャラにして、一から社会主義国家を設計したわけです。神ならぬ人間による天地創造です。ところが、当たり前のことですが、実際に「設計」しているのはたかがお役人なんですよ。それなのに権威と権力を独占した共産党のお役人連中は神になってしまう。これがトロツキーが批判したことなんですけど、ある意味必然の帰結ですね。
だいたいお役人問題というのは世界史を貫く大問題なんですよ。ローマ帝国もこれで滅んだ。共和制→皇帝制→傀儡皇帝制という推移は半面では官僚制の一貫した肥大化です。西欧はそこから権威と権力の分離を学んだわけです。中国の宦官制はお役人を肉体的に増殖させない知恵ですし(笑)、日本の先の大戦だって陸軍省と海軍省の利権争いでした。佐藤氏はソ連崩壊のとき、お役人がいつもどおり出勤しているのを見て唖然としたそうです。お役人は国家よりお役人共同体が大事なんですね!
国家は必要だ。
でも放って置くとお役人が増殖してロクなことにならない。
それを抑制できるのは(お役人が押し付けるのではない)庶民の大和ごころ。
とまあ、昭和の日に相応しい読書でした(^^♪