結論:ヤスクニ問題はイデオロギー問題(政治問題)である。
法理論的には否定できない。
(憲法論争は疑似問題にすぎない。)
ヤスクニを認めるための憲法改正は難しいだろうからそこへ追い込めば勝利するという政治上のテクニックはあり得るとは思う。しかし憲法違反は即国民による否定を意味しない。自衛隊と同じで憲法違反なら憲法の方を変えましょうという解決法もあり得る。
あたりまえだが、本質的なのは国民の意志だ。
(1)憲法は「少しでも」宗教と関係する行為を「すべて」禁じているのか?
① 助長行為でなければ禁じていない。
② 儀礼行為ですら禁じている。
憲法の条文上は①②ともあり得る。
しかし伊勢神宮参拝や国の教育文化事業への宗教関与の実態から②はあり得ない。
また、国際的にも②の立場をとるのはフランスだけである。
①とみるのが妥当だろう。
(2)憲法上「首相の神社参拝」と「首相のヤスクニ参拝」を区別できるのか?
①の立場でも法理論上ヤスクニ参拝を禁ずることができるだろうか?
首相が初詣に行くのを憲法違反として訴えても負けるだろう。国民がついてこない。
司法は神社参拝自体は合憲とする可能性が高い。
よって「ヤスクニだから良くない」という理屈の妥当性が要点になる。
ここから先は土俵は法理論でも争点はイデオロギーになる。
(3)ヤスクニだからイケナイ理由。
① 「国家のために国民に犠牲を強いる装置」だから駄目。
② 「東京裁判」に反するから駄目。
③ 中韓朝(+α)が嫌がるから駄目。
①は公務殉職者の顕彰自体を否定しているので、国家廃絶に組みする人しか支持しないだろう。
③は無原則な政治的配慮に過ぎない。ロジックを考察する上では対象外。
②は③との合わせ技でヤスクニ否定論の最大論拠になっているが、2つにわけて考えたい。
②−1:ヤスクニ参拝=東京裁判に反すると言えるのか?
②−2:「東京裁判に反する」行動をしたらイケナイのか?
②−1については、小泉首相は東京裁判史観を認めたうえで参拝をすると言っている。
②−2については、「東京裁判」自体が法的に位置づけられないから「反した行動」を拘束できない。
ようするに形式的には②は根拠にはならない。
すると、誤解されるような行動はするなという話であって、結局③に吸収される。
(1)(2)(3)から、結局論理的、法的には追いつめられないので政治問題でしかない。という結論。