西郷隆盛と「征韓論」

   
福沢諭吉と「脱亜入欧」。薩長土肥と「尊皇攘夷」。小村寿太郎と「ハリマン計画」。
わかったつもりでいながら、よく考えてみると変なことは多い。
征韓論」もその一つだ。
   
教科書は「西郷隆盛らの征韓論を岩倉・大久保が潰した。」という。
ということは朝鮮侵略は回避されたのか?
いいや、2年後に侵略は開始された。
じゃあ「征韓論」ってなんだったんだ???
    
西郷案の要点は軍事制裁のまえに直談判に乗り込むということであった。
反西郷派は直談判に反対した。
「談判」が焦点だったのである。
軍事制裁が問題なのだったら西郷派が負けたにも拘わらず江華島事件が起きたことは説明できないではないか。
西郷派こそが穏健派と言うべきなのだ。
     
事態は奇怪な経緯を辿った。
     
最初は西郷案が通るかに見えた。
ところが外遊から岩倉具視がもどると一転。三条実美は急死し、西郷派は追放された。(明治六年の政変:1873年)
2年後に新政府は侵略を開始した。(江華島事件:1875年)
さらに2年後には西郷は攻め滅ぼされてしまう。(西南戦争:1877年)
     
真実はこうだと思う。
   
イギリスと同盟した明治政府がロシアへの対抗上朝鮮を侵略するのは既定路線だった。
しかし西郷はイギリスの走狗として侵略を計画する明治政府に反対し、朝鮮王に西欧勢力に対抗する汎アジアの同盟を説こうとしたのだ。それをロスチャイルド代理人である岩倉具視が阻止したのが明治六年の政変だろう。
     
ハリマン計画に小村寿太郎が反対しロックフェラー派が勝利したのと同じ構図だ。
     
つまり最初は民族原理主義派が追い出され、次にロスチャイルド派がやられ、最終的にロックフェラー派が勝利して、今日に至っているのである。(そして今はロックフェラー派内の本家対分家の代理戦争が闘われているわけだ。)

西郷隆盛征韓論者ではなかった
   
 明治元年(1867)明治新政府は、江戸時代より尊敬の念でやまなかった李氏朝鮮に対し、王政復古を通告した。そして国交を迫り、これが世に言う「征韓論」の火付けだった。
 当時李氏朝鮮は、欧米の侵略行為に対し警戒の心を抱き、朝鮮政府は排外攘夷政策を押し進め、鎖国主義を貫いていた。明治新政府はこうした朝鮮の態度に激昂した。
 この時、陸軍大将であり、参議である西郷隆盛閣議で一言も発せず、沈黙を保っていた。
 そして西郷の心の裡は、自らが釜山に赴き、新政府の激昂を解決するためにこれに準ずる覚悟であった。
 そこで西郷は意見を上申する。西郷の意見は即座に受け付けられ、太政大臣三条実美より明治天皇に、上奏文が提出される手はずになっていた。
    
 しかし明治六年(1873)九月に、岩倉具視欧米使節団が帰朝すると事態が一変したのである。
 西郷の申しでた意見は、岩倉と大久保利通の猛反発にあい、内閣は紛糾し、西郷の意見が取り入れるならば、大久保は辞任するとまで言い出し、国論は揉めに揉めた。
 しかし三条は予定通り西郷の意見を上奏文として、天皇にて提出する手筈になっていた。しかしこの時、三条は謎の急死(この急死説の裏には、ユッタ衆が暗躍し、彼が毒殺された疑いが大きい)をする。
 そして岩倉具視三条実美に代わり、太政大臣に就任する。
       
 上奏文は新たに改竄されて、閣議決定とは全く別のものが提出され、御裁可を得ることになった。この御裁可によって、一大ドンデン返しが起こり、西郷隆盛をはじめとして、板垣退助土佐藩士)、江藤新平佐賀藩士)、後藤象二郎土佐藩士)らは、西郷案が改竄されたことから敗退し、野に下ることになるのである。
     
 韓国政府と友好関係を結び、和平を唱えた西郷らは、事実とは全く別の、強硬な征韓論者に仕立て上げられて、歴史に汚名を残すことになる。
 この場合、むしろ岩倉具視をはじめとして、大久保利通木戸孝允の方が、もっと強烈な対朝鮮主戦論者であったことが容易に想像がつく。
         
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