敗戦と君主

ところで僕は天皇は戦争を望んでいなかったという説を信じている。その理由は天皇は戦前日本最大の地主かつ資本家であり米英金融資本と深いつながりをもっていたからだ。金持ち喧嘩せず(^_^;)
   
では彼の財産はどのくらいだったのか?
   
大東亜戦争開戦時の国家予算は約80億円である。昭和20年度の国家予算は約200億円である。副島隆彦氏は敗戦から2000年に至るインフレ率を1000倍と見積もっているが、僕もそれに同意する。(あとは戦前日本のGDPが世界経済にしめる比率を参照すれば資産価値はわかるのだが。あとでやろう。)
戦前16億円の資産というのは今で言えば1.6兆円くらいか。しかし貧乏だった当時の国家予算の2割にあたる。堤義明のバブル期の総資産は3兆円と言われたから妥当なレベルか。(そもそも堤の資産は皇族財産を簒奪して築かれたんだからな。)敗戦1年後に没収された資産が33億円(ということは資産総額は36億円?)というのもインフレ率を考えればだいたいイメージが合う。天皇の資産の基礎は徳川家から引き継いだ土地である。これは明治政府が没収したわけではなくて、幕末に徳川家が天皇家に返却する形式をとったので純粋な個人資産である。これをもとに広く日本や世界の企業に投資していた。
戦前最大の資産を持つ君主はロシア皇帝だった。でも彼はロスチャイルドにはめられて潰された。現代の君主の資産は、石油成金は別として、エリザベス女王の1兆円(個人資産は公称600億円だって)がダントツだと言うけど、プミポン国王なんて絶対それ以上持っているはずなのに完全に秘密にされている。ただ現代に生き残った君主の資産でもそんなにあるのだから戦前天皇の資産が1.6兆円というのは少ないくらいか。
濱田政彦氏が紹介する隠匿資産660億円というのはちょっと眉唾である。もともと資産の主要部分は土地だったし、土地を処分していなかったのでフリーキャッシュでそんなにあるわけがない。そんなにあったら、天皇の場合亡命貴族という生き方はあり得なかったんだから、国家に供出して戦費に充てるだろう。天皇は国体護持に固執したが個人財産に固執した形跡は見えない。
   

戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが宮内省のこの数字は嘘で、本当の総資産額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるとも言われている。(中略)内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗戦がいよいよ確実になると、各財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすように指示した。(中略)おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い……。
(p346、濱田政彦著『神々の軍隊』)

   

1946年11月、財産税課税。財産保有者に対する一度限りの課税。最高額を支払ったのは天皇で、土地の物納で約33億円。

   

■世界の国王、女王、国家元首の長者(番外編)

フォーブス誌3月17日号に、世界長者番付け番外編を掲載した。
一般の長者番付けはあくまでも投資や企業経営で成功を収めた人を対象としているために、
国王や女王、国家指導者はそれに該当しないと判断されている。

     名前 (肩書き)             年齢   資産額(ドル)
ファハド・ビン・アブドルアジス(サウジアラビア国王)80歳  200億
ハサナル・ボルキアブルネイ国王)         56歳  110億
ハンス・アダム2世(リヒテンシュタイン元首)    58歳   20億
サダム・フセインイラク大統領)          65歳   20億
エリザベス2世(イギリス女王)           76歳    5.25億
ヤセル・アラファトパレスチナ解放機構議長)    73歳    3億
ベアトリックス女王(オランダ女王)         65歳    2.5億
フィデル・カストロキューバ国家評議会議長)    76歳    1.1億

TITLE:「おもしろコラム」 No.15
URL:http://yousworld.com/ny/htm/ics15.htm

 
さて話を戻して戦後の天皇の挙動を検証しよう。
 

天皇マッカーサーとの会見
   
             通訳   話題
〓1945.09.27 奥村勝蔵 天皇の戦争責任
〓1946.05.31 寺崎英成 食糧問題
〓1946. 10.16 寺崎英成 食糧援助、憲法第9条、地方巡行
〓1947.05.06 奥村勝蔵 日本の安全保障
〓1947. 11.14 寺崎英成 ?
〓1948.05.06 ?    ?
〓1949.01.10 ?    ?
〓1949. 07.08 松井明  国内の治安
〓1949. 11.26 松井明  講和問題、シベリア抑留、ソ連の原爆問題
〓1950. 04.18 松井明  共産圏の脅威
〓1951. 04.15 松井明  儀礼的(お別れ)

  

2 天皇の「二重外交」

〓 マッカーサーとの会見
   
45年11月の第1回会見については第1章で述べたとおりだが、その後もマッカーサーが解任されて離日するまでに12回もの会見が行われた。第1回から9ヶ月後の46年5月に第2回が行われ、その後はほぼ半年に1回のペースで会見が行われている。それらの会見内容はほとんどわかっていないが、断片的に伝わってきている内容から、会見の場での天皇の考えや行動について見てみることにしよう。
    
日本国憲法が国会で成立してから10日後の46年10月17日に、第3回会見が行われた。第3回については会見記録が発見されており、その内容ははっきりとしている。天皇マッカーサーに対し、日本への食糧援助を感謝した後、アメリカ国内で、対日感情が未だに悪化していることを心配し、その説得に尽力するマッカーサーに感謝している。天皇アメリカ本国の対日感情を心配している点は、外交問題に大きな関心を持ち、天皇制存続を第一と考えている昭和天皇らしい。
    
その後、「国民が虚脱状態から士気を恢復し復興の希望に立ち上らんとするこの秋、この希望に水を掛けるものは『ストライキ』であります。何事も真似をする場合、権利の面のみを真似し義務の面を等閑に附する事はありがちの事ではありますが、日本人の教養未だ低く且宗教心の足らない現在、米国に行はれる『ストライキ』を見て、それを行へば民主主義国家になれるかと思ふ様な者も不尠、これに加ふるに色々な悪条件を利用して為にせんとする第三者ありとせば、国家経済再建の前途は誠に憂慮に堪へぬと申さねばなりません」(98)と発言し、国内の労働運動について厳しく非難し、マッカーサーにその取り締まりを求めている。天皇が新憲法で保障された労働権の行使を非難して、その取り締まりを外交の場で求めるということ自体、大変注目すべきことである。天皇が政治的発言をしたというだけでなく、それを外交の場でしたわけである。
しかし、この会見でもっとも注目すべきことは、憲法第9条に関する議論である。天皇は第9条に関して、「世界の国際情勢を注視しますと、この理想より未だに遠い様であります。この国際情勢の下に、戦争抛棄を決意実行する日本が危険にさらされる事のない様な世界の到来を、一日も早く見られる様に念願せずに居れません」との発言を行った。第九条の理念では、現実的には日本が危険にさらされるとの恐れを持っていたのである。これに対してマッカーサーは「戦争を無くするためには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ。それを日本が実行されました。五十年後に於て……日本が道徳的に勇敢且賢明であつた事が立証されませう」と答えた。(99)マッカーサーには、戦争放棄の考えとともに、「天皇を戦争責任から救い天皇制を維持するためには、戦争放棄の九条を導入する以外になかった」という認識があった。(100)この会見で、両者に第9条に関する認識の違いが生じていることがわかる。   
ところで、こうした会見の他に、この時期の天皇の政治的動きを示す史料が発見されている。(101)この史料は天皇の談話を、宮中とGHQとの間の仲介を努めていた人物(寺崎英成(102)か松平康昌と思われる)から、GHQ高官(ホイットニー准将かJ.アチソンと思われる)に伝えられたものである。この中で天皇は、「占領は短かすぎないようにとの希望」(103)を述べて、アメリカのさらなる駐留を求めている。天皇は「日本人の間の宗教心の欠如について」述べ、国民が神道主義者と結びつくことで、反米思想が広がることを恐れ、できるだけ長く占領していてほしいと述べている。また、「日本の労働者は、物事を真似することにおいて、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追及しやすく、米国のストライキから有害な影響を受けるので、天皇は米国の炭坑ストがすぐに解決するよう希望している」。(104)この発言はマッカーサーとの第3回会見の内容に関係している。しかしこちらの方が、アメリカのストライキの影響が日本にも伝わってくることから、解決してほしいという、アメリカへの内政干渉ともとれるという面で、天皇の強い意志を感じるのではないか。ただ、この内政干渉は明らかに象徴としての天皇の行為から逸脱していると言わざるを得ない。   
さて、話をマッカーサーとの会見に戻そう。第3回会見で生じた第九条に関する両者の認識の違いは、翌年の5月6日に行われた第4回会見でもはっきりと表われている。第4回会見については児島襄氏が閲読できたとする記録によって、一部の会見内容がわかっている。この会見では、日本の防衛問題が話題となり、天皇は「日本ガ完全ニ軍備ヲ撤廃スル以上、ソノ安全保障ハ国連ニ期待セネバナリマセヌ……国連ガ極東委員会ノ如キモノデアルコトハ困ルト思ヒマス」(105)と発言し、日本の安全保障は国連に期待しなければいけないが、国連の実状を見る限り、それを期待することができないという考えを示した。それに対してマッカーサーは「日本ガ完全ニ軍備ヲ持タナイコト自身ガ日本ノ為ニハ最大ノ安全保障デア」ると、第九条の精神を再び説明し、「国連カラハ次第ニ立派ナモノガ生レテ来」ると、国連に関して天皇とは異なる見解を示した。(106)安全保障に関する両者の認識は大きな隔たりを見せることとなった。その後天皇は「日本ノ安全保障ヲ図ル為ニハ、アングロサクソンノ代表者デアル米国ガ其ノイニシアチブヲ執ルコトヲ要スノデアリマシテ、此ノ為元帥ノ御支援ヲ期待シテ居リマス」(107)と、アメリカによる安全保障を求めたのである。マッカーサーは第9条により、日本を非武装化し、国連による安全保障を考えていたのに対し、昭和天皇は国連には期待しておらず、アメリカ一国による安全保障を求めたのである。こうした天皇の政治的発言は、象徴天皇としての国事行為や公的行為の範囲を超えるものであると言ってよい。冷戦の激化の影響で、共産主義が日本に入ってきて、大きな勢力を持つようなことは、天皇制存続を目的とする天皇としては大変困ることであった。共産主義から確実に守ってくれる軍事力が必要だったのである。そのためには不安定な国連ではなく、アメリカ一国に確実に守ってもらう必要があった。だからこそ、マッカーサーとの会見で、政治的発言をしたのである。   
ところでこの年の9月に、天皇は寺崎を通じて、W.シーボルトGHQ外交局長に、アメリカが貸与するという形で、沖縄を軍事占領し続けてほしいとのメッセージを送った。(108)このメッセージはその高い政治性だけでなく、冷戦の激化によって、沖縄がアメリカにとって戦略的に重要な場所であることを天皇が知っていて、日本の安全保障を担ってもらうために、提供を申し出たという点で、大変注目される。
さて、その後の第5回から第7回までの会見内容については全くわかっていない。49年7月に行われた第8回では国内の治安問題が、11月に行われた第9回では講和問題が、50年4月に行われた第10回では第9回に続いて、講和問題と日本の安全保障問題、共産圏の脅威などが話題となった。この第10回会見でも、天皇マッカーサーの議論は平行線であったと考えられる。(109)こうしたマッカーサーとの意見の相違は、講和問題や安全保障問題をマッカーサーと交渉しても、天皇の思うようにいかないことを物語っていた。そのため天皇は、第1回会見で自らの地位を守ってもらった、恩人であるマッカーサーをバイパスにして、アメリカ政府関係者と直接接触し、それらの問題を解決することを決意したのである。その頃、アメリカからJ.ダレスが、講和条約・安全保障条約締結のための大使として、日本に派遣されることが決まり、天皇はダレスへの接触を図ろうとするのである。

〓 ダレスとの接触  

(……)こうした状況を受け、ダレスの帰国直前の6月26日、松平からパケナムを介して、ダレスへの天皇の口頭メッセージが届けられた。その内容は「今までアメリカからの公式訪問者は……多くの見識ある日本人と会談するために会うことはできなかった。」こうした人たちは追放されてはいるが、日米の将来の関係において「大変価値のある助言と支援」ができる。「講和条約特にその詳細な条項が最終的な行動をとる前に、日本を公的にも私的にも真に代表し、長く続く平和の解決および両国の利害にむけて、本当の援助をもたらすことができる日本人の何らかの諮問機関を設置することを提案する」(124)ものであった。
このメッセージは非常に重要な要素を含んでいる。朝鮮戦争勃発の翌日にもたらされ、安保条約締結交渉を吉田に任せておくことができないことを、天皇が表明しているのである。「多くの見識ある日本人」によって日本を「真に代表」するような「機関を設置」し、そこで交渉するという提案は天皇からの吉田への不信任であった。吉田が「池田ミッション」の方針から転換したことに対する不信任であったと言ってよいだろう。そしてこのメッセージが、マッカーサーをバイパスにしてダレスにもたらされたことも注目される。第10回会見において、両者の意見が合わなかったことが、その原因であろう。ダレスはこの天皇からのメッセージを「今回の訪問で、最も重要な成果」と評した。
 天皇とダレスが最初に会見したのは、条約締結交渉が決着した2月10日のことであった。ダレスは「二国間協定の趣旨は、日本側の要請により、アメリカ軍が日本とその周辺に駐留することであると述べた。この説明に対して、天皇はダレス使節団と日本政府の間の『交渉』が友好的に行われていることについて、アメリカへ衷心からの同意と感謝を示した。」(132)自らの考え方どおりに交渉が進んだ天皇としては満足だったようである。(……)
   
TITLE:卒業論文
URL:http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/sotsu5.htm

   

ホイットニー文書 昭和天皇の日本国民に対する見解全文
http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/430.html
投稿者 松浦 日時 2005 年 6 月 21 日 22:59:53: nX3mGLaD7LQUY

昭和天皇の人物と、敗戦後象徴天皇制を理解する上で欠かすことのできないホイットニー・ノートについて、ここの戦争板でも知らない人が多く、確認のために投稿します。なお、文責は全て松浦に帰すものです。

【1】

ここに言及するホイットニー・ノートとは、昭和天皇が占領軍司令部(SCAP)に対し表明した見解の要約が記された、「極秘」扱いの英文三頁以上にわたるメモランダムのことで、1946年4月から6月の間に東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサー元帥の腹心であったコートニー・ホイットニー将軍の私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除され公開されている。以下にこの文書における天皇見解の全訳を記す。なお、原文は間接話法の報告文形式となっているため、天皇の見解箇所をまとめる必要から直接話法とし、その際、節関係には変更が生じないよう原文そのままを踏襲した。

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。

日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと神道超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので依然として危険な面がある。政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似る事において、義務を疎かにして自分の権利を利己的に追求しやすく、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に『輝く平和』の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。

以上がホイットニー・ノートにおける昭和天皇が占領軍司令部に伝えた見解の全体である。