好太王碑とアイデンティティー


      
ずいぶんまえから一部の歴史マニアのあいだでは捏造説は破綻していたんだが、僕が驚いたのは李先生がまだ生きていて、かつ捏造説でがんばっていることなのだった。「1881年以前に作られたという根拠の跋文はいい加減だからカンケーネー」ということらしい。ようするにこのお爺さんは古代朝鮮半島に日本軍が勢力をもっていたことになると自尊心が崩壊しちゃうんだろうなあ。もはや処置無し┐(´∀`)┌
            

高句麗】中国人研究者「好太王碑、新資料発見で改ざん説否定された」[06/23]
1 :蚯蚓φ ★ :2005/06/24(金) 22:11:12 ID:???
     
古代の東アジア情勢を伝える第一級の史料で、日本の大陸進出を正当化するために旧日本陸軍が碑文を改ざんしたとの論争がある好太王碑(広開土王碑、中国吉林省集安市)の新たな墨本(ぼくほん)が中国で発見された。鑑定した中国の研究者は「現存するもので最古」と判断。旧陸軍が中国から持ち出し、これまで最古とされてきた墨本と、書体や文面がほぼ一致することなどから「改ざん説は否定された」と結論付けている。
    
中国社会科学院の徐建新・教授が中国の学術誌「中国史研究」に論文を発表した。同教授によると新発見の墨本は北京のオークションに昨年出品され、徐教授が鑑定を依頼された。オークションで売買が成立したが、現在の所有者は明らかにできないという。
墨本は拓本では文字が不鮮明な時に作られ、文字の輪郭をまず紙に縁取りし、その輪郭の周辺を墨で塗りつぶして文字を白く浮かび上がらせる。発見当時の碑はこけやつる草に覆われ、拓本を作れなかったとされる。
    
好太王碑の最古の墨本はスパイとして1882年ごろ現地に入った旧陸軍士官が83年に日本に持ち帰った「酒匂本」(東京国立博物館蔵)。改ざん説は、まず酒匂本で日本に都合のよい文章が作られ、さらに碑に石灰を塗って墨本と同じ文字を碑に刻んだと主張する。「倭以辛卯年来渡海破(391年に海を渡って来た倭と戦った)」などの部分だ。
     
酒匂本と新発見の墨本は文字がよく似ており、「来渡海破」も大きな違いはない。一方、新発見本には入手経緯などを記した4人の跋文(ばつぶん)(書き付け)があり、徐教授は書き付けた人の役職の移り変わりなどから「81年より前に作られた」とみなす。酒匂本より古い本に旧陸軍士官の意向が働いたとは考えられず、徐教授の見解に従えば改ざんは否定されることになる。
     
好太王碑は、高句麗王朝19代の好太王(374〓412)の功績が刻まれ、1880年ごろに発見された。倭との戦いが記されていることから、日本書紀にある古代日本の朝鮮出兵・支配を裏付ける材料となってきた。
     
これに対し、改ざん説を唱える李進煕・和光大名誉教授は「新たな墨本は非常に貴重な発見。酒匂本と同じく、最も早い段階のものだ」とした上で、「こけなどを取り除くため、碑は1882年に焼かれている。新たな墨本の字も焼かれた痕跡が見え、それ以前ということはありえない。跋文は誇張が多く、書いてあることが正しいとは限らず、論文は間違っている」と反論している。
     
論文には96文字が掲載されているが、徐教授によると、墨本所有者の同意を得て、論争となってきた部分を中心に百数十文字の写真を撮影してあり、できるだけ早く公開したいという。
    
○旧日本軍の意向とは無関係
<鈴木靖民・国学院大教授の話>
墨本は縁取る時に文字をどう読むかという解釈が介在する。新発見の墨本と酒匂本の文字が同じということは、同じ人やグループがかかわった可能性が高いことを示す。この墨本が酒匂本より古いのなら、どちらも旧日本軍の意向とは無関係につくられたということだろう。これで改ざん説はほとんど成立不可能となったと考える。
   
ソース:朝日新聞夕刊(05/06/23)を手入力
URL:http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1119618672/

李進煕(リ・シンヒ)
1929年韓国慶尚南道に生まれる。1957年明治大学大学院修士課程修了。文学博士。雑誌『季刊三千里』(通巻50号)、『季刊青丘』(通巻25号)編集長(1975年2月〓1996年8月)。明治大学文学部講師、和光大学人文学部教授などを経て、和光大学名誉教授。専門は考古学・日朝関係史
URL:http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9977106452

碑文の第一面8行から9行にかけて,

百残新羅舊是属民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残□□新羅以臣民以六年丙申王躬率□軍討滅・・・・

とあり、我が国ではかってこれを,

百残(百済の蔑称)と新羅はもと(高句麗)の属民であって、ずっと(高句麗)に朝貢してきたが,辛卯(しんぼう)年(391年)に倭が海を渡ってやって来て百済新羅などを破って臣民とした。そこで丙申の年(396年)に王は自ら軍を率いて・・・・

と読んでおりこれが通説であった。ところが在日朝鮮人学者,李進熙(リシンヒ)は、「酒匂(サカワ)は日本の軍の情報将校であり、いわゆる酒匂本は碑文の都合の悪いところを改竄(すりかえ)をしたものだ。」という説をとなえた(1972)1)(以下,星野良作(参考文献1)に従って記述する)。

李進熙は前述の辛卯(しんぼう)年の条にある「倭」の字は本来「後」であり、「来渡海」も誤りである、したがって、

百残新羅舊是属民由来朝貢而<後>以辛卯年<不貢因>破百残<倭寇>新羅以臣民以六年丙申王躬率□軍討滅・・・・・

(<>内は李によって復元あるいは欠字を埋めた文字)と読むべきとした。その大意は、

百残と新羅は昔から(高句麗の)属民として朝貢してきたが、その後辛卯年から朝貢しなかったので(広開土王は)百残,倭寇そして新羅を破りこれを臣民とした

となる。すなわちここにかかれた史実は倭とは無縁のものとする。李進熙の酒匂本改竄説の要点は次の通りである1)。

(1)広開土王陵碑が再発見されたのは、1880年(光緒六,明治十三)年で、当初は双鉤本がつくられた。
   本格的な拓本がつくられたのは1887年(光緒十三,明治十七)年であった。
(2)酒匂景信が双鉤本を日本に持って帰ったのは1884年(明治十七)年2月以前である。
(3)酒匂景信は双鉤本をつくるときに、碑文をすり替えた。
(4)双鉤本が将来されてから、参謀本部で横井忠直を中心とし,多くの学者を動員して碑文の解読・解釈が行われた。
(5)1900年前後に、参謀本部は酒匂景信の碑文すり替えを隠蔽するために「石灰塗布作戦」を行った。
(6)その後まもなく、第三次の加工を碑面に加え,参謀本部が「石灰塗布作戦」の際に誤った箇所に手を入れた。

これにたいして、

李進熙の「広開土王陵碑の研究」が出版されたとき、羽仁五郎井上清は次のような対談をしている1)。

古代史家はもとより日本の歴史に関心のある者は、必読の書でしょう。日本の参謀本部好太王碑文を偽造したとの推定が、かりに成り立たないとしても、とにかく今まで絶対確実の資料とみられていた好太王碑文なるものは、原文はわかっていないし、日本の参謀本部やその手先がやったかどうかは別として、明らかに原文に加筆訂正されたものでしかないことは、李さんの研究で一点の疑う余地もなく明らかにされています。ですから、あの碑文なるものによって古代日朝関係を議論することは、学問的な手続きとして全然意味をなさんということになってきます。それから、かりに「倭以辛卯・・・」の原文が酒匂本の通りであったとしても、ここを、従来日本の学者が解していたように解するわけにはいかない。この文で「渡海破」海を渡って破るの主語は、高句麗国あるいはその好太王であって「倭」ではない、と朝鮮の学者は主張しています。(中略)これでまあ、古代に日本が一時的にせよ、支配していたという通説はその、最後の拠点も崩壊してしまった。そうすると、朝鮮人の植民地が日本にあったのでその逆ではないという金錫亭さんたちの学説は、いよいよ重要になってくるし、古代日本史は朝鮮との関係で根本的に書き改められなければならなくなる。

TITLE:広開土王碑 その2
URL:http://www.withe.ne.jp/~ted/history/kodai/setsu/files/kokaido2.htm

【第一面】
惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有聖□□□□□□命駕
巡幸南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮亀応声即為
連葭浮亀然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉不楽世位天遣黄竜来下迎王王於忽本東岡履
竜首昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業□至十七世孫国岡上広開土境平安好太王
二九登祚号為永楽太王恩沢洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧其業国富民殷五穀豊熟昊天
弔卅有九宴駕棄国以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以示後世焉其辞曰
永楽五年歳在乙未王以稗麗不□□人躬率往討過富山□山至塩水上破其丘部洛六七百営牛馬郡
羊不可称数於是旋駕因過襄平道東来候城力城北豊五備海遊観土境田猟而還百残新羅旧是属民
由来朝貢倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅以為臣民以六年丙申王躬率水軍討滅残国軍□□
首攻取壱八城臼模盧城各模盧城幹弖利城□□城関弥城牟盧城弥沙城□舎蔦城阿旦城古利城□
利城雑珍城奥利城句牟城古須耶羅城莫□城□□城□而耶羅城□城於利城農売城豆奴城沸□□
                  
【第二面】
利城弥鄒城也利城大山韓城掃加城敦抜城□□□城婁売城散那城那旦城細城牟婁城于婁城蘇灰
城燕婁城析支利城巌門□城林城□□城□□城□利城就鄒城□抜城古牟婁城閏奴城貫奴城彡穣
城□□城儒□盧城仇天城□□□□□其国城残不服義敢出□戦王威赫怒渡阿利水遣刺迫城横□
侵穴□便□城而残主困逼献□男女生口一千人細布千匹□王自誓従今以後永為奴客太王恩赦先
迷之愆録其後順之誠於是得五十八城村七百将残主弟并大臣十人旋師還都八年戊戌教遣偏師観
帛慎土谷因便抄得莫□羅城加太羅谷男女三百餘人自此以来朝貢論事九年己亥百残違誓与倭和
通王巡下平穣而新羅遣使白王云倭人満其国境潰破城池以奴客為民帰王請命太王恩慈矜其忠誠
□遣使還告以□計十年庚子教遣歩騎五万往救新羅従男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退
□□□□□□□□来背急追至任那加羅従抜城城即帰服安羅人戍兵□新羅城□城倭満倭潰城大
□□□□□□□□□□□□□□□□□□尽更□来安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言
                
【第三面】
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辞□□□□□□□□□□□□□潰
□以随□安羅人戍兵昔新羅寐錦未有身来論事□国岡上広開土境好太王□□□□寐錦□□僕句
□□□□朝貢十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界□□□□□石城□連船□□□王躬率□□従平穣
□□□鋒相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無数十七年丁未教遣歩騎五万□□□□□□□□□師
□□合戦斬殺蕩尽所穫鎧鞘w一万餘領軍資器械不可称数還破沙溝城婁城□住城□□□□□□那
□城廿年庚戌東夫餘旧是鄒牟王属民中叛不貢王躬率往討軍到餘城而餘城国駭□□□□□□□
□□王恩普覆於是旋還又其慕化随官来者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□社婁鴨盧粛斯舎鴨盧□□□
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【第四面】
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家為看烟国岡上広開土境好太王存時教言祖王先王但教取遠近旧民守墓洒掃吾慮旧民転当羸劣
若吾万年之後安守墓者但取吾躬巡所略来韓穢令備洒掃言教如此是以如教令取韓穢二百廿家慮
其不知法則復取旧民一百十家合新旧守墓戸国烟卅看烟三百都合三百卅家自上祖先王以来墓上
不安石碑致使守墓人烟戸差錯唯国岡上広開土境好太王尽為祖先王墓上立碑銘其烟戸不令差錯
又制守墓人自今以後不得更相転売雖有富足之者亦不得擅買其有違令売者刑之買人制令守墓之
                        
TITLE:広開土王碑
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