【私の履歴書】寺澤芳男(18)

寺澤芳男(18)
MIGA長官 仏参加拒否、説得に苦労 「チームプレー」の浸透難しく
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 国際機関の長官というと、「長官公邸は」とか「公用車は」とか、極端な例では「警官のオートバイの先導は」などと聞かれ、困ってしまう。そんなものはない。世界銀行グループの4番目の国際機関である多国間投資保証機関(MIGA)は、専門職21人、補佐職11人の合計32人という小さな所帯でスタートした。
 日本からの秘書官は必要ないと再三断ったにもかかわらず、大蔵省と通産省から1人ずつ私の補佐官としてワシントンに来た。2人は東大法学部の同期生だった。英語はともかく、グッドモーニングという朝の挨拶もままならない。私は東大法学部卒のキャリア官僚に、朝、職員と目を合わせて大きな声で挨拶することから教えなければならなかった。国民の税金がこういうキャリア官僚たちに使われているのかと思い憂鬱になった。
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寺澤芳男(19) ワシントン生活 優秀な秘書が“指南役”に 故郷の姉妹都市提携 橋渡し
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 夕方、家政婦がアパートの勝手口から合鍵で入ってきて、私の好物を作ってテーブルの上に置き、そして帰る。単身赴任だから気楽なものだ。ビールを飲んでそのまま食べずに寝てしまってもがみがみ言う人はいない。この気楽さに慣れてしまうと夫婦生活の基本は崩れ、別居、離婚の道をたどる。
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 秘書のシリアはトリニダード・トバゴ出身で一度ドイツ人と結婚したが、当時はワシントンで独身生活を送っていた。英語はまさしくクイーンズイングリッシュで、世界銀行グループでナンバーワンの秘書だった。私のへたな英語を見事な英語に直してくれたし、世銀グループの人たちとの付き合い方を細かく教えてくれた。
 40歳そこそこの混血の美人で目鼻立ちは西洋人と変わらないが、茶褐色の皮膚をしていた。1989年から92年まで私の秘書をし、その後、バージンアイランドの英国人外交官と結婚した。結婚式にはMIGAの職員ら10人ほどと一緒に参加した。ワシントンから飛行機で3時間。大西洋の真ん中に浮かぶ美しい島だった。皆がアベマリアを歌っているとき、私は少し離れたヤシの木の下で花嫁のシリアを見ていた。
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妻の死
2009-10-23 19:00:00
http://ameblo.jp/terryterasawa/entry-10370071622.html#main
 2009年 7月2日、妻が死んだ。膵臓がんで五十一歳だった。
 死ぬほど退屈な毎日を送っている、同年輩の友達にとってこれほど飛びつきたくなるような話題はめったにない。年齢差が二十七歳で、つい二年前に前妻との六年ごしの離婚の裁判が決着、再婚し、オーストラリアに移住した。
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寺澤(村田)久美子さんが、わずか51歳の若さで7月2日に永眠されたことを悼んで、ホテルオークラにおいて「久美子さんを偲ぶ会」そしてご主人の寺澤先生を励ます会が開かれました。久美子さんには通訳教育についての海外大学院事情の視察をはじめた当初より同行していただき、常に助けてもらってきました。

1987年に井手先生のご紹介で、当時お勤めだったプライスウォーターハウスでのプロジェクトにたずさわるという件で出会って以来、22年間におよぶお付き合いでした。このなかで、寺澤先生と結婚されパースに暮らされた最後の2年間は特に幸せな期間だったのではないか、と思います。

この機会に久美子さんとの思い出を振り返ってみます。

私と久美子さんの共同作品が二点あります。

マキァヴェッリの子どもたち」
リチャード サミュエルズ
鶴田 知佳子/村田 久美子訳 (2007/5/11)

「株主価値追求の経営―キャッシュフローによる企業改革」
アンドリュー ブラック、ジョン・E. バックマン、フィリップ ライト、
プライスウォーターハウス
井手正介監訳
鶴田 知佳子/村田 久美子訳(1998/11)

いずれも東洋経済新報社から出版されております。
久美子さんとの出会いは、私の人生の転機のころでもありました。

その後1999年4月から私は目白大学の専任教員になりますが、その一年前まではNHK衛星放送やCNNの放送通訳者、国際会議の同時通訳者をしながらもともとの大学院の専門であった経営学を活かす仕事をしていました。久美子さんとは大学の同窓生、久美子さんは英語学科で私はフランス語学科、年齢も5歳違いますが同じように金融機関に勤務した経験がありアメリカのビジネススクールの卒業生と言うことで、知り合った12年前より親しくさせていただいてきました。

通訳研究、あるいは最近では通訳学ということばもありますが、欧米の大学院の通訳教育を調査したいということを始めたのが1999年です。その年の夏にパリ第三大学の通訳翻訳高等学院を訪ねたのですが、私の通訳研究の出発点ともいえるこの調査旅行に同行し、終始励まし続けてくださったのが久美子さんでした。

その後、欧米の大学院探訪は翌年のアメリカとカナダ、その次の年のオーストラリア、さらに翌年の台湾、韓国と続いたのでした。その都度、日本通訳学会で研究報告もいっしょにしてきました。久美子さんの存在がなかったら、ここまで私はやってこられなかったと思います。とても愛情深く、研究熱心でかつ緻密な思考のできるすばらしい友人であり、研究者でした。翻訳者、通訳者としても何度も仕事をいっしょにさせていただいています。

これとは別に、夫婦でオーストラリアをごいっしょに旅行させていただいたこともあります。メルボルンでディナートラム、ペンギンのパレードなどを楽しみました。また去年の夏は、パースに2泊3日だけでしたがお邪魔することができて、寺沢先生ご夫妻とシャンティちゃんのお散歩をいっしょにさせていただいたのが、何よりの思い出として残っています。

インド洋をみたいといった私のために、車を運転して雄大な夕日の沈むところをみせたいと連れて行ってくださったのでした。

さらに、米原万里さんの本「魔女の一ダース」に出てくる幻の銘菓、ハルヴァを近所の輸入食料品店でみつけたからといって、わざわざ航空便で二度も私にお菓子を贈ってくださったのでした。わざわざ、「魔女の一ダース」でこのお菓子についてふれている部分のコピーまで同封して。

と、とてもとりとめのない話になってしまいましたが、今までお伝えしていたいくつかのエピソードでお分かりいただけたでしょうか、久美子さんはきわめて有能なキャリアウーマンでありながら、実に細やかな心配りのできる人でした。

久美子さんがパースにおいでになると決断したとき、仕事はしない、先生といっしょに生活をするのが自分にとって大事なことなのだという決断をされたとき、正直に申し上げてこれだけの通訳者、翻訳者としての力量をお持ちなのに、もったいないという気持ちがありました。ですが、パースに伺ってみていかにお二人でお幸せに暮らしておいでになるかを目の当たりにして、きっとこれこそが久美子さんが望んでいらした生活なのだと一目でわかりました。

大事な人のためにお料理をして、生活を整えて、穏やかにいっしょに一日、一日を大切に生きる。久美子さんは最後まで濃密に、毎日を大事にしながら幸せにお暮らしになったのだと思います。

先生といっしょにシェルターから引き取って飼いはじめた犬のシャンティが乳がんであることがわかったときのほうが、自分がすい臓ガンでしかもそれが腸に転移していて長くない、とわかったときよりもショックだったと言うほど、恵まれない犬のためにも心をくだき、署名活動もしておられた久美子さん。

その署名活動に夫や大学の同僚ともども、協力することができたのがせめてもの私の心の慰めとなっています。

このような、愛情深い素晴らしい女性であった久美子さんとこの世の中でめぐり合うことができた幸運を感謝しつつ、私の拙い文章を終えたいと思います。
 
どうか安らかに眠ってください。