日本の国号は天智朝から

日本史学会村の定説だった「大宝律令説(701年、文武天皇)」が崩れた。
678年段階で国号としての「日本」が唐に認識されていたことが確定。
文面からは白村江時点も「日本」だった可能性を示唆。
遅くとも天武朝から日本国号があったことが証明された。
あと一歩で天智朝説が確定する。
因みに天智・天武王朝交代説なんてのもあったけどシナ側からは同一政権と見られていたこともわかる。
学説がだいぶ掃除されていい感じw
 
ところで繰り返しになるけど、古代日本史を理解するにはヤマト国の朝鮮半島領土(ミヤケ=天皇領地)の存在が鍵となる。
そこを「韓国人に悪いから」とかいう不合理な理由で忌避すると見えるモノも見えなくなる。
ヤマト国は369-562年の間伽耶地方を支配した。391年からは百済新羅も形式的には倭の属国だった。
この事実を直視すること。
実態はともかく伽耶諸国が滅亡しても倭国百済新羅という属国を支配している意識なのだ。新羅倭国に納税を続けたし(ときどきさぼって戦争になったけどw)、百済も滅亡のときまで倭国に皇子を人質に差し出している。
  
もともと朝鮮半島支配の目的は鉄の確保にあった。
しかし任那滅亡と前後して国産砂鉄による製鉄が始まったので重要性は低下。
100年後に百済が救援を求めて再接近してきたときは派兵するか否かで論争になった。
これが天智・天武の確執の淵源。
 
追記)
イチイチ書くのもアホらしいけど、古代日本が朝鮮半島を支配したことが現代でなんらかの権利を発生させるモノじゃありませんよ、JK。
 
追記)
因みに任那スルーのおかげで562年の任那滅亡の意義が見えなくなっていることも問題。
聖徳太子(574-622)の時代ってのはこの失われた領土と新興百済新羅とどう付き合うかで揺れた時代。それが蘇我氏の興隆に重なっている。実際600年には新羅に派兵して納税再開を約束させるなど半島南部の支配者意識満々。なお、この年は遣隋使を初めて送った年でもある。その目的は・・・もう解るよね?隋の偵察だねw
というかなんで飛鳥時代にやたらいろんな文物が朝鮮諸国からプレゼントされたと思うの?半島支配確立には倭国に介入されたら困るんで各国がプレゼント攻勢したんだ。それが飛鳥文化の背景だ。
 
閑話休題
で、有名な607年の第2回遣隋使で倭国は「日出処」の「天子」を自称。
返礼で「東皇」と書いてきた煬帝に「天皇」と返書。天子の「天」の字に拘るwww
この遣り取りを踏まえて668年に即位した天智天皇の下で「日本」「天皇」号が確定したのだ。
 


「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見
 
 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の
作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の
大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら
さらにさかのぼることになる。
 
 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は
吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
 
 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の
戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は
口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に
閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済
将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。
 
http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html