証言記録 市民たちの戦争「爆撃された教室〜大分・保戸島〜」

  

   
またまたたまたま点けたテレビで興味深く見た。
この事件はしらなかった。
テレビでは出撃した空母名と12機編隊中の3機が攻撃したと明言していたけど、空母名聞き逃した。
NHKなのでアメリカ軍の戦争責任は問わない。
潜水艦観測所と誤認して攻撃したようなナレーション。島に潜水艦観測所を設置した日本軍が悪いと言わんばかり。
サヨクダブルスタンダードはいつもどおりだが、大きくは「日本が侵略戦争をしたのが悪い」というフレームがあるから戦争犯罪追求に及び腰になるのだった。
この卑屈さはどうだ?
戦争責任と戦争犯罪は独立に考えてよいのだ。
この「うしろめたさ」こそ洗脳だと意識しなくては日本人はいつまでも敗戦国民のままである。
下記に引用した分は典型的いい人サヨクのものだが、典型的な「相殺論」である。
日本軍は重慶爆撃・風船爆弾で市民虐殺を容認した、だからアメリカ軍の民間人虐殺だけを非難できない。ということらしい。
アホかと思う。
そういう大きな構図で政治的に判断するからダメなんだよ。
一個一個の事件をそれだけで糾弾すればいいのだ。
重慶爆撃や風船爆弾についても同じように糾弾すればいい。
それぞれを結びつけて語る必要はない。
   

(ナレーション)潜水艦観測所を狙ったと記録されています。しかし、逃げ惑う子供達に機銃掃射までかけて攻撃した理由は今も謎のままです。

    

2009/12/13 10:05〜10:37 NHK総合 証言記録 市民たちの戦争「爆撃された教室〜大分・保戸島〜」
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2009010909SA000/index.html?capid=mailmaga002
   
豊後水道にある保土島。終戦のわずか20日前、アメリカ軍によって学校が爆撃され、125人の子供たちが犠牲となった。マグロ漁で栄えた小さな島を突然襲った悲劇に迫る。
瀬戸内海と太平洋をつなぐ豊後水道に浮かぶ小さな島、保土島。終戦のわずか20日前、アメリカ軍によって学校が爆撃され、125人の子供たちが犠牲となった。「なぜ学校が爆撃されたのか」。島の人たちは今も、その理由が分からないままだ。アメリカ軍側の資料を交え、生き残った生徒たちの証言を積み重ねることで、マグロ漁で栄えた小さな島を、突然襲った悲劇に迫る。

  
 

[GOWの部屋][大分の部屋]
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ここでは私の好きな大分について語らせていただきます。

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021.保戸島空襲(2009/09/02)
     
■01.はじめに
毎年この時期になると『大分と戦争』というタイトルで何か書けないものか?とネタ探しに奔走するのですが(笑)、今年は『保戸島空襲』について書いてみたいと思います。
例によって資料的価値は一切ありませんので、そこのところは差し引いてお読み下さいませ。
   
■02.保戸島
    
「ほとじま」は大分県津久見市にある小さな島。東岸に突き出した間元の先にあり、戦前から盛んなマグロ遠洋漁業がこの島の主な産業です。島に平地はわずかしかなく、人々は標高179mの遠見山へ続く急斜面にへばりつくように家を建てて暮していました。
戦争が始まると漁船燃料はチケット制になり、やがてチケットがあっても肝心の燃料が全く手に入らなくなってしまいます。とにかく漁業以外に目立った産業のない島ですから、島民は話し合い、遠くニューギニアで日本軍のために漁を行なう仕事に就くことにしました。島にあった漁船89隻中、実に83隻が南方へ向かいます*1。
こうして男たちが大勢島を離れたのとほぼ時を同じくして、昭和17年、遠見山に海軍が「佐伯防備隊保戸島分遣隊」40人を配備しました。彼らの任務は豊後水道を侵入して来るアメリカ海軍潜水艦をいち早く探知すること。水の子灯台と無垢島の間には海軍の水中聴音機網が設置されており、その受信装置と施設が保戸島に設置されたのです*2。
さらに昭和19年には保戸島監視哨も設置。豊後水道を侵入するB29を監視するためのものですが、その任務にあたったのは25才未満の女子挺身隊でした。こうして保戸島には海軍将兵が配備され、男も女も戦争へと巻き込まれて行ったのです。
    
漁具以外はすべて軍が支給することになっていたため、多くの船と船員が参加した。しかし今思うと、これは体の良い「輸送船団」だったのではないか?各漁船は中身を知らされないまま、大荷物を積んで南洋を目指した。これらの荷物は軍需物資だったのだろう。保戸島の漁師たちはアメリカ軍潜水艦がウヨウヨしている海域を、「南で漁ができる」と騙されて航行させられた可能性もあるのではないだろうか?ニューギニアに到着して荷を下ろした後は約束通り一応操業できたようだが、正直、軍部もその扱いには手を焼いたように思える。中にはそのままニューギニアで現地召集されて日本兵となった船員もいたらしい。86隻全てが失われ、戦後帰国した島民は生きて行くための手段を失ってしまった。
もともとこの地には江戸時代頃から船の往来を監視する施設が設けられていたらしい。
       
■03.1945年7月25日
その日は朝から空襲警報が鳴り響いていました。しかし特に被害もなく、やがて解除。島の子どもたちは一斉に保戸島国民学校へ向かいます。全校生徒は960人いましたが、教師不足のため、午前と午後の二部制で授業は行なわれていました。そのため午前8時30分の朝礼に出たのは半分の460人。校庭での朝礼が終わると、それぞれ自分の教室へと入って行きました*1。
午前9時、島の上空を1機のB29が北へ向かって飛び去ります。子どもたちと教師は息をひそめて爆音が遠ざかるのを確認し、ホッとして授業を再開。
そして運命の午前9時20分。B29と入れ替わるようにして島の北方から数機のグラマン*2がやって来ました。そして爆弾を投下。1発は海に、1発は山に落ちましたが、もう1発は海と山に挟まれるようにして建つ国民学校の校舎を直撃しました。爆弾は先ず2階の5年生教室に当たり、さらに床を貫通して1階の1年生教室で炸裂。5年生62人と教師高橋ミヨ子(23)、1年生63人と教師林シズ子(40)はほぼ即死でした。さらに当日、林は5才の長男を職場に連れて来ており、この子も1年生教室に一緒にいて即死したようです*3。
さらに木造校舎は倒壊し、多くの児童が重軽傷を負いました。一説にグラマンは爆撃後に戻って来て、執拗に校舎残骸目掛けて機銃掃射を加えたとのこと*4。
ようやくグラマンが飛び去ると、後に残されたのはまさに地獄絵でした。血の海の中には無数の肉片。そして死体の山。かろうじて生き残った子どもたちの甲高い悲鳴や泣き声が瓦礫の間から聞こえて来たことでしょう。
しかし男たちの多くは島を出ており、女と老人の手だけでは救出作業もはかどりません。結局すべての後片付けが終わり、遺体を回収したのは4日後になってから。わずかな手掛かりを探して遺体の確認作業が行なわれましたが、最終的に36人が子どもを見つけられなかったと言います。
       
二部制ではなく、全児童960名が朝礼に出たと記述する本もあり、詳細は不明。この時「虫の知らせ」なのか、朝礼後に親が子どもを家へ連れ帰ったケースも10組ほどあったらしい。
グラマンF6F「ヘルキャット」。日本海軍の零戦に対抗するために作られた、強力なパワーと強固な安全性とを兼ね備えた艦上戦闘機。戦闘爆撃機型F6F-5では機体中央下に454kg爆弾を2発、翼下に127mmロケット弾6発を積めた。12.7mm機銃を両翼に3丁ずつ装備し、それぞれ400発の銃弾が装填されていた。戦争末期、日本各地を攻撃し、日本人から憎しみを込めて「グラマン」と呼ばれたのがこのヘルキャット。「数機の」というのは、ハッキリしないためである。保戸島を攻撃したグラマンについては、1機から4機まで諸説ある。戦闘機が単独で飛行するとは思えないので、最低でも2機編隊ではなかったかとは思うのだが。
この時学校にいた唯一の男性教師は、これまた「虫の知らせ」なのか、授業中に生徒を連れて防空壕に避難したらしい。なぜそんな勝手なことが出来たのか?なぜ他のクラスの女性教師や子どもたちを差し置いて自分だけ逃げたのか?この男性教師については疑問を感じないでもないが、その結果、彼の担当する児童が爆撃を生き延びたのは事実。
しかしこの機銃掃射で死んだ児童教師はひとりもいない。5年生と1年生の教室以外に死者は出ていないのである。筆者は本当に機銃掃射があったかどうかも実は疑問だと思っている。目撃証言は確かに存在するのだが。
         
■04.保戸島空襲
以上が『保戸島空襲』の概要ですが、罪のない幼子を狙った卑劣な無差別爆撃を非難する声はネット上でも多く見受けられました。右翼・プチ右翼ではない私でも、なぜ国民学校を狙い、史上最悪とも言えるような規模で子どもたちを大量殺戮したのか、米軍に対しては強い憤りを感じます。
しかし私は、米軍に対してと同じか、あるいはそれ以上の怒りを日本軍=日本国にも感じるんですよ。当時保戸島には40名の海軍将兵が駐屯していました。遠見山基地には対空機銃も設置されていたと言います。なのに海軍は何もしてくれませんでした。おそらくグラマンに対して射撃を加えると、ここに基地があることが発覚してしまう。そう考えあえて何もしなかったのでしょう。
対空機銃1門で応戦したところで、どれほど効果があったかは疑問です。しかし海軍将兵は空襲後の遺体回収作業にさえ出て来なかったらしい。ある老人は「一番に駆け付けると思っていた海軍までが1人も来てくれない。あいつらは酒ばかり呑んで海軍じゃない!」と後に語っています。
島の男たちを遥か南方で利用し、女たちを監視員として利用しておきながら、その軍=国が島民のためにしてくれたことはほんのわずか。そもそも島に海軍が駐屯していなければ、子どもたちはこの日も無事に授業を終え、家路に付けたかも知れない。
日本の右翼・プチ右翼はそうした部分にはあえて触れず、「米軍の無差別爆撃」ばかりをことさらに非難するんですよ*1。しかしその日本軍=日本国もまた、昭和19年からは風船爆弾によるアメリカ爆撃を実行していました。風船爆弾が軍事施設や軍人だけを都合良く狙い撃ちできるはずもなく、これを「日本軍の無差別爆撃」と言うことも可能だと思うんですよ*2。
なのにどうして「米軍の無差別爆撃」だけを偉そうに非難できるのでしょう?もちろんあどけない子どもたちが大勢爆撃で死んだことは、同じ大分人として、到底許せないことです。でも私はアメリカを責める前に、あるいはそれと最低でも同時に、やはり日本の責任を問わねばならないと思うんですよ。決して日本無罪、アメリカ有罪といった話ではないと思う。
       
そもそも論で言えば、日本軍は既に中国大陸で「無差別爆撃」をやっているし、『真珠湾攻撃』でもアメリカ民間人が数十人単位で死んでいる。右翼・プチ右翼は「日本軍は軍事目標だけを厳選して攻撃した」と言い、日本軍に落ち度は全く無かったと決め込むが、現在のように誘導装置が備わった精密爆撃でも誤爆は起こりうるのである。ましてや当時の水平爆撃技術で正確に軍事目標だけを爆撃できるはずがないのだ。右翼・プチ右翼が言うように、日本軍は確かに軍事目標に限定して爆撃を行なったかも知れない。しかしそこには目標を外れたいくつかの爆弾で民間人に死傷者が出ても仕方がないことなのだという前提が確実にあったはずだ。そこを無視して日本軍を擁護するのはナンセンスである。
風船爆弾の風船を作る工場は全国にあったが、その中のひとつが大分市にもあった。昭和20年7月16日の夜間空襲で跡形もなく破壊されたらしい。
       
■05.誰が保戸島を空襲したのか?
誰が、何のために保戸島を空襲したのか?そこを知るために、当日の米軍の動きを少し調べてみました。
当時日本の南海上にはアメリカ第38機動部隊(TF38)がいて、所属する空母15隻からは連日のように艦載機が発艦。日本各地を攻撃していました。
細かい資料は手に入らなかったのですが、7月25日に保戸島を空襲したグラマンは、第38機動部隊第4任務群(TG38.4)のように思われます*1。当日朝、第4任務群空母5隻は紀伊半島南方海上にいました。ここから出発した攻撃機隊のうち、ヨークタウン隊は北九州を、インデペンデンス隊は呉を、それぞれ攻撃したと推定されます(他のシャングリラ、ボンノムリチャード、カウペンス隊がどこを攻撃したかは不明)*2。
発艦したグラマンがどれくらいのスピードで目的地を目指したのかは分かりませんが、おそらく陸上の対空砲陣地は避けて海上を飛行したでしょう。これは推定ですが、ヨークタウン隊は四国西の豊後水道を北上し、インデペンデンス隊は四国東の紀伊水道を北上したのではないでしょうか?だとすると25日早朝に保戸島で出された空襲警報は北九州へ向かうヨークタウン隊に対して出されたものである可能性が高いと思います。
しかし7月25日時点で、北九州にも呉にも目立つ攻撃目標はもうほとんど残されていませんでした。わずかばかりの小型船舶を撃沈させた他、目標を見つけられないグラマンは足を伸ばして獲物を探し回ります。ある機は日本海側へ出て島根沖で船舶を攻撃し、ある機は引き返して豊後水道で船舶を攻撃しました。
当日、第4任務群に所属する艦載機が、豊後水道で「第10福栄丸(847t)」を撃沈していることが判明しています。場所は保戸島南方*3。この艦載機がグラマンなのかどうかは分かりませんし、どの空母に所属する機なのかも分かりません。しかし北九州か呉を攻撃した部隊の一部が帰路豊後水道を通ったことだけは間違いない。だとすればこの中のいずれかの機体が保戸島に爆弾を投下したと考えて良いと思います。
当日の戦闘報告によると、インデペンデンス隊が「小型商船1」撃沈、「建造物」に損害を与えたとのこと。インデペンデンス隊は呉を担当していましたから、この「小型商船」も「建造物」も、やはり呉なのかなとは思います。しかしこれが「第10福栄丸」と「保戸島国民学校」である可能性も排除出来ません*4。
手に入る資料ではそこまでの追跡しか出来ませんでした。戦後60数年も経つと言うのに、今なお空襲の詳細が明らかにされていないという現実には驚かされます*5。『保戸島空襲』を忘れないためにも、一刻も早い詳細な調査が求められるところですね。
   
TF38にはTG38.1、TG38.3、TG38.4の3つの任務群があった。各種資料から、TG38.1は名古屋から大阪、TG38.3は紀伊水道周辺を担当して攻撃したと推定した。
ヨークタウン隊戦闘報告には攻撃実施地として北九州が記されているが、インデペンデンス隊のそれには北九州の地名は載っていない。25日に門司付近で「第10大里丸(124t)」を撃沈したのがヨークタウン隊だろう。
「第10福栄丸」の沈没地点を、『戦時艦船喪失史』は「愛媛県三野港外」としている。しかし愛媛県に三野港はない。愛媛県が正しければ三野ではないし、三野が正しければ香川県ということになろう。だが今回参照したHPには豊後水道とあったので、やはり愛媛県大分県の間の海峡で撃沈されたものと考えられる。
『日本の空襲7〜中国四国』によると、呉空襲は7月24日と28日とされ、25日の具体的な被害などは不明。呉を目指したインデペンデンス隊が獲物を発見出来ず、豊後水道などへ足を伸ばした可能性も否定出来ないのである。
今年の7月だったか、大分地元のローカルニュースで保戸島を空襲した部隊が所属する空母を特定したみたいな報道がなされたが、筆者は良く覚えていない。そのニュースを見て、今年の『大分と戦争』はこのネタで行こうと思い立ったのでした。
   
■06.おわりに
一度に小学生125人が死んだ。
日本各地で空襲被害が生じたとは言え、このような規模で子どもが死んだ悲惨なケースは他に見当たらないんじゃないか?と思います。
米軍の非人道性を非難するのは容易いですが、戦争とは一度始めてしまえば必ずエスカレートし、モラルなき殺し合いに発展することは最初から分かっていること。その証拠に日本だって風船爆弾を使ってアメリカ人を無差別に殺害しようしました。
ですから最初に戦争を始めた日本軍=日本国に対する憤りの方が私には強いですね。多くの国民を戦争へ引きずり込んで利用し、その挙げ句に軍は小さな島のわずかな民さえ守らず、見殺しにした。国のために尽した人々に対する、これがこの国の返答だったのです。
日本の右翼・プチ右翼は、軍があたかも民を守ってくれるかのように喧伝しますが、そんなのは幻想ですよ。軍が守るのは、守るに値すると軍が判断したものだけ。それを判断する権利は民にはありません。
保戸島空襲』は、その事実を明示してくれると思うんですよ。子どもたちの死を無駄にしないためにも、今を生きる私たちは同じ過ちを繰り返さないように努力せねばなりません。「兵隊さんに守ってもらえる」と信じ込んで裏切られるのではなく、そもそも「兵隊さんに守ってもらえる」ような状況を作り出さないように、各人が精一杯努力すること。
それこそが兵隊さんを含め、すべての日本国民をひとり残さず守るための唯一の方法なのです。
     
■参考文献
日本の空襲編集委員会『日本の空襲8/九州』三省堂
日本の空襲編集委員会『日本の空襲7/中国・四国』三省堂
公益推進機構出版部『第二次世界大戦艦船遺柱総覧』公益推進機構
池川信次郎『戦時艦船喪失史』元就出版社
石井勉『アメリカ海軍機動部隊』成山堂書店
ワールドフォトプレス『第二次大戦アメリカ戦闘機』光文社
大分の空襲を記録する会『大分の空襲』大分の空襲を記録する会
津久見史談会『津久見史談/第9号』津久見史談会
神戸輝夫『おおいたの戦争遺跡』大分県文化財保存協議会
 
TF38の行動については以下のHPを参照しました。
http://pacific.valka.cz/forces/tf38.htm#iceber
http://www.navweaps.com/index_oob/OOB_WWII_Pacific/OOB_WWII_Carrier-Raids_Home-Islands.htm
http://www.coara.or.jp/~gow/oita.html