沈まぬ太陽

   

  
いやあ、よくつくったねこの映画(笑)
正直面白かった。
というか、松雪泰子エロ杉!
渡辺謙鈴木京香が奥さんなら不条理にも耐えられるよねえ〜
とか、そういうことばっかり見とれていました。
やっぱ森花恵のスチュワーデス制服はサイコーですね
   

 
上の写真じゃわからないけど、膝上15cmなんだよ!
下の写真で比較してください。ひとりだけ脚まるだし(^_^)
いまじゃ考えられない。
  

  
ただ内容的には、勧善懲悪の単純ストーリーで、各登場人物がカリカチュアされすぎていて稚拙な印象を受ける。
前田有一さんも言っていたけど日航を喰い物にしたのは労組も同じなのにさ。
これじゃJALが気の毒ですよ。
ちなみに「左遷された正義漢が御巣鷹山で誠意をつくす」という肝心要のプロットが事実ではないことを知って思い切り萎えました(笑)
   

小説「沈まぬ太陽」余話(Ⅲ) (平成12年6月5日)
http://www.rondan.co.jp/html/ara/yowa3/
   
 山崎豊子氏の「沈まぬ太陽」がミリオンセラーとなり、大変な反響を呼んでいる。各新聞、雑誌の書評は「政官民の癒着構造を暴いた力作」といったものが多く、絶賛の嵐である。 長年運輸業界、とりわけ航空業界を担当してきた記者がこの本を読んだ第一印象は「こうして史実が曲げられていくのか。誠に恐ろしい」ということであった。
  
この小説には筋書きを面白くするため、あまりにも事実とはかけ離れた“再構築”がなされており、ペンの暴力の典型と言っても過言ではない。 以下、どこの部分が事実を曲げているかを検証したい。
  
この小説の舞台になったのは日本航空であることは一般読者にも一目瞭然である。 また、主人公が小倉寛太郎氏であることは関係者が一様に特定する。 作者は巻末のあとがきで「事実を取材して小説的に再構築した人間ドラマであるが、ニュース、ドキュメント、公文書、内部資料などを駆使し、それが小説の重要な核心部分にもなっている。 作家四十年にして、はじめて手がけた技法ではあるが、その評価は第三者に委ねる」と書いており、新しいジャンルを自ら開拓したことを告白している。
 
限りなくノンフィクションに近いフィクションという技法を用いながら、史実を捻じ曲げていく手法は文学論的にも新たな問題を提起するものである。 その論争がなければわが国の文学は衰退していくであろう。 この種の作品では「何よりも史実を基本に」という姿勢が必要である。
  
特に今回の小説は御巣鷹山の事故が小説の基本構成をなしている。 御巣鷹山事故と言えば舞台は日本航空と国民のだれしもが思い、そこに登場する人物は当然実在の人物だとだれしもが確信し、勝手に空想をめぐらす。 そんな場面設定の中で、基本的な部分で事実とかけ離れた創作を行えばどういう結果をもたらすか。
  
主人公やそれを支える人物たちは実際以上に高く評価され、これに対立する人物たちは生涯挽回する余地のない汚名を着せられてしまう。 それを容認したら、「ストーリーが面白ければ、企業や関係者の名誉は毀損されてもいい」という風潮が醸成されかねない。 そうなれば、文学の危機である。
  
著者は「新しい技法の評価は第三者に委ねたい」と言い切っている。 となればこの手法に論争が湧き起こるべきではないか。 記者には「不毛地帯」「白い巨塔」「大地の子」などで名声を確立した著者の晩年を汚すことは間違いないとの確信がある。 この小説を読んで感動した人には気の毒ではあるが、著者が主人公、小倉氏や伊藤淳二氏を美化するためにいわれなき中傷を浴びせられ、犠牲になった登場人物と企業の名誉を回復する方がより重要だと記者は考える。
  
 「恩地元(小倉寛太郎)という主人公は一体どういう人物なのか」まず、主人公小倉氏とはどういう人物か。 本当に筋を通すために「企業という“猛獣”に不屈の戦いを挑んできた悲劇のヒーローなのか」を考えたい。
  
小説によると恩地(小倉)氏は28年に東都大学(東大)を卒業、直ちに国民航空(日本航空)へ入社したことになっている。 しかも、「学生時代学生運動をしてきたので入社後10年間は組合活動には参加せず、仕事に専念したい」と思い、予算室で熱心に仕事に邁進していたが、八馬なる組合の委員長に無断で組合委員長に立候補させられ、委員長を引き受けざるを得なかった」という事になっている。 小倉氏の記述には嘘、偽りが多いが、まず、学生時代から入社時、組合の委員長に就任するまでを検証したい。
  
小倉氏は昭和28年に東大を卒業したのは事実である。 しかし、日航の人事ファイルによると、32年10月1日付けで日航に入社している。 卒業後4年半彼の経歴は空白だ。実は彼は東大卒業と同時にAIUに入社し、同社の組合の青年婦人部長として、華々しく活躍した経歴をもつ。
   
この頃、三越でストに突入する大争議があった。 現在の夫人は三越の青年婦人部幹部の活動家で、二人はこの争議で結ばれた。 二人とも筋金入りの活動家であったわけだ。 ちなみに小倉氏が大学在学中は破壊活動防止法破防法)が制定された頃であり、彼は共産党の細胞としてオルグ活動に専念していた。
  
当時、ポポロ事件という公安事件があり、彼はそれに連座していた。 ポポロ事件とは公安の刑事が大学構内に潜入し、情報を収集していたのを学生が見つけてつるし上げ、警察手帳を奪った事件である。
  
当時、損保業界も組合との争議に明け暮れていたが、会社側の強い姿勢に争議も沈静化し、小倉氏は見切りを付け、採用を公募していた日航に入社したわけである。 小倉氏と同時に入社した竜崎孝昌氏によると、二人は日航の入社試験会場で「お互い学生時代、損保会社時代の組合活動歴はマル秘にしておこう」と示し合わせた。
  
竜崎氏は一橋大学から東京海上火災に入社、同社組合の青年婦人部長を勤めており、小倉氏とは知己の間柄であった。 こういう経歴と事実関係から小倉氏がどういう目的で日航に入社したかは想像できる。 小説では小倉氏は予算室で仕事に邁進していたことになっている。 しかし、入社直後、彼が所属したのは東京支店の営業である。 さらに彼は入社3年後には組合の中央執行委員になり、組織部長の要職を得ている。
   
当時、小倉氏の下で組織副部長を勤めた塩月光男氏(現東京シティ・エアカーゴ・ターミナル顧問)は当時を振り返って次のように証言する。 「小倉氏は弁舌がたけ、毎日が政治学習だった。 当時、我々は専従ではなく、昼間の仕事の疲れを引きずりながら組合活動をしていたが、小倉氏の提起する、朝鮮戦争についてとか、破防法についてとか、そういう政治的テーマについては辟易した。
   
それを毎日徹夜同然にやるのだから本当に疲れた。 当時委員長だった萩原雄二郎氏は東大の学生時代、活動家であったこともあり、心情的に小倉氏の活動を容認していた。  それが小倉氏を増長させた」。 この萩原氏こそ小説の中の秋月という人物で、小倉氏を追いつめた人物の一人となっている。
   
小説では小倉氏は自分が知らない間に八馬委員長に次期委員長に立候補させられ、組合活動に入っていったことになっている。 だが、関係者の証言によるとかなり、事情は違う。まずは、小倉氏を無断で委員長にしたという八馬なる人物に登場してもらおう。小倉氏の前任者は吉高諄氏(空港グランドサービス顧問)である。 その後労務課長になった経歴から言ってもモデルは吉高氏に間違いない。
   
吉高氏によると、後任は中町という人物に決めていた。 中町氏もいったんは内諾したものの、立候補締め切り直前になって、断ってきた。 困った吉高氏は数人の組合幹部と相談したところ、一人が「東京支店に小倉という活きのいいのがいる。 彼なら委員長が勤まる」という。
   
そこで小倉氏と会い、「実は後任の人選で困っている。引き受けてくれないだろうか」と談判した。 小倉氏は「実は近いうちに私は予算室に異動になる。異動になれば引き受けるが、だめだったら引き受けられない。 ここに私の印鑑がある。 後は吉高さんに御任せしますよ。 今日は子どもの具合が良くないので失礼します」と印鑑を預けて帰宅した。
   
吉高氏は予算室長の平田元氏と会い、「後任委員長の人選で困っている。 今小倉と会ってきたのだが、予算室に異動になれば引き受ける。 だめだったら辞退すると言っていた。どうなっているのですか」と尋ねたところ、平田室長は「まだ正式に決まったわけではないが、君は本当に困っているようだね。 分かった。 小倉君をうちに引き取ろう」と小倉氏の予算室異動が本決まりになり、吉高氏は預かった印鑑で小倉氏立候補の手続きをとったという。
  
吉高氏は「後になって思ったが、小倉は委員長立候補で予算室入りを担保したのでは。 予算室は現在の経営企画室で企業秘密がたくさんある所だから」と述懐する。 委員長になった小倉氏はストを背景にした過激な闘争で組合を指導していく。 当時、安保氏が労務課長だったが、組合の過激な闘争に胃潰瘍で倒れた。
  
当時の松男静鷹社長は委員長を辞めて四ヵ月の吉高氏を東京会館に呼びだし、「君は大変な人物を後任委員長に推薦してくれたな。 おかげで会社はてんてこ舞いだ。 君が責任をとって、安保君の代わりに労務課長になって小倉の暴走を止めてくれ」と詰め寄られた。吉高氏は「勘弁してくださいよ」と言いながらも、責任の一端は自分にあるのと自責の念から労務課長の内示を受けざるを得なかったと打ち明ける。
  
会社側にスト通告をしないヤマネコストが頻発する中、小倉氏の過激な闘争の中で会社が最も危機感を抱いたのは池田勇人首相の訪欧と皇太子のフィリピン訪問のフライトをターゲットに絞った37年11月のストであった。
   
60年安保、三井三池争議を経た当時の日本は高度経済成長の波に乗ろうとした時期で、その立役者が池田首相であった。 池田首相の訪欧は根底に日本がOECD(先進国経済開発機構)の仲間入りしたいという日本政府の悲願があり、池田首相は日本の工業技術の水準の高さをPRするためにトランジスターラジオを持参した。 欧州各国マスコミは池田首相を「トランジスターセールスマン」と揶揄した。 それだけ必死だったわけである。
   
昭和37、38年といえば、日本はまだ戦後の傷痕を引きずっていた。 特に戦争中、占領下に置いた東南アジア諸国との関係改善は急務であった。 反日感情が強い東南アジア諸国にあって、フィリピンはまだ対日感情がよい方であった。 政府はまずフィリピンに皇太子を訪問させ、東南アジア諸国との関係改善を図ろうとの外交政策が基本にあった。
  
その日本政府の外交の基本政策に小倉執行部はストをかけてきたのである。 当時の日本航空は大蔵省が筆頭株主の国策会社であり、代表権を持つ役員の人事権は運輸省にあった。戦後日本の制空権は米軍に奪われ、日本人による健全な航空会社育成との願いから昭和27年10月1日に設立されたのが日本航空である。 当然国際線は日航一社しか運航してなかった。
  
その日航が日本の外交の基本に関する首相フライト、皇室フライトをストで止めたとしたら、単に日航の存立基盤が問われるだけでなく外交問題にまで発展する。 当然、経営者の責任が問われるのは言を待たない。 政府からの圧力もあり、松尾社長は団交の席上で小倉委員長以下執行部に「外交問題に発展しかねない。 どうかストを解除してくれ」と土下座をしたという。 このような闘争に対して会社は譲歩に譲歩を重ねるしかない。
   
小倉委員長のいわば闘争至上主義に対して、組合内部から賛否両論が噴出した。 「小倉委員長は我々の要求を満たしてくれる。 よくやってくれている」という賞賛の声と、「国策会社である日航が総理フライト、皇室フライトを人質にとって闘争するのは禁じ手である。 その禁じ手を使った、小倉委員長は会社をつぶすつもりか」といった批判である。
   
日航は37、38年に大幅な赤字を出していたこともあり、批判勢力は日に日に強まり、とうとう組合分裂という事態にまで発展したのだ。 この日航の荒れた労使関係に政府のみならず経済界も無関心でいられなかった。 日経連は「日航には労務のプロがいない」ということで、伍堂照夫専務理事を日航に派遣した。 伍堂氏は強硬な組合分裂工作を進め、時には暴力団まがいの労務屋を使い、ピケを排除したりした。 このことが日航の労使関係を一層いびつなものにしたことは間違いない。
   
ここで重要なのは小倉委員長の過激な闘争の功罪である。 小倉委員長は総理フライト、皇室フライトへのストを要求貫徹の重要な戦術として選んだ。 当時国策会社であった日航が労組へ譲歩に譲歩を重ね、小倉執行部が賃金と厚生施設や生活条件の引き上げに大きな成果を上げたことは事実である。 そういう意味では「輝ける委員長」であった。
   
しかし、そうした一種の政治闘争がどういう結果をもたらすかについての見通しが全くなかったのだろうか。 ストに突入するまでもなく、ストを構えているということだけで、政府からの経営者への責任問題が浮上し、経済界も黙認できない事態を招くということを想像できなかったのか。 また、組合内部の分裂を招くという組織にとって致命的な結果が見通せなかったのか。
   
現実把握能力や分析力が致命的に欠け、指導者としての資質を疑わざるを得ない。 他にも闘争の戦術があったはずであり、それでも信念で総理・皇室フライトにストを構えるというのであれば小倉氏はアカのレッテルを貼られても仕方がないであろう。 第一、皇室・総理フライトめがけてストを構え、それで要求を貫徹するという発想自体、プロの活動家からしか生まれてこない。
   
実は吉高氏が重要なことを告白してくれた。 吉高氏は山崎豊子氏の取材を約3時間受けた。 海軍上がりの吉高氏は山崎氏の父が海軍の潜水艦乗りで戦死したことに強い興味を持っていたという。 しかも、吉高氏は戦後、引揚者の御世話をするボランテアをやっており、山崎氏の「大地の子」にいたく感激していた。 取材には日航広報部の須藤元次長(現パリ支店長)と新潮社の編集者が同席していた。
   
この席で山崎氏は小倉委員長時代の組合内部について質問したが、どうも、一方的に小倉氏に吹き込まれていることに気付き、「それは事実ではありません。 事実はこうです」と何度も説明したという。 最後に山崎氏は「小倉さんてどういう人ですか」と聞いたので、吉高氏は「連合赤軍永田洋子を男にしたような人物です」と答えた。 山崎氏が「それはどういうことですか」と聞くと、「頭は切れて人を取り込むのはうまいが、目的のためには手段を選ばず、冷酷非常な人物です」ときっぱり答えた。 その時、吉高氏は一つのエピソードを紹介した。
   
松尾社長の長女は長らく白血病で入院していた。 団交中「社長の御長女危篤」の知らせが入ったので、労務課長だった吉高氏は小倉執行部で書記長を勤めていた相馬朝生氏に事情を説明し、団交を先延ばしするように要請した。 相馬氏は「わかりました。 中執に持ち帰り、検討しましょう」と中執にかけたが、小倉委員長は「相手の弱みに付け込んで要求を獲得するのが組合の闘争。 こういう時がチャンスだ」と団交継続を指示した。
   
中央執行委員の中には「委員長、こんな残酷な団交には出席できません」と言って泣きながら訴えるものもいたという。 結局、松尾社長は長女の死に目には会えなかった。 このエピソードを聞いた時、山崎氏は「どうしよう。 これじゃ、小説が成り立たない。 もう辞めましょう」と動揺を隠せなかったという。 吉高氏は「これで理解してくれた」と思っていたら、小説が自分が思っていたことと百八十度異なる展開になっており、呆れ果て、「彼女の小説家としての良心を疑う」とまで言っている。
    
小説では、委員長を辞めた後、恩地氏はカラチ転勤の辞令を受ける。 組合は不当配転のビラを配って抗議し、恩地氏はいったんは会社を辞めようかとまで苦悩するが、「自分を辞めさせるという会社の陰謀に乗らないためにカラチ行きをしぶしぶ承諾する」という展開になっている。 その時に恩地氏は桧山(松尾)社長に「二年間の赴任の約束を取り付けた」ということになっている。
  
その後恩地氏はテヘラン、ナイロビを盥回しとなり、“現代の流刑の徒”として描かれていく。 恩地氏は日本へ帰国するたびに二年間の約束を守らなかった桧山(松尾)社長に約束を履行するように迫り、桧山氏が死に至る病の病床では「面会謝絶」「絶対安静」という状況の中、病室から出てきた奥さんが恩地氏を病室に引き入れ、桧山氏は「恩地君すまんすまん」と両手を握って誤るシーンにつながっていく。
   
その間、八馬労務部次長がカラチ、テヘランなどに恩地氏を訪ねて、「転向すれば本社に帰す」と転向を迫るが、恩地氏は頑としてこれを拒絶する。 このあたりも検証が必要のようだ。 次は松尾氏が社長、会長時代秘書を務めた川野光斉氏(現アジア航空顧問)にご登場願うしかない。 
   
川野氏によると、佐賀県出身の松尾(桧山)氏は「葉隠れ武士道の人だった」という。 小倉氏が委員長を辞めた後、社内の役員の大半は「小倉を解雇すべし」という意見だった。それに温情をかけたのが松尾氏だった。 松尾氏は「一芸に秀でるものはどこか取り柄があるものだ。 小倉君にもう一回チャンスを与えよう。外国にでも赴任させて、見聞を広めれば彼の人生も変わるだろう」と提案、小倉氏のカラチ赴任が決まった。
  
不当配転のビラを配っていた小倉氏を社長室に呼び、「君は大変なことをやったんだ。 外地で見聞を広め、これまでの人生を見詰め直し、今後の人生を考えてこい」と諄々と諭し、小倉氏も納得したという。 一社員に対しては異例とも言える社長主催の送別会までやり、小倉氏が赴任する時は、羽田空港まで見送りに行ったという。 松尾氏がテヘラン出張の折りには、小倉氏を会食に誘い、近況などを聞いて、激励してくれたという。
  
小説にある「恩地氏は日本へ帰国の折は桧山氏と会い、二年の約束を履行するよう迫った」とのくだりについて、川野氏は「松尾さんのスケジュールはすべて私が握っていた。  夜の席にも同席することが多かったが、小倉君が松尾さんにあったという事実はまったくない」と断言する。
   
また死の病床で奥さんの手招きで恩地氏は桧山氏と会い、「すまん、すまん」といわれたとする部分について、川野氏は「松尾さんが亡くなったのは会長に退いて間もない昭和47年12月31日の大晦日だが、病名は胆嚢機能不全。 松尾さんは胆石持ちだったが、知り合いの指圧師に指圧で胆石をばらす治療を受けていた。 それが、肝臓と癒着し、死に至った。 三ヶ月間入院し、面会謝絶で、見舞い客は私が応対していた。 
   
ちょうどその頃、日航ニューデリー、モスクワと連続事故を起こしたが、医師の厳命でそのことすら知らせなかった。 もちろん、テレビ、ラジオ、新聞は絶対に目に触れさせないようにしていた。 小説ではたまたま、秘書がいない間に奥さんが小倉君を病室に招き入れたことになっているが、仮に、私がいない隙に小倉君が病室に訪れたとしても、奥さんがそんな軽率な行動に出るはずがない」とキッパリ語る。 さらに川野氏は「小倉君は松尾さんの温情をあだで返した」と激怒する。
    
小説の中の八馬(吉高)氏がカラチ、テヘランに赴いて恩地氏に転向を迫るくだりについて、吉高氏は「私は40年から44年まではパリ支店勤務となり、労務の仕事から解放され、営業に精を出していた。 その私がカラチ、テヘランまで出かけて転向を条件に本社への人事異動を約束するなど全くの越権行為であり、まず、第一に小倉氏が転向するなど考えたこともなかった」とキッパリ否定する。
   
五巻の小説の中で一般読者が最も涙を流し、感動するのは三巻の「御巣鷹山編」である。昭和60年8月12日の航空機史上、最も最悪な日航ジャンボ機事故は国民の間にも記憶が生々しく、そこに綴られる被害者の人生ドラマと被害者を必死で御世話した御被災者相談室の社員の努力はどんな人の胸をも打つ。
   
あの小説の中で致命的な嘘がなければ、私は「最高の傑作」と賞賛したいのだが、ある嘘のため、三巻はある意味では被災者のみならず、献身的に尽くした御被災者の世話役を冒涜する作品になってしまった。
     
小説では主人公、恩地氏は事故当初から先遣隊として御巣鷹山に乗り込み、献身的に御被災者の面倒を見たことになっている。 ところが、日航の人事記録によると、小倉氏が先遣隊で御巣鷹山に乗り込むどころか、御被災者相談室に勤務したこともなければ、一日、二日でも被災者の面倒をみたことはまったくないのである。
日航の人事記録によると、カラチ、テヘラン、ナイロビ勤務の後、昭和48年7月1日付けで、営業本部長付き調査役として、本社に転勤になっている。 そして事故直後の60年9月1日付けで、再びナイロビ営業支店長の辞令が発令されている。 事故直後の混乱期の人事発令も不思議なものだが、「小倉氏はナイロビがすっかり気に入り、ことあるごとにナイロビへ行かせてくれとの希望を出していた。 小倉氏のナイロビ転勤は事故以前に決まっていたことでもあり、発令した」というのが当時の人事担当者の証言である。
(以下略)