東京裁判、対象期間の謎(?_?)

               
さてクイズです。
     
東京裁判は日本の侵略戦争を裁いたことになっていますが、その対象期間はいつからいつまででしょうか?
       
答えは1928年1月1日〜1945年9月2日です。
    
後者はミズーリ号での降伏文書調印の日だけど、1928年1月1日ってなんだ?・・・というと要するに日本が戦争計画を発動した頃ということらしい。同年6月4日に張作霖爆殺がある。それが陰謀(世界征服?)のはじまり。その準備段階を含める意味で1月1日と仮決めしたと。
     
東京裁判のミスは日本をナチに擬えたことだよな。そんな明確なドクトリンも一致団結した指導部も大それた戦略目標もなかった。あったのは日和見主義や機会便乗主義や省庁の縄張り争い、ついでに裏切り者。。。しかもその前提に念頭にあるのが田中メモランダムかと。張作霖って実は児玉源太郎に救われた匪賊なんだね。そのメッセンジャー田中義一。最初反辛亥革命なのにいつの間にか袁世凱の部下になりあがったと。だから田中としては20年来知った仲だし命の恩人なんだよな。だから張作霖有効利用派だった田中が暗殺に賛成するわけがない。
                     
さらに因縁深いのはその8年後、日中戦争の前年に西安事件がおきて蒋介石は日中開戦を決意している。青二才の張学良は周恩来のコントロール下で、その周恩来スターリンの遠隔操作。ならば盧溝橋事件の主犯はあきらかだよなあ。。
      

中国で一般に信じられている所では、田中メモリアルは昭和2(1927)年7月、昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮内庁の書庫深く納められていたが、翌3年6月、台湾人で満洲との間で貿易業をやっていた蔡智堪(さいちかん)という男が宮内省書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国語訳文にし、昭和4年12月に公表したものだとされている。
(略)
さらに、日本政府が田中メモランダムの存在を知ったのは昭和4年9月であり、上記の最後の2点と合わて、偽作の執筆時期を昭和4年6月から8月に絞りこんでいる。

この文書が偽造されたルートは諸説あるが、秦氏はこの時期に張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家鋤キ(おうかてい)が「10数回に分けて届いた」「機密文書」を中国語に訳させた上で「整合性を持った文章」に直して印刷した、という手記を残している事から、彼が偽造者だろうと推定している。
   
■4.「世界征服」の「共同謀議」■
       
昭和21年5月3日に始まった東京裁判の冒頭陳述において、キーナン検事は日本が「世界征服」を狙ったという起訴理由を持ち出して、日本側を驚かせた。曰く、

1927年、日本政府は中華民国に対して、積極政策を樹立し、1928年4月、中華民国に軍隊を派遣した。・・・起訴状は、被告等が東アジア、太平洋、印度洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的を以て宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したことを明らかにする。

日本人弁護人の中心となった清瀬一郎は、「アメリカ軍のやる裁判だから、起訴状の中心は、真珠湾攻撃にはじまる、日米開戦の共同謀議と太平洋戦争に関することだと思っていた」所に、1941年の日米開戦から遡ること、14、5年も前の1927,8年から始めるとは、と大いに驚かされた。(略)清瀬は、アメリカの言う「1927」年からの「世界侵略の共同謀議」説が、同年に天皇に奏上されたという田中メモリアルに基づいているのではないか、と気がついた。ナチス・ドイツヒットラーの「わが闘争」をバイブルにして世界征服に乗り出したように、日本も田中メモリアルに基づいて世界侵略を企んだ・・・これがアメリカが東京裁判で証明しようとした筋書きだった。
    
URL:http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog229.html

1936年10月、国民政府主席蒋介石は、紅軍(共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。
(略)
国民政府は、当初、張学良を討伐するために西安に対し爆撃を開始し、事態は緊迫したものとなった。しかし、12月7日に共産党周恩来、秦邦憲、葉剣英西安に入り、国民政府側の蒋介石宋子文宋美齢との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放され、国共対立は収拾された。翌1937年に日中戦争が勃発した後に第二次国共合作が成立するが、このことは西安事件を土台としたものであった。
          
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6