南京事件を批判したナチスという意外性?

     
ときどきサヨクのヒトが「同盟国のドイツでさえ諫めた南京大虐殺」とかいうのを聞くと、彼らは歴史経緯をわかっていないのではないかと感じるときがある。
もともと日独は敵国同士だったし、ドイツの極東パートナーは中国だった。
          
ドイツは三国干渉(1895)から第一次世界大戦(1914〜1918)まで一貫して反日である。これは日本が英国の属国として出発したのだから当然ともいえる。また、欧州に於ける反日主義である黄禍論はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に始まりこれがソ連反日主義、国連の人種差別反対条項否決(1919)につながっていった。ヒトラーが政権を獲得し(1933)反日より反ボリシェビキに転じてゆき日独反コミンテルン協定(1936)が成立し初めて日本と接近するが、日本との関係はほとんど変わらず、ドイツのアジアパートナーは依然として蒋介石であった。上海事変南京事件はそのさなかにおこっているが、ドイツは日本と蒋介石との対立を望まず、事件に前後してトラウトマン和平工作を行っている。
その後日独とも反コミンテルン協定にもかかわらずソ連と不可侵条約を結んでいるし(1939/1941)、三国軍事同盟は第二次世界大戦がはじまった以降の1940年に結ばれたが、対ソ抜きのため対英米限定の同盟となり、これを日本海軍左派三羽烏は認めなかった。結局日独の連携はほとんど機能しなかったといっていい。それがドイツ敗戦の遠因にもなった。(対米開戦、アフリカ戦線、ソ連独ソ戦集中)
     
ところで日中戦争を拡大させた張本人は米内光政である。彼が第二次上海事変を起こし南京攻略に誘導しトラウトマン工作を妨害し近衛声明を出させた。米内こそがA級戦犯である。なんだか英米と組んで反薩長の敗戦革命をもくろんだという説にも誘惑を感じてしまうのである。
     

8.3.1 ドイツ国防軍の中国接近
      
・1933年5月から7月にかけてゼークト(ワイマール期ドイツ陸軍総司令官、独ソ秘密軍事協力関係を形成した総責任者)が、蒋介石の求めに応じて訪中。
・1934年4月から一年間、再度中国を訪問する。1927年から中国で非公式に活動していたドイツ人の集団、この軍事顧問団を再編成する。
・1936年4月、独中借款条約を締結。
日中戦争の勃発。国民政府軍は、ドイツのプラント工場でつくられた武器を使い、ダイムラー・ベンツのトラックで輸送し、ドイツの軍事顧問団に軍事指導を支援される。軍需物資を香港経由で国民政府側に送る。→松本重治。日中戦争は、一面、日独戦争である」。
1937年8月16日 ヒトラーは、ブロムベルク国防大臣およびノイラート外務大臣と協議し「基本的には日本との協力関係、つまり防共協定での協力を支持する。しかし、中国向け武器輸出は、中国が外国為替ないし原料で支払い、しかもうまくカモフラージュできる限り継続する」
     
URL:http://www4.ocn.ne.jp/~aninoji/lecture.2004.12.7.html

ラパッロ条約 (1922年)
     
ラパロ条約(ドイツ語:Vertrag von Rapallo, ロシア語:Рапалльский договор)とは、1922年にドイツとソヴィエト・ロシアとの間で成立した条約。ラパッロ条約とも表記される。
      
1922年4月よりジェノヴァで開催されていたジェノバ会議が成立の契機となった。この会議ではソヴィエト・ロシアの代表も招かれたが、帝政時代の債務(シベリア鉄道の建設など)返還をめぐってフランス代表と意見が衝突し、この会議を通じた国際的承認も得られることはなかった。
     
この会談の際、ともにヴェルサイユ体制から除外されていたドイツとソヴィエト・ロシアが秘密交渉を行い、4月16日にラパロ条約が成立した。これより、両国は軍事面などで連携を深め、ソ連赤軍の訓練をドイツで行い、ドイツは航空訓練(ヴェルサイユ条約で一切の空軍を持つことをドイツは禁止されている)や、毒ガス実験の場をソ連から提供された。この両国の連携は、1933年にヒトラー政権が成立するまで続いた。
     
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%AD%E6%9D%A1%E7%B4%84_%281922%E5%B9%B4%29

===== ドイツの対支政策と日独関係 =====
                       
大陸での権益拡大をめざしていたドイツは、日本だけでなく支那とも友好関係にあり、支那事変勃発後も友好を維持しようとする支援行動は我が事変遂行を妨害するものである、としてしばしば日本から抗議を招いていた。
日本のドイツへの抗議はまず有力な軍事顧問団の存在にあった。昭和3年以来支那に駐在し、共産軍の討伐に関して助言を与えていた顧問団は、事変発生当時、フォン・ファルケンハウゼン将軍を長とする20数名の元将校と10数名の民間人から構成され、支那政府に雇用されていた。上海周辺のクリーク戦で日本軍が苦境に陥ると、ドイツ顧問団が陣地構築を指導し実戦の指揮にあたったのではないか、との疑惑と批判が高まった。 さらに日本が抗議したのは、ドイツの武器輸出であった。昭和11年4月 独支両国はハプロ条約を締結、ドイツは支那に武器を供与するかわりにタングステンなどのレアメタルを輸入することになった。また1億マルクにものぼる借款協定も成立、いずれもドイツ陸軍主導によるもので、昭和12年(1937)のドイツ武器輸出総額の37%が支那向けであった。 事変勃発直後から日本はドイツの対支武器輸出に厳重抗議し、防共協定に反すると批判していた。
            
こうしたドイツの態度が一変するのは昭和13年(1938)の政変によってヒトラーが軍部を掌握し外相にリッペントロープを起用してからである。ナチス党主導の日独提携強化路線に対して親支的な陸軍の抵抗は弱まり、昭和13年5月に対支武器輸出禁止は全面的に実施され、7月には軍事顧問団は帰国するに至ったのである。
               
URL:http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-sina2.html

米内は、間もなくやってきた定期人事異動で、軍務局長に井上成美を選んだ。ここに米内、山本に井上が加わり「北国トリオ」がそろった。米内は盛岡出身、山本が長岡出身、井上が仙台出身だからである。同時にそれは明治戊辰の際の東軍、いわゆる賊軍の藩出身ということでもあった。米内が五十七歳、山本五十二歳、井上四十八歳だった。
井上は海軍少将に進んでいた。そこで「北国トリオ」はそろって日独伊三国同盟締結に反対したのである。
               
URL:http://sendainiko.com/hyaku002.html