「神道の起源は道教」というテーゼについて

 
僕は副島隆彦氏の歴史認識を大枠で支持している。しかし詳細については引っ掛かりのある事が多い。表題のテーゼもそのひとつだ。
神道の起源は道教」というのは(1)道教という教祖教典を備えた宗教がある。(2)神道は「宗教としての道教」から作られた。ということを意味しているようだ。僕はこのテーゼに反対である。
僕の理解では、
東アジア全体にタオ的な感受性が広がっていた。その一部が道教として経典化した。別の流れに神道がある。ただし神道が経典化する課程で道教や仏教を参照した。
となる。
神道はそもそも「神道的な感受性」がすべてであって「経典宗教としての神道」は後付である。「経典宗教としての神道」を作る過程で「経典宗教としての道教」を利用したのは大いにあり得る。だがそれをもって「道教」から「神道」が発生したということにはならない。
この混乱の原因は道教という言葉の多義性にあると思う。道教と呼んでいるものは「道教的な感受性」と「教典宗教としての道教」に分けて考えるべきだ。後者の歴史はそれほど古いものではない。副島氏は道教はBC5Cに老子という人物が始めたと言うが、道教的な思想自体は数千年の昔から存在しただろう。そのプレ「道教」的な分厚い蓄積の中に狭義の道教が誕生したのだろう。
そもそも老子という教祖は後の宗教化時代に想定された想像上の開祖に過ぎないと思う。実際には多くの民間思想家の口伝や文章化の試みだけがあったのだろう。老子というのはそれら無名の思想家の集合像であり、仏教に対抗して仮構された人物だろう。