卡子

〓子(チャーズ)―出口なき大地

〓子(チャーズ)―出口なき大地

   
すごい本だ。
何気なく読み始めて朝の3時までかけて一揆読みしてしまった。
とてつもない深淵を覗いてしまった実感があった。
   
これは創作ではない。
あまりにつらい実体験を著者が30年後に思い出してゆく経過と思い出された地獄の真相が並行して語られるドキュメンタリーだ。
1948年、中共国府軍によって新京市民30万人が餓死させられた!!!
まさにこれこそ証明付きの大虐殺だ。正真正銘のアトロシティだ。
かっての満洲国首都。美しい近代都市であった新京は飢餓の地獄へ墜とされた。
   
卡子とは封鎖線にもうけられたgateのことだ。
当時新京市は中共の封鎖線と国府軍の防衛戦の2重の鉄条網で囲まれた状態だった。
国府軍は飢餓状態の市内から市民を脱出させる。
ただし国府軍側の門を出たら二度と戻れないという条件付きで。
一方共産軍は国府軍が降伏するまで自陣の門を開けない。
するとどうなるか、鉄条網で囲まれた中間地帯に膨大な難民が閉じ込められ、そして餓死していった。
狭い中間地帯はたちまち死体が山となり、飢えた難民は後から来る難民の食料を強奪し死体を貪り発狂して死んでいった。
スターリングラード封鎖戦ですらここまで凄惨ではなかったろうという生き地獄だ。
筆者はたまたま父が有為の人材だったため戦後も満州に留め置かれこの地獄を経験することになった。
おそらく50万に達したろう人口のうちのわずか300名の日本人のひとりだった。
8歳の少女だった。
そして、そのために、この地獄の日本人の生き証人となった。
内戦中の中国で数限りなく起こっていたであろう残虐を直接目撃した例外的な日本人だ。
   
この事実はもっともっと知られなければならない。
   



  
チャーズ
中国革命戦をくぐり抜けた日本人少女
遠藤 誉著
1990年(株)文藝春秋 刊
http://www.geocities.jp/limbpain/kanso/kanso6.html
   
著者の自伝的体験記である本書は、同時に特異な生き方と社会的業績を残した彼女の父、大久保宅次氏の興味深い半生記であり、さらにまた日本帝国軍の敗走によって本格化する中国内戦、中華人民共和国の成立に至る現代史のうちで、ある伏せられた惨劇の事実を伝える貴重な歴史的資料となるドキュメントでもある。
当時七才の少女であった著者は(私は本書を手にするまで遠藤氏が女性であるとは気づかなかった。お名前の「誉」という漢字のイメージからきたものだが、その「ほまれ」さんという名前と共に彼女は永久に私の心の中に住み続ける女性の一人となるだろう。)、その惨劇に巻き込まれながら辛くも生き延びた代償に、その後三十年近くも重い心的傷害に苦しむことになった。真の自己の回復のためにその症状と真正面から向き合い、意識下に封じ込められていた恐怖の体験の記憶を一つひとつ蘇らせようとする著者の勇気と意志には、幸いにして本人の並はずれた知力と記憶力という援軍がついていた。それでもなお、これ以上思い出したくない、書き継ぎたくないという気持ちとのせめぎ合いは最後まで続く。本書の執筆が結果的に一種の精神分析療法的行為ともなったと著者自身書いている。
「チャーズ」とは「旧満州国」の首都・「新京特別市」(現・中華人民共和国 吉林省 長春市)郊外の、とある地域を指す。元来は「検問所」といった意味の言葉で、当時「新京」を掌握していた国民党軍(蒋介石軍)が市周辺に数カ所設置していたもののようである。八路軍(新中国解放軍)の「新京」包囲の長期化に伴い、最終的にこの「検問所」は一箇所となった。1947年来、八路軍はその包囲をじりじりと狭めながら一年近く「新京」封鎖を続けていた。電力も切断され、深刻な食糧難に陥った飢餓都市「新京」から市民は徐々に難民となって脱出をはかった。向かう先は「検問所」である。だが、その出口は即「解放区」の入り口ではなかった。出口の先は八路軍側の柵と兵士によって遮断されており、この両軍が向き合う狭い「緩衝地帯」に難民は閉じ込められる形となってしまうのである。
国民党軍側の「再受け入れはしない」という脱出時の条件は絶対的なものだった。街角に餓死体の転がる地獄のような市内をやっとの思いで後にした少数の残留日本人、多くの朝鮮人、地元中国人難民は、結局建物も食料も満足な水もない飢えた人間だけがただ群れている、さらに狭く過酷な地獄の荒野へと投げ出されただけであった。この地帯を人々は「チャーズ」と呼んだ。数万人とも三十万人以上とも言われる民間人犠牲者を出したこの長春(「新京」)包囲作戦に絡んだ「チャーズ」という言葉やその実態は、1990年本書出版時点においてもどの中国側公式文書にも載っていないという。著者によれば日本国内では1969年に歴史家・長野広生氏によって初めて紹介された。
私が本書の存在を知ったのは本年(2001年)、作家・山崎豊子さんの作品「大地の子」について本書著者が起こした著作権侵害の訴訟が敗訴になったという週刊誌の記事を読んでからである。訴訟の詳しい内容も知らず、山崎氏の作品も読んでいないのでこの紛争には触れようもないが、こうした経緯によって本書の真実性、衝撃力がいささかでも損なわれるものではないと思う。
私の目を引いた「チャーズ」という言葉は、ずっと以前、妻の実母の口から耳で聞いていたものである。妻は1944年11月の「新京特別市」生まれである。著者の遠藤氏は1941年1月生まれということなので、妻より四才近く年上である。この差は決定的で、妻は「チャーズ」の記憶はもとより「新京」中心市街にあったという生家なども覚えてはいない。翌45年父親が徴兵され、そのまま音信が途絶え今日に至っている。従って生きた父親の姿も彼女の記憶にはない。
去年(2000年)8月。私と妻は長春を訪れた。子供らへの教育義務もほぼ終わり、結婚後二十年来したこともなかった海外旅行を断行した。妻のルーツを求めての旅でもあった。母親を誘ったが、悲惨な記憶が生々しく蘇るのを怖れてであろう、「気が知れない」と言って拒絶された。
その義母が語っていた「チャーズ」が「新京」のどこかの地名であり、現地で調べればすぐ分かるだろうと思っていたが、若い現地のガイドも、日本で知り合った中国人留学生の母親(医学博士、在長春)も分からないと言った。「チャーズ」探しはそこで途切れてしまっていたのだ。だが、本書を読んで現地の人が「分からない」というのは、語りたくないという意味であったことがやっと分かった。
1945年8月。ソ連の参戦と、皇軍の「夜逃げ」。15日の敗戦。ソ連軍の長春「解放」と撤収。国民党軍の進出。八路軍との市街戦、入城そして撤収。第二次国民党軍の進駐。「新京」市内で新聞集配所を経営していた夫の生還を信じていた義母はこの間「新京」を動かず、1948年までねばっていた日本人三百人足らずの内の三人となった。三人というのは妻には二才年上の姉がいた。
1948年9月30日、母親はついに当時三才の妻と五才の姉を連れての「新京」脱出を決意する。これまで「新京」に残っていた日本人は「百数十人」だったと、後年(1984年)文芸春秋に寄稿した竹中重寿さんという人の一文が本書に引用されている。 著者遠藤氏の一団がチャーズに入ったのは9月20日の早朝だったというのでその十日後のことだ。義母から断片的に聞かされていた「チャーズ」の茫漠とした様相がこの書物によってくっきりとした輪郭をもち、目も耳も鼻も塞ぎたくなるような修羅場として浮かび上がってくる。
遠藤氏は人並み以上に感受性の鋭い七才の少女であった。彼女がどれほどの精神的ダメージを被ったか、そしてその後三十数年の時間をかけてとうとうそれを乗り越え本書を著すに至ったかを思い返すと、同情と畏敬の念と共に深い感謝の気持ちが湧き上がってくる。それは彼女が人間による人間性の毀損と崩壊を目の当たりにし、自らも破壊の淵に立ちながら生き延びて回復を遂げることで、身をもって我々の人間性への信頼を繋ぎ止めてくれているからだが、それとともにその貴重なメッセージを私どものところへまで確かに届けてくれた運命的にかけがえのない人が生き延びているということへの感謝の思いである。
「命は精神によって支えられている」。地の文で彼女が何気なく吐くこの言葉は、九死、いや九十九死に一生を得て生還した体験を重ね合わせるとき、極めて切実な重さを持つ。幾度も消えかかる命のともし火。幾度も弱り果て切れかける精神の細い糸。その細い糸に辛うじて支えられてきたかけがえのない「いのち」。
遠藤氏の現在の仕事は筑波大学の物理学教授だという。だがそれは彼女に冠されるべき称号の些細な一つに過ぎない。「いのち」の「重さ」は物理学の対象外である。遠藤氏が奇跡的に生き延びた一方では、多くの「誉さん」が回復するどころか、なぜ死ぬのかも分からないまま死んでいった。
妻の姉はチフス感染の病後で、ただでさえ体力が衰えており脱出がためらわれたが、いよいよ八路軍が迫って情勢が逼迫しており最後のチャンスだと周囲に諭された。義母は他の残留日本人と共になけなしの財産を処分し、二人の娘をリヤカーに縛り付けて「チャーズ」の門をくぐった。自宅から徒歩でわずか一時間ばかりの地点である。「チャーズ」の中がどうなっているのか、国民党軍は市民に一切知らせず隠し通していた。兵糧責めにあっている「新京」駐留軍の「口減らし」としか考えようのない行為である。待っていたのは予想もしなかった荒野でのいきなりの足止め。食料のないまま何日間も「チャーズ」の中で野宿させられ、耐え続ける子供達も次第に無口になっていく。十日目に五才の姉がリヤカーの上で「お腹が空いた」と言い、「寒いから一緒に寝てほしい」とつぶやいたという。それが少女の最後の言葉であった。翌朝それに気づいた母親は、なぜそうしてやらなかったか、最後の蓄えといってもほんの少しでも口に入れてやれなかったのかと、八十四才になる今日まで自分を赦すことが出来ないでいる。
遠藤氏の父は「満州国」で製薬会社を設立、いくつもの関連会社を経営する多才かつ勤勉な努力家であったようだ。本来、幼児である誉氏と異なり、韓国人を含めた地元中国人にとっては植民地支配を支えた加害者としての道義的責任を免れ得ない立場であり、その苦悩はある意味で誉氏の比ではなかったろう。彼の注目すべき点は、その経営活動が、ある宗教的信念に基づいていたことだ。
私は誉氏の描く父親像を追いながら、すぐにあの詩人にして童話作家宮沢賢治を連想していた。両人にはどこか相通ずる資質ある。あの時代の空気の中で二人は似通った苦悩を背負い込むのである。米相場で一財産作ったまではよかったが、飢饉に苦しむ無産者階級の姿を見て自分の生き方に疑問を懐き、米倉を開放してしまう。「金光教」という新興宗教に入信し、放浪の生活の後、自らの使命を麻薬患者の救済に向け、独学で化学を学び十年の研究の後、麻薬中毒の解毒剤を開発する。これだけでも一代記になってしまうが、この人の非凡さはさらに満州で遺憾なく発揮される。 一般の日本人が「一旗揚げる」ために満州に渡ったのに対し、救うべき麻薬患者の多い中国にゆえに渡満したのだという。こうした解釈はいわゆる「身びいき」が入り込む余地があり、普通そのまま受けとるのは問題であるが、この後の本書の流れからくみ取れる著者の人柄には、書かれた事柄を信じうるに足るものを私は十分に感じ取ることができた。
遠藤氏の父、大久保宅次氏は開発した、治療中の中毒患者の禁断症状を緩和する薬をひっさげ中国大陸に渡った。薬はたちまち評判となり、満州政府公認の唯一の抗麻薬剤として認定された。大久保氏は自らこれをさらに改良し、立ち直った患者が再び麻薬に手を出せないような薬効(嫌煙作用)も加えると、中国本土のみならず遠くヨーロッパにまでその「ギフトール」という薬名は知れ渡った。しかしどんなに売れようと周囲に勧められようと価格は売り出し当初のまま最後まで値上げをしなかったという。「世のため人のため」などどいうと小馬鹿にされるご時世だが、この時代には、それを本気で考え理想に燃えて実行しようとする男達がめずらしい存在ではなかったようだ。午前三時に起床し、労働者の出てくる前から仕事場に立ち「海賊手ぬぐい」を頭に巻いて彼らに混じって働き続けた人物であった。
工場では日本人、朝鮮人、満人、漢人など差別なく待遇し、他の日本人企業家から現地人の賃金レベルを高騰させるといった反発を買ったが、一顧もせず、なお若い労働者に夜学に通うチャンスをも与えた。こうして「新京製薬」は地元民から支持されるいわば別格の企業となった。このため一家が工場を捨て「チャーズ」から難民となって天津へ行き着くまでの過酷な道中で、「新京製薬」での厚遇に恩義を返そうとする中国人達に見出され一度ならず危機を救われることになる。
1945年8月の敗戦後、中国復興に有用な技術者、医療関係者、工場主などは引き上げを許可されず長春(「新京」)に留め置かれたが、すでに様々な医薬品を「ギフトール」以外にも政府の求めに応じ製造、納品していた「新京製薬」は当然のように兵士の警護付で操業を続けさせられていた。最初はソ連軍、そして八路軍、さらに国民党軍という案配である。大久保氏は置き去りにされあるいは略奪、襲撃にあった「敗戦国民」日本人をできる限り雇い入れ金銭的援助を惜しまず住居等を手配することで同胞の援護にあたった。
大久保氏のような日本人の存在を近代史から消し去ってはならないと私は思う。一方で彼はその売上げの多くを関東軍(日本帝国軍)に寄付し続けた。これは植民地企業家としての私的な安定的発展を願ってのことではなく、忠実な「臣民」としての義務感と「皇軍」の中国「進出」の本質に対する残念な誤認からきている。当時の一般的認識としては「後進国」の「近代化」と先進国の植民地主義帝国主義)とはほとんどイコールと考えられていた。そこに同じ「東亜人」として欧米列強支配から中国人を守る、といった共同幻想が絡むと、過酷な軍事支配の現実を見る目は曇らされてしまう。当事者の抱えている社会的問題、歴史的認識、民族的感情、文化、宗教的相違、これらを十分に顧慮することなく、画一的、一方的な理想主義を押しつけることの危険はどれほど強調してもし過ぎることはない。21世紀を迎えた今日においても世界各地でこの誤りは繰り返され続けている。
文化とはある意味で操作者のいないマインドコントロールである。日本の天皇制はこの点中間的な性質を持つ。しかし昭和初期以降、軍国主義化を強力に押し進めようとする一部の軍人、政治家によって天皇制は意識的なマインドコントロールの対象となった。大久保氏の世代はまだ素朴な「臣民」感覚しか持っていない。彼が「新京製薬」で中国人、朝鮮人をむしろ上位に待遇したことは、その信仰もあると思われるが、後代の悪しき天皇制のマインドコントロールからは自由であったことを示しているだろう。それでも関東軍が市民を置き去りにして夜逃げしてしまうまで「大東亜共栄圏」の幻想とその本質に気づくことはできなかった。
「感想」からはだいぶ脱線してしまうが、大久保氏のような存在を我々が知り、学ぶことこそが歴史を学ぶことであろう。人は決して歴史から自由にはなれない。後世からみて百パーセント正しく行動することは不可能である。その誤りと正統性を共に見つめ評価していくことが歴史知らずの日本人、エコノミックアニマルの日本人、加害者意識に怯える日本人、根無し草のような日本人の汚名を返上する唯一の道である。 残念なことに今の子供達は日本の近代、現代史をほとんど学ぶ機会がなく、関心も持てないと聞く。受験戦争の弊害で片づけてはならない。歴史に携わる者はこの事態を真剣に受けとめ行動すべきであろう。歴史研究の意味が蹂躙されていて、平然としていられる方が不思議である。子供ならずとも自分の身近な物事に最も関心が高いのが人間である。そこが「歴史」の出発点であり、今日の問題がどこから始まっており、どこから来ているか次第に遡っていくことで、歴史の意味、そして自分自身の存在の根っこが見えてくるものである。日本の近代史は確かに目を瞑りたくなる部分も多い。しかしそこにはそれぞれの限界の中で、迷い、考え、懸命に生きた多くの同胞がいる。その誤りと正統性を曇りなく見ることなくして現代を生きていく上での真の主体性や自信を身につけることは出来ない。
「チャーズ」を脱出した後の誉氏や家族の苦難は、朝鮮戦争や新中国の現代史と絡みながら続き、天津市内を流れる「海河」で十二才の命を自ら絶とうとするシーンにまで至る。本書が私に伝えてくれるメッセージは多い。ただ一つだけ書かせてもらうなら、私には彼女のように他者が立ち入ることもできない孤独の中で生真面目に全身全霊生きるために戦い、戦い破れて死を選び取ろうとするまで真剣に生きようとしたことがかつてあっただろうか、ということだ。

2001/04/28 真室ユカタ