「現人神」「国家神道」という幻想

   
靖國問題は表面上「政教分離」の問題である。しかし戦没兵士の慰霊という国事行為に形式としての宗教性をまったく無くせるかどうかということについては議論がある。そもそもその場合にいう宗教とはなんなのか?
本書を読んで非常に興味深かったのは既に戦前に於いて帝国憲法での信教の自由の観点から、神道が宗教か否かの論争が行われていたことだ。現在の靖國論争と同じ論点がほぼ出尽くしている。
筆者は戦後GHQや進歩的文化人が喧伝した国家神道などというものは無かったことを証明している。しかし神道は日本の社会運動の核に参加することによって権力との距離を
笑ったのは戦後「国家神道」を批判する側からイメージ生成に寄与した宮澤俊義は戦前まさにその悪質な創造者でもあったことだ。[p]。まさに自分の影に怯える犬じゃないか。ψ( `∇´ )ψ(なぜか著者はここに突っ込みを入れていない)
神道がいかに冷遇されたか。
ファッショは民間と軍部からやってきた。国家は比較的中立。
天皇ファシズム」論は「国家神道」が大正以前に遡及できないことによって崩壊する。共産主義へのカウンターイデオロギーの暴走。
そもそも教典のない神道で国家宗教になるのか?信教の自由自体は最後まで保証されていた。現世体制への恭順形式としての神社遙拝=天皇に対する崇敬の確認があったのであって、天皇教という宗教があったわけではない。星条旗に忠誠を誓ったからと言ってアメリカ教信者と言えないのと同じ。
    
新田さんは「つくる会」の理事だったので、すげえ右翼な人で書いているものもバイアスかかってんだろうなぁと思い読み始めたが、アニハカランヤ。非常に良心的な学術書だった。