星雅彦というスリル


 
さいきんウェブ魚拓で謎の「操作ミス」があってかなりのデータが消滅したらしい。
どういう事情だったんでしょうねえ?
漏れはアサンジを支持するね。
ウェブから都合の悪い情報をクレンジングしようとする一切の企てに反対する。
それに一度世に出した文章というのは誰かが語り引用するのはあたりまえじゃないか?だいたい手紙や日記ですら学問的価値が認められれば研究と称して引用されるのだよ。印刷物を以って私的なものだから引用するななんてアリエナイよ。きっと周りの市関係者から「狼魔人に利用されるな」とか脅迫されたんでしょうね。そういうのにすぐ屈してしまうのは歌人としてどうかと思うよ。
というわけでメモ。

屋良健一郎(小室不比等=5662110)
1983年沖縄生まれ/「心の花」所属
2000年球陽高校男子生徒会長
2008年東京大学文学部卒業(卒論:中世後期における種子島氏とその周辺勢力)
   第1回おきなわ文学賞短歌部門一席沖縄県知事賞受賞
2010年東京大学大学院博士課程在籍、中世史研究会所属(専攻:16〜17世紀の薩摩と琉球の関係)
   沖縄市文化協会文芸部『文化の窓』

削除の理由は、引用した『日差し』は内輪の知り合い向けにへ配布していることもあり、一般読者には真意も伝わりがたい、とのことです。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925

天声人語
2010年12月20日
 東京で読んだ本紙夕刊に、沖縄生まれの若い歌人、屋良健一郎さんの歌があった。「コザ暴動あるいはコザ騒動」と題した連作から一首を引くと、〈モノクロの写真の街は白く燃ゆ コザの暴力美(は)しかりにけむ〉▼何千人もの群衆が80台を超す米兵らの車両を焼き払った。沖縄戦後史に刻まれるコザの出来事は40年前のきょう、12月20日未明に起きた。積もりに積もった怒りの爆発だった。さらに一首引かせてもらうと、〈植民地(コロニー)の冬夜の空をねじらせて米軍車より直(す)ぐ起(た)つ炎〉▼時のコザ市長は大山朝常(ちょうじょう)さんだった。炎をにらみながら、「沖縄の怨念が燃えている」とうめいた言葉が伝説のように伝わる。晩年にお会いしたとき、「それは米軍の圧政への怨念ですね」と尋ねたことがある▼すると哀れむような目を向けて黙り込んだ。沈黙の間に、気づかざるをえなかった。怨念の炎の中に大山さんが見ていたのは、アメリカではなくて日本(ヤマト)ではなかったか――。対日講和条約で沖縄は切り捨てられ、きびしい戦後を強いられてきた▼暴動、騒動、民衆蜂起など、コザの出来事は様々に呼ばれてきた。「暴動」は日米の側から見た名称であろう。同じように、沖縄で菅首相が語った「辺野古移設がベター」は、地元にとっては政府の論理に他なるまい▼屋良さんは東大大学院で、16〜17世紀の薩摩と琉球の関係を研究している。「今の状況はそれ以来の歴史の凝縮です」と言う。根ざす所は深い。40年間に怒りのマグマが減じてはいないことを、ヤマトは知る必要がある。

 ようするに屋良さんの短歌は「アメリカよりも日本が悪い!」というアメリカべったりの朝日新聞のすり替えの出汁に使われたわけだね。それこそ「一般読者には真意も伝わりがたい」唐突な引用だと思うんだが、朝日新聞には抗議したのかなあw

星雅彦というスリル 屋良健一郎
(文芸誌「日差し」第11号)
 
集団自決をめぐる発言で昨年(主に本土のメディアで))で話題になった星雅彦氏。
私が彼を初めて知ったのは2004年発行の「うらそえ文芸」第九号紙上だ。
 
この号には沖縄の短歌についての座談会が収録されており、星氏はその司会であった。 「戦争中の沖縄の歌人、極端にいうと戦争賛美を作歌し、戦争を扇動した歌人がいたとして、戦争責任を問われずにいる人たちいるのかどうか」と疑問を呈したかと思えば、戦後の沖縄県民についてカンカラ三線を例に、「沖縄戦で自分の身内が何人も死んでいるのに、それに対する悲しみなどの感情を全て打ち消そうと、楽器を取ったわけです。つまり反省というかたちが見出せず」と批判する彼の発言を読んだ私は憤るのとは違う、奇妙な興奮を覚えた。 なるほど、沖縄の人達は戦争に関して本土を非難するけれど、同胞の戦争責任については寛容すぎるのではないだろうか。 私が星氏の発言に感じた興奮は、自分が生きてきた短い人生の中で、沖縄に対して冷静に、批判を浴びせる人物に初めて出会った驚きに由来するわけだと思う。

その星氏が、2009年6月9日に沖縄県記者クラブで行った会見は衝撃的であった。 四十年ほど前、星氏が渡嘉敷島の戦争体験者の証言を収集した際には、集団自決が隊長命令であったという発言は一切得られなかったというのである。

四十年の沈黙を経ての星氏のこの会見は、自決を隊長命令と断定することで沖縄戦の真実を矮小化しかねない新聞報道を憂いての行動だったという(2009年6月15日放送「チャンネル桜」星雅彦氏・上原正稔氏記者会見)。だが、この会見や彼が同年に「うらそえ文芸」第14号に書いた集団自決に関する見解は、星氏の言葉をそのまま引用すると「新聞社は全く黙殺だ」という情況だったという(2009年7月28日放送「チャンネル桜」星雅彦氏インタビュー)。 その後も星氏の沖縄批判は続いた。「「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった」(「正論」2009年12月号)という文章では、沖縄戦の記録として信頼されてきた『鉄の暴風』が多くの「虚偽記録」を含むことを喝破した上で、日本軍を悪者にしようとする米軍の思惑のもとに編集されたのではないかと指摘している。 さらに驚くべきことがこの文章に記載されている。 星氏が1970年頃に『沖縄県史』編纂のため各地の戦争体験者にインタビューをしていると、日本兵が住民を助けた話がいくつか話題に出たので、彼はそのまま記述した。 そうしたところ、県史編纂関係者から「なぜ日本兵の善行を書くのか」と詰問を受けたというのである。 戦後の沖縄には日本兵をなにがなんでも悪者にしたい知識人も少なからずいたようだ。

さらに、星氏が今年発表した「「集団自決」その真相を墓場の中まで」(「うらそえ文芸」第15号)が私達の常識を揺さぶる。 『那覇市史(資料篇第3巻)7』収録の知念勇氏という人物の戦争体験が書き換えれられているというのである。星氏が知念氏に確認したところによれば、同氏の父親は米軍に殺されており、それを市史のインタビュアーに何度も伝えたが、出版されたものでは日本兵に殺されたことになっているという。もちろん、書き換えは知念氏の体験談に限ったことかもしれないが、一つとはいえ、このような事例が確認されたことで、同書の信憑性に傷がついたのは残念である。

以上のような星氏の調査・発言により、私達は一つの疑問を持たないといけなくなった。 私達が今まで無批判に受け入れてきた、沖縄戦に関する情報は、果たして事実なのか、ということである。 もちろん発言者の発言自体は真実だと信じたい。 

だが、その体験談が、日本兵を悪者にしようとする編集者の手を経ることで、あるいは日本と沖縄を切り離そうとする米軍の思惑に翻弄されることで、歪曲されてきた可能性は大いにあるのだ。

いま、私達に必要なことは、自分の周りの戦争体験者からナマの戦争体験を聞き、沖縄戦の事実を自分なりに構築することである。 あるいは、編纂物の戦争体験談を読む場合、その本のテキストクリティークをきちんと行うことである。 新聞が伝えること、戦争体験者ではない他者から聞いたこと(たとえば学生時代に学校で受けた沖縄戦の教育』などのすべてを無批判に受け入れることは危険だ。 私達は、自分の考えを持ち、自分で見聞し、取捨選択した上で残ったものこそを沖縄戦の真実と認定し、次代へ伝えるべきである。

ウチナンチュであり、沖縄文化協会長を努める星雅彦氏が、なぜ、沖縄の〈常識〉に」異を唱えるスリリングな発言を続けているのか。 その真意を、私達は感じ取りたい。 最後に「うらそえ文芸」第15号105頁の星氏の文章を引用しておこう。

今や軍命に異を唱えて探求すると、変人扱いされるか、他人の傷跡を暴く悪趣味にすぎないと批判されるだろう。 しかし、沖縄戦の真実は、隠蔽された影の部分を剥がさない限り、見えてこないだろうし、そのような経緯にこそ重要な意味があるような気がしてならない。

追記)
漏れは「特攻は外道だが有効だった」という論を唱えている。
だってベトナム戦争や最近の自爆テロみてもわかるでしょ。
狼魔人さんのところで興味深いコメントを発見したのでメモ。

沖縄マスゴミが書かない真実 (日本軍水上特攻隊の記録)
2010-12-21 21:58:53
 よく水上特攻隊[震洋・丸レ]は無力だったと知ったかぶりの輩が、いい加減なことを書いていますが、
英国の戦史研究家リチャード・オネール著『特別攻撃隊』によれば、
「沖縄における特攻艇部隊の戦闘は、長くかつ苦しい沖縄戦の一部であったが、
特攻艇はある程度の成功をおさめたものと言えよう。それは沖縄防衛軍の士気を高め、
また特攻による抗戦で、長い間連合軍の戦意を喪失させる最も確実な貢献をしたからである」と述べております。
事実、連日の激しい砲爆撃の下、また主要出撃基地であった慶良間群島が最初に占領されるという蹉跌がありながらも、
海軍の震洋は、4月4日未明に中城湾にて、市川及び鈴木の両二等兵曹が搭乗して
米軍の大型歩兵揚陸艇LCI-42号[387トン]を撃沈しております。
最近出されている本にはこの事は一切無視されており、載る事はありませんが米海軍の記録による間違いない事実です。
さらにまた、陸軍海上挺進隊の戦果はずっと多く、
3月28日に設網艦テレビンスが軽微な損傷を受けたのを皮切りに、同日LCI(L)-588号が損傷。
30日に中型揚陸艦LSM-12号[520トン]が攻撃を受け4日後に沈没。
4月9日、駆逐艦チャールズ・J・バジャーが停泊中爆雷攻撃で機関室が浸水、使用不能に陥り、
戦時標準型輸送艦スターに軽微な損傷、中型揚陸艦LSM-89が損傷、駆逐艦ポーターフィールドが友軍の流れ弾丸により損傷。
15日、機雷掃海艇LCS-331号が大破。
27日、駆逐艦ハッチンズが左舷のエンジンとスクリュー軸を破損し18名が負傷し使用不能
ロケット砲撃艇LCS(R)-37号が大破して破棄。
大型輸送船ポーズマンビクトリーと横付けされていたトラック等を搭載した上陸用舟艇LCVP数隻が損傷又は沈没。
5月4日、中城湾にて輸送船カリーナ大破。といった着実な戦果を挙げておりました。
こうした一連の水上特攻により米海軍は極度の緊張とストレスに悩まされ
「水上に浮かぶタバコの吸い殻よりも大きな物体に対しては、射撃しても差し支えなし」との指示がなされました。(略)