沖縄戦終結記念日

  

   
今上が日本人が忘れてはならない4大記念日に挙げた最初が沖縄戦である。
   
6月23日沖縄戦終結
8月6日広島原爆爆発
8月9日長崎原爆爆発
8月15日終戦
  
ところで8月15日と書くと必ず終戦は本当は9月2日だ〜とか言うやつがいる。うざい。
そんなの知ってるよ。法的な意味でなく歴史的な意味でいってるの。日本人が敗戦を受け入れた日でしょ。
なんだかプロポーズの日より役所に届けた日が正式の結婚記念日だとか粘着する馬鹿みたい(^_^)
  
追記)
   
さてさて、以前取り上げた沖縄集団自決軍名否定会見について、サヨクはどういう対応をしているのか?というサンプルをひとつ備忘のために貼っておく。
ハッキリ言ってひどい。
Blog主の「キー坊@ウチナー」氏は軍命令がなかったことを認めている。そのうえで、そんなことはどうでもいいという。
沖縄vs日本国家権力の戦いの中で「利敵行為」をしたことを糾弾する。
   
・・・思想論争はいくらでもやれば良いのだ。
しかしここで問題になっているのは赤松・梅澤隊長が軍命令として自決を命じたか否かだけなのである。
やってもいないことで汚名を着せた可能性があるなら検証して正すべきところは正すべきだろう。
オウム真理教を糾弾したいからと言って、やっていない罪を着せていいわけではないのと同じである。
  
どうもサヨクというのは、正義の戦いの為なら近代的な原則というものは無視して良いと考える人が多い。善意のファシズムと漏れが呼ぶ所以である。
正義の準拠枠が違うだけで狂信的右翼となんら変わりない。
書き写していて『解放』やら『前進』の文体を思い出した(^_^;)
      

2009-06-11 星・正稔記者会見
   
星雅彦と上原正稔が9日に沖縄県庁で記者会見を行い、慶良間の「集団自決」における梅澤・赤松両隊長の「自決命令」はなかったことを強調し、濡れ衣を着せられている元隊長に謝罪すべきだと訴えた、そうである。
   
5月11日に刊行された「うらそえ文藝」14号が沖縄のマスコミから黙殺されたので、この記者会見を行ったと思われる。当然、この会見にもタイムス・新報の沖縄2紙の記者は姿を見せず、引き続き無視されたようである。
だが、今日(11日)の産経新聞世界日報にはその報道がされている。世界日報は両氏のツーショットカラー写真まで載せている。おそらく地元マスコミは来ないと予想しただろうから、星と正稔は産経新聞世界日報という右派系本土2紙の為に、記者会見を持ったものと思われる。

これは、両氏にとって「転落」と烙印を押される行為でしかないだろう。私は、星・上原正稔両氏とも沖縄の2新聞社への個人的鬱憤をブチまける意味で、今回の「うらそえ文藝」での「集団自決」特集を組んだのだと見ていたのだが、どうやらこれは好意的な見方だったようだ。結局、両氏は権力へ摺り寄る姿勢を見せているのではないか。

地元2氏は沖縄戦に関しては、国家へ強い対立の姿勢を取るとは言え、沖縄社会も日本の国家権力の支配する場所に過ぎず、タイムスと新報の2新聞が沖縄を支配している訳ではない。2紙は最後の砦として、国家から沖縄への抑圧・統制に対し、報道・言論でもって精一杯の抵抗を続けているだけである。

星は、あの教科書書き換えへのキャンペーンは政治的イデオロギー論争の具だとして、「県民総決起大集会とマスコミの力で裁判も国も動かしたわけね」と、正稔との対談で言っているが、大江・岩波裁判を原告隊長側の負けと裁判官が判定したのは、原告側の動機にいかがわしいもの読み取ったからである。形式どおりの法律適用を行って原告の勝訴にしてしまうと、低級な日本右翼がノーベル賞作家・大江健三郎を陥れる意図の謀略裁判において、愚かな判決を下した裁判官という有難くない意味で歴史に名を残しかねないからである。県民大会やキャンペーンが無くとも裁判官は、大江・岩波を敗訴にする訳には行かなかっただろう。(ただし、国家が司法に介入し「国策」裁判が行われたら別だが、それはないだろう。)

星と正稔の言うとおり、隊長の自決命令は無かっただろう。
彼らが言うとおり、「鉄の暴風」の記述は雑駁であり、検証を怠っている.
しかし、その事は、タイムスも新報も、沖縄の研究者の誰でも分かっていることであると、私は思う。通常の判断力を持った人物なら皆そう思うだろう。
だがもう、はるか40年前に赤松が「週刊新潮」で責任否定の弁明を開始した時から、また、曽野綾子が「ある神話の背景」を発表して、日本軍の戦争責任を無化しようと乗り出した時から、沖縄タイムスは「鉄の暴風」を訂正出来なくなってしまった。沖縄戦研究家も隊長命令に関して本音を言う時期を失したのだ。もし、タイムスが誤りを認めて記述を訂正すれば、赤松本人、曽野綾子ら権力の擁護者たちの、さらなる沖縄攻撃が勢いを増す事は目に見えている。タイムスの公器としての信用は地に落とされる。もう、沖縄は本音を吐いて「隊長命令」の不存在を認めることは不可能になっている。

だが、私は何度も言うように、隊長命令が無かったからといって、指揮官として現地住民を死に追いやった責任から両隊長は免れ得ないと思っている。特に、罪の無い十数人の民を処刑した赤松嘉次の責任は免れない。
今、隊長命令は無かったとタイムス・新報および研究者が認めてしまうと、両隊長の責任のみならず沖縄戦への日本軍の責任を無化するか大幅に減じてしまう。これでは沖縄戦の犠牲者は浮かばれないというものである。だから、今となっては、沖縄は赤松・梅澤の命令無きことを、公式に認めなくてもよいと思っている。彼らは更なる罪を作り続けているのだから。

星雅彦と上原正稔は、その意味で郷里を裏切り大和権力に売る行為をしたといえるのではないか。
   
Blog:曽野綾子「神話」をめぐる話題
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2009-06-15 星雅彦の論考
  
 私が読んだ限りの、星雅彦が「集団自決」について書いた論考は、「25年前は昨日の出来事」(1970・4.3沖縄タイムス)、「集団自決を追って」(1971「潮」11月号)、沖縄タイムス・コラム「曽野綾子・『ある神話の背景』をめぐって」(1973.6.12〜14)、および去年の「うらそえ文藝」13号(2008・5月)の「編集後記」、今年の「うらそえ文藝」14号の「集団自決の断層」である。

 「25年前は昨日の出来事」は、赤松が慰霊祭出席の来島騒ぎ(70・3.26〜29)があった直後に書いたものであるが、これは曽野綾子が「ある神話の背景」を書くに当たっての有効な材料を提供したようである。一部引用してみると。

 「私は記者団にまぎれこんで赤松一派をずっと追跡したが、詳細は別の機会にゆずるとして、問題の自決命令のことを考えると、赤松が直接命令したかどうか、結論を急げばどうも疑問符が次々と出てくるのである。」

 「そこで告発を徹底するためには、軍国主義に忠誠だった村の指導者たち(思想を先取りして、村民を足手まといに扱ったふしがある)にも向けてしかるべきであり、一人一人あの時点でどうだったか、真実をさらす勇気が問われるべきだと思う。」


 星は現地に行って体験者の証言を聞くうちに、赤松隊長が自決命令を出してないのではないかという疑問を持った。住民の自決は赤松の命令でなく、村の指導者たちが先導してやった事ではないか。その責任をまず追及すべきではないかという趣旨の論考である。

 この考えは、その数年前の、伊豆大島出身のルポ・ライター石田郁夫氏の「沖縄の断層」(「展望」1967・11月号)に示唆を受けたものと思われる。1967年に石田郁夫は渡嘉敷を訪ねて、体験者から聞き取りを行ったが、隊長命令の明確な証言者は見つける事ができず、及び赤松告発の言を為す者は少なくて、逆に赤松隊を擁護し、たたえる証言を聞いた。石田は、村長などの戦争協力指導者の責任を追及する事で、赤松元隊長の戦争責任追及が徹底できるのだとしている。

 この石田の助言も、当時の沖縄の論壇では取り上げられること無かったようだ。岡本恵徳琉大教授が「水平軸の発想」(1970頃)という論文の中でこれを批評しているが、石田の主旨とは、ずれた論点で冷ややかな論評を行っているように思える。
 40年近く経った今の感覚で言うのだが、石田ルポも星の論考も至極真っ当な主張をしていると私は思う。だが、当時の沖縄の言論界では受け入れ難い考え方だったのだろうか。沖縄文化人の星雅彦の、新聞コラムでささやかに行ったこの主張も一顧だにされなかったのかもしれない。

 沖縄の言論界が無防備に構えている間に、曽野綾子「ある神話の背景」が登場した。それの単行本出版直後、沖縄タイムス(1973年6月)に、岡本恵徳、いれいたかし、星雅彦の順に、沖縄の文人3名が曽野綾子への批判文を書いているが、三人とも虚を突かて、たじろいだ様な批判文である。三人ともこの一回きりで曽野綾子への反論を止めたようである。特に星雅彦はこれを最後に、政治的意味を含む論文を一切書く事なかったようだ。36年ぶりに書いた論考が今回の「集団自決の断層」である。
 曽野綾子が「ある神話の背景」で、沖縄の知識人へ加えた打撃は大きかったと思うのである。
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2009-06-16 理解しがたい星雅彦の論理
「うらそえ文藝」の星雅彦の論考の要点は、慶良間の「集団自決」は隊長の命令ではなく、「自発的」に行われたものであったという点である。

「つまり『強制集団死』は、現在の視点からの被害者意識に立った解釈に基づいて、戦中の軍国主義の強制性の存在をも否定したことになるのだ。そこには善かれ悪しかれ史実としてあったものを無視する強引さがある。これは逆に史実を捏造したことにほならないか。」

星氏はあの「集団自決」は、当時の時点においては、「住民の死にたいという自主的な行為」からではなかったかと言うのである。

 確かに、当時の住民は軍国主義教育に洗脳されていたから、「隊長命令」が無くとも、米軍の猛攻撃に追い詰められた状況では、自ら死へと急いだのは事実であっただろう。だが、戦闘中の混乱に陥っていた住民は、自主的な判断が可能な心理情況だったのだろうか? 自主的であるかないかの判断は現在という地点に立って客観的に、あの時点を眺めた時に可能になるのではなかろうか? 

星氏自身「戦中の軍国主義の強制性の存在を」否定してない。なんで、今の時点から振り返って、あの「集団自決」が軍の強制だったと規定する事が、戦時中の「軍国主義の強制性の存在を」否定する事になるのか、星氏のロジックは解りにくい。

要するに、「隊長命令」は無かったのだから、沖縄のジャーナリズムはそれを認めよ、と言いたいのである。これを主張したい星雅彦の心情にも一理・二理あるとは思うが、今となっては、この主張をする事が内外にどんな影響を与えるか、星氏は考えないのであろうか?それを行うのなら、もっと早い時期にやるべきだったのではないか?36年間の沈黙の末に、権力に奉仕するような言説を発するとは、「転落者」と見なされても仕方ないだろう。沖縄のマスコミも無視するしかないのだ。
  
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記者会見映像
 狼魔人は素早い情報を記事に書いてくれるが、YouTubeに、星と正稔の記者会見が載ったと書いているので、早速覗いてみた。ことばのアクセントから、星は那覇人、正稔は八重山人だと感じた。

全部で30分くらいの映像が載せてある。奥茂治という沖縄在住元自衛官が撮影し、チャンネル桜に送って、それがYouTubeに載せられたようだ。つまりは、星・正稔と奥・産経・世界日報チャンネル桜とは、意を通じながらの記者会見だったようだ。

 星雅彦と上原正稔の言ってることに、目新しい資料・証言の発見が無い点では、「うらそえ文藝」に書かれているものと同じである。正稔が「隊長命令」は無かったという根拠は、現地へ行って調査してみて、金城武徳、大城良平から「無い」との証言を得たからだと言うが、この二人は昔からそんな証言をしていたのである。一方、金城重明、吉川勇助など軍の「強制」だと証言した人物、或いは処刑された住民の遺族などには話を聞いてない。
また、彼は「沖縄戦ショウダウン」の記述の一部分が、赤松隊・「陣中日誌」の記載と一致するから「陣中日誌」は信頼できるのだと言う。が、この谷本版「陣中日誌」がどういう物か知らないのだろうか。自分で、その部分を調査して証明したとする記述は、「うらそえ文藝」にも会見にも無い。「ドキュメンタリー作家」としてははなはだ食い足りないではないか。

星氏はコラム「25年前は昨日の出来事」(70.4月)を書く2・3年前に、2回渡嘉敷を訪ねたが、一人も「集団自決」は隊長の命令だと言うものはいなかったと、照屋昇雄と同じような事を言う。39年も経った今、それを軍命否定の根拠とする訳である。ともかく、「隊長命令」が無ければ「軍の強制」ではないとしているのであるが、何十年もかけてそんな結論に達したのか。

二人とも、「援護金」に大いに拘泥していて、渡嘉敷の生き残りの人達は「自分の家族を殺して、大金を貰っている」と言わんばかりである。それ故に『集団自決』は隊長の命令ではない、とは言えなくなっているとする。「隊長命令」が無ければ、集団自決者の遺族は援護金を貰う資格が無いといいたいのだろうか。遺族の方々を貶める発言ではないか。

会見では両人とも、曽野綾子『ある神話の背景』を高く評価するようなことも言っている。それ故、この二人が権力に擦り寄った感を強くさせる。彼らの登場は、裁判に負けて一敗地にまみれた曽野綾子の、少しばかりの逆襲のような気がする。

 沖縄のマスコミや本土の大方のマスコミが報道しない事が分っていて、右翼系のメディアが配信するという申し合わせの上、この記者会見を持った事は、星・上原はウチナーンチュとして同胞を裏切り、人間として堕落した事以外の何物でもないと思う。『鉄の暴風』をめぐり、長年の両人への、特に星雅彦への沖縄マスコミの対応の拙さは在ったのだろうが、私憤を晴らす事をこんな行為で行うとは許せる事でない。
 
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2009-06-19 特集は「転落」の露呈
   
記者会見で二人は次の発言をしている。

上原 「赤松・梅澤両元隊長を(不名誉の)窮地から救ってやりたいというのが、これからの自分の人生の大切な仕事である。」

星 「沖縄戦全体の様相を、「慶良間の集団自決」のように、単に隊長の自決命令という事で決着したのでは、沖縄戦の真相から遠くなってしまう。」

私は最初、星雅彦が上原正稔を誘って、「うらそえ文藝」に「集団自決」をめぐっての、沖縄の新聞など、沖縄言論界を非難する特集を組んだ理由を「善意に」解釈していた。星雅彦が39年前、沖縄タイムスに書いた「25年前は昨日の出来事」は、全く共感できる内容であった。「集団自決」への軍隊の責任追及を徹底する為には、共同体内部の戦争責任を追及する必要があるという、至極正当な意見であった。これはおそらく、その数年前の大和人ルポライター石田郁夫の「沖縄の断層」を読んで影響を受けたと思われる。星も、「自決命令」は赤松隊長から出されてないのではないか、という微かな疑念を持ったのだろう。

 それでも、星雅彦の「集団自決」に関わる論考は「集団自決を追って」など、概ね軍部の責任を追及する論調で書かれていたはずである。だが、73年に「ある神話の背景」が出現したとき、直後に、沖縄タイムスに「曽野綾子・『ある神話の背景』をめぐって」という、長文の批判論文を載せて以降、36年間ぷっつりと、あらゆる政治性を含む論考を発表しなくなっていた。この論文には、『生贄の島』・『切りとられた時間』と書いて来て、最後に『ある神話の背景』を放った曽野綾子の策略と気迫に圧倒されて、たじろいでいる雰囲気が感じられる。

これを最後にずっと40年近く沈黙していた星雅彦なのだが、今回、自分が主宰する「うらそえ文藝」で「集団自決特集」を上原正稔と一緒に組むという情報を聞いた時の、私の予想は次の通りである。
 星は老年に達した今、人生最後の一仕事として、「集団自決」への自分の偽らざる考えを吐露して沖縄マスコミおよび沖縄戦研究者に対し、一方的な軍隊批判と、内部の責任追及の甘さ、そして「鉄の暴風」の粗雑な記述への反省を促すという、ささやかな意図で特集をしたと思っていた。

 だが、それは私の甘い期待でしかなかったようだ。
上原正稔は金城重明氏の名を挙げて、「彼は自分の家族や他の住民をたくさん殺して多額の援護金を貰っている。これは大変な事だ」と、金城氏を殺人鬼呼ばわりするような発言をしている。
これは徳永弁護士が出張法廷で、金城氏が家族や他の人を殺した事について、殺人鬼を責めるような尋問をした事や、鴨野守秦郁彦が雑誌で、金城氏は自分の大量殺人を赤松隊長におっかぶせる為に、軍命説を唱えているのだとした「妄説」に追随する言い方である。

星雅彦も、「『集団自決』で家族を殺して生き残った人で、援護金の受け取りを断った人が居り、これが正常ではないか」として、援護金を受け取ることは悪であり、慶良間の住民は援護金の為に両隊長の「自決命令」をでっち上げた、とするかのような発言を会見で行っている。
両者とも、全面的に両隊長の戦時責任を免罪する発言であり、大江・岩波裁判における原告支持勢力に全面追従する今回の「うらそえ文芸」特集であり、記者会見である。

星は39年前、「25年前は昨日の出来事」でこう言った。
「告発を徹底するためには、軍国主義に忠誠だった村の指導者たち(思想を先取りして、村民を足手まといに扱ったふしがある)にも向けてしかるべきであり、一人一人あの時点でどうだったか、真実をさらす勇気が問われるべきだと思う。」
その、「告発の徹底」はどこへ行ったのだろうか?

今回の「特集」と「記者会見」は、彼らが権力の誘惑に負けて、「転んだ」事を自ら暴露した以外の何ものでもなく、沖縄人として取り返しのつかない暴挙を為したと言えよう。
沖縄のマスコミ、言論界の主流は彼らの泥仕合に引きずり込まれるわけにも行かず、これを無視する以外に方法は無いだろう。匿名ブログ人の私は無視したくなかったので非難の言葉を浴びせてやったが、もうこれ以上はやる気がしない。
   
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2009-06-25 悪徳言論人のあくどさ
   
私は、ここに現れた沖縄市民とかうるま市民とかの、大和悪徳右翼に魂売った沖縄のネトウヨを見ると、虫唾が走るので投稿禁止にしたが、都合の悪い事から逃げていると思われるのもしゃくなので、金城氏兄弟の自決幇助の件、少し説明をしたい。

金城氏が自分の家族だけでなく、他の住民をも殺してやったという事実を、初めて公の文書(体験談)で述べたのは、「潮」特集(1971・11月号)での安座間豊子の証言であろう。この中で豊子は、男手の無い自分の家族4人は、首里で牧師になっている人に棍棒で頭殴られたと言っている。同じ特集の直前には金城重明牧師の体験談も載っているが、他人を殺した事を言っていない。しかし、この証言で言ってないからといって、金城氏が他人殺しを隠していた訳でない。それは阿波連部落の人、或いは渡嘉敷村の戦争経験者の多くが知っている事だったのは明らかではないのか。(渡嘉敷村史・山城盛治証言)


 曽野綾子に書き送った手記には、重明氏は他人も手に掛けたことを書いている。(『集団自決の真実』p179〜183)これは「諸君」72年4月号に初掲載されたのだが、曽野に書き送ったのは安座間豊子の証言よりも前の事だろう。

豊子の母ウシは、金城重明氏に打たれる前、近くにいる老人に「クルチクィミソリ」(殺してください)と哀願している。子供たちは皆死にたくはなかっただろうが、大人たちは皆、死への願望に駆られていたのは明らかであり、それ故、集団自決が起こったのではないか。ウシは「祈るように、『重明……』と小声でいって目を閉じた」と、同じ特集の星雅彦のルポには記述されている。

>殴られるまえに「あなたは○○の重明でしょう。」と叫んだと言う。
>歪曲表現をするではない!>うるま市

徳永弁護士、鴨野、狼魔人らの悪徳物書きたちは、瑣末な証言の矛盾、言葉尻を捉まえて、金城氏は大量殺人および父親殺しを隠していた、自分の罪を赤松隊長になすりつける為に軍命説を唱える活動を行った、兄弟は渡嘉敷村の人たちから村八分にされてきた・・・、とデタラメを書き連ねているのである。金城重栄氏は71年頃は阿波連の区長(部落世話係)を務めていたのである。村八分の人間を区長にするはずはあるか。
徳永弁護士は、那覇での出張法廷で、金城重明氏への反対尋問において、殺人鬼を追い詰めるような質問を執拗に行い、裁判長にたしなめられたようだが、大いに心証を悪くするやり方だったに違いない。

私は金城氏兄弟を擁護する為に、「殺人鬼」という語を多く使ったのだが、これも匿名ブログ人だからできる事であって、実名でブログやっている人は使えないだろう。また、新聞等既成メディアの中でも、「殺人鬼」は擁護の為といっても使えない語であろう。私は悪徳言論人たちのあくどさを告発する意味で、あえて使ったのである
  
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