人と技術の界面をみる
2011年7月22日
アナログ放送終了から古い体制のきしむ音がする
松浦晋也
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/column/20110721/1033131/?set=ml
(略)
 実のところ、アナログからデジタルへの切り替えは、1990年代から失敗が危惧されていた。国が全力を挙げてデジタル移行を推進している以上、さまざまなきしみを抱えつつもデジタルへの移行は達成されるのだろう。しかし、テレビというメディアの栄光の時期は過ぎ去り、もう戻ってこない――私は今そう考えている。
(略)
 だから、素直に考えれば、1965年にNHK技研が考えたように、次世代のテレビ放送は全て衛星放送になるべきだった。実際、郵政省でもそのように考える者もいた。
 
 テレビ放送を全て衛星放送とすることにはさまざまな利点があった。まず、電波を送り出す側の設備コストが安くて済む。地上波をデジタル化しようとすると、中継設備から電波塔まで莫大な設備を更新する必要がある。しかし衛星ならば、衛星を開発して打ち上げればいいだけだ。もちろん家庭の受信機は全て更新する必要があるが、デジタル化に当たってはどっちにせよ家庭の受信機は総取っ替えになる。だとしたら、テレビは全て衛星放送に切り替えて、テレビが使っていたVHF帯やUHF帯の電波を有効利用するのが一番いい。
 大まかな見積もりだが、衛星ならば打ち上げも含めて1機200億円、軌道上の予備も含めて3機で600億円もあれば15年間使えるデジタル放送設備が手に入る。HDTVというメディアの寿命が30年とすれば1200億円。アナログ放送並みに50年近く持つとしても衛星3世代で1800億円ということになる。
 
 しかし、そうはならなかった。衛星は衛星でチャンネルを増やして衛星デジタル放送を実施することになり、従来通りの地上波をデジタル化することになった。7月24日のアナログ放送停止に向けた、さまざまな設備更新のコストは総務省負担分だけで1兆円を超え、他官庁の投入した予算も合わせると合計2兆円にもなるという。
 それだけではなく、地上デジタル放送は、周波数の低いUHF帯を使った結果、伝送する情報量が限られることになってしまった。地上デジタル放送は1440×1080ドットの動画像を横長の画素を使って16:9の画面に表示している。より大量の情報を伝送できる12GHzの電波を使うデジタルBS放送は、1920×1080ドットだ。同じHDTVでもデジタルBSの方が画像がきれいなのである。
 地上デジタル放送は、規格策定にあたってもう一つの失敗を犯した。情報圧縮技術の急速な進歩を見過ごしたのだ。地上デジタル放送はMPEG-2という国際標準の情報圧縮の手法を採用した。ところがその後の急速な進歩で、より圧縮率が高くて画像もきれいなMPEG-4という手順が国際規格になってしまった。
 
 そこまでして地上波にこだわった理由は、利権にあった。以下、「テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか」(吉野次郎・日経BP社、2006年)という本の受け売りになる。
 現在、各県に1つ地方テレビ局がある。地方テレビ局は大体その地方の地方紙の資本だ。(略)
 地方局には電波があるが、番組を作る能力が低い。そこでできたのが東京の民放キー局との系列関係だ。キー局は番組を作る。その番組を地方局も放送するのだが、この時キー局から地方局へ電波料というお金が支払われる。
 「番組がもらえてお金ももらえる」という不思議な仕組みだが、そのからくりはコマーシャルにある。(略)
 同じ構図を地方局から見ると、自分は何もしなくとも国から認可された電波使用の権限を持っているだけで、キー局から番組もお金も入ってくるという、とんでもない左うちわ状態というわけだ。
 
 この構図を、キー局も地方局も手放したくなかった。衛星放送は基本的に全国に電波を落とすことができる。だから、キー局も地方局も区別がなくなる。衛星放送で使う電波は周波数が高いし、情報圧縮技術も進歩しているから、キー局も地方局も平等に電波の権利を持つことができる。そうすれば猛烈な競争が起きて、今までみたいに何もしなくとも儲かる状況が終わってしまう。だからテレビ各社は、デジタル移行に合わせて全てを衛星放送に移行することに、ありとあらゆる難癖を付け、政治力を駆使して反対した。なにしろ、「全て衛星放送に移行すべき」としていた郵政省幹部が左遷される事件があったぐらいだから、その熾烈(しれつ)さも知れようというものだ。
 かくして、放送のデジタル化は技術的には不利な地上波で行われることになった。
 
 ここで重要なのは、HDTVと衛星放送が「大量の情報を伝送するためには高い周波数の電波を使わねばならないこと」は技術的な必然だということだ。技術的理由から高精細と衛星は不可分なのに、キー局と地方局の利権構造温存という、“人の世の理由”で技術的必然を歪めてしまったのである。(略)
 
 最初のしっぺ返しは、先に述べた大変な設備更新の投資だろう。衛星なら600億円で済んだ国費投入が2兆円にもなってしまった。元を正せば私たちの払った税金である。
 続くしっぺ返しは、より正しく技術を使ったライバルの登場である。(略)
 
スカパー!HDがなぜこの価格を提示できるかといえば、放送事業者と衛星運用会社が分離した合理的な経営体制である上に、衛星という本質的に放送に向いたシステムを使っているからだ。情報圧縮の手順は地上デジタル放送のMPEG-2よりも効率的なMPEG-4なので、画質も良い。私はスカパー!HDのビジネスを助ける気は毛頭ないが、冷静に地上波と比較すると、どうしてもメリットが目立つ(もちろん悪天候時の受信など、デメリットもある)。
  
 これほどまでに無理を重ねて推進してきた地上デジタル放送だが、末端ではかなりの混乱が起きている。今年に入ってから複数の地方テレビ局関係者と話をする機会があったのだが、主に山間部の難視聴地域はどうしてもカバーしきれず、アナログ停波と共にテレビ放送が受信できなくなる地域ができるかも知れないということだった。
 その結果あきれたことに現在、新たに発生する難視聴世帯向けに地上デジタル放送と同じ番組を、放送衛星から放送するという事態になっている。それだったら最初から衛星で放送すればよかったのだ。
(略)
(つづく)