週刊ダイヤモンドで読む 逆引き日本経済史
【第30回】 2011年7月8日 坪井賢一
牛尾健治と五島慶太 電力国家管理批判を繰り広げる 1940−1941年
http://diamond.jp/articles/-/13035
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 日本発送電が電力事業を開始した1939年、全国の民間電力会社は配電(小売)のみを行なうことになった。3年後の1942年には政府によって9地域の9配電会社へ強制的に集約され、それまでの民間電力会社は姿を消すことになる。

 小林一三の東京電燈は関東配電へ統合され、松永の東邦電力も九州配電、中国配電、中部配電、関西配電などへ分割・統合された。小林は関西へ帰り、松永は小田原の茶室に隠棲してしまう。自由主義的資本家の最期だった。
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 まず、牛尾健治(1898−1957、★注?)の意見。

 牛尾は山陽配電の株主・経営者として知られ、兵庫県姫路を拠点に兵庫県岡山県鳥取県島根県へ電力を供給し、銀行も経営する大資本家だった。

 日本発送電に発電会社と送電会社を接収され、このときは配電会社だけを経営していた。1940年2月に「ダイヤモンド」へ寄稿した論文のタイトルは、牛尾健治「電力機構をどう改革すべきか……一私案の提唱」。

「日本発送電会社が『電力の豊富低廉』をその旗印とし、巨大なる資本と設備を擁し、非常時産業の振興と国防の安固とを目指す重大使命を背負い立って以来すでに9ヵ月、その間当局の苦心経営は容易ならざるものがあったに拘わらず、業績意の如くならず、当初の公約は完全に裏切られ、事変下最大の喫緊事たる生産拡充動力確保の上に一大暗影を投ずるに至ったことは、誠に憂慮に堪えないものがある。」

 国家独占体制の発電・送電の効率化ができず、電力生産の拡充もうまくいっていない、と指摘する。慎重に言葉を選び、軍部や官僚からの圧力を避けようとしているが、怒りはよくわかる。

 続けて、電力国家管理がうまくいかない理由をあげる。

「日本発送電会社の現機構が余りに膨大且つ平面的であり、その運営が余りに中央集権的であって、同社と地方配電会社との経営関係が、遺憾ながら両者相互の共存共栄を刺激すべき実質と要素とに欠如せる点にあると思う。」

 つまり、電源構成も需要構造も地域によって違うのに、全国一様な経営政策ではうまくいくわけはないという意味だ。そして、以下のような改革案を提唱する。

「まず差当たり全国を10区域ないし15区域に分ち、各ブロックに、地方発送電会社を設立して、現在の(民間)配電会社は地方発送電会社の電源並びに送電線系統を中心として、その範疇に属する関連地帯を一環とする事業の整備統合をなし、全国的に約20ないし30の配電ブロックを結成し1発送電ブロックに対し、1ないし3の配電ブロックを相関的に対応せしめ、発、送、配電の3部門を縦的一貫経営下に置くとともに、さらに各ブロック毎の統合を行なわしめ、以ってその究極の理想たる全国電気事業を発、送、配電に亘る一貫経営を為す一法人格の国策会社にまで進展せしめんとするものである。」

 これは戦後の9電力地域独占体制のような仕組みだ。牛尾が言いたかったのは、上記引用部分の最後に出てくる一法人格の国策会社ではなく、地域に分割して地域の需要構造に適合させた民間会社の設立である。巧妙に政府批判を避けながら、一法人格の日本発送電なんか効率が悪くてうまくいくはずはない、と言っているのだ。さらに、

「(地域に分割した)各社毎に、原則として独立経営を営ましめ、各地方発送電会社、配電会社並びに一般株主の三者が、互いに唇歯輔車の共栄関係において、事業の繁栄を推進する建前とするのである。」

 そして、「地方発送電会社の首脳者は、之を配電事業者中より選任し、両者を資本的にも人的にも密接不可分のものとし、中央の極端なる掣肘と、既に弱体化せる現在の日発支店、出張所等の二軍監督ないし指揮命令より解放し、直接経営者の責任と裁量とにおいて、おのおの地方独特の実情に即した事業経営をなさしめる。」(以上、「ダイヤモンド」1940年2月21日号)

 牛尾の筆致はだんだん過激になってくる。けっきょく、民有国営の日発なんか無理で、民間資本家の自分たちにまかせろ、と主張しているわけだ。日発の支社を「二軍監督」と評しているところが面白い。

 しかし、国家が独占企業を経営することが政府の目的だから、聞き入れるわけはなかった。2年後には配電会社も没収され、全国9社に統合させられてしまう。もちろん、牛尾の山陽配電も例外ではなかった。

「民営国有」の弊害を訴えた
東急グループ創始者五島慶太
 もう一人、五島慶太(1882−1959、★注?)の主張。「電力国家管理は時期に非ず」と題した論文は、「ダイヤモンド」1941年1月11日号に掲載された。五島は現在の東急グループ創始者である。

 五島は牛尾より直裁だ。遠まわしではなく、国営会社など経営効率が悪くてナンセンスだという。

「国営に近い東京市電の営業費係数は76%にして、民営電車のそれは大体50%内外であります。国家管理に移されている日本発送電会社の電力料金は果たして民営会社のそれよりも低廉にすることが出来るでありましょうか。思い半ばに過ぎるものがあるのではありませんか。」

 続けて、民有国営の弊害を列挙する。

「(民有国営では)民有民営におけるが如き発刺たる事業家の熱意や創意や責任感を期待することは出来ませぬ。したがって著しく能率は低下することを覚悟せねばなりませぬ。」

「(民有国営では)企業における有機的活動を望むことが出来ませぬ。所有と経営とを分離しては経営者は全く一個の労務者と化し、創意もなく、熱意もなく責任感もなきに至り、産業組織の根本的革命となりはしないかと憂慮に耐えませぬ。」「生産力拡充の如きを希望することは出来ませぬ。」

「民有国営なる形態は極めて稀であります。ドイツのナチス経済組織の下においてもほとんど全部が民有民営でありまして、非常な好成績を挙げております。石山賢吉氏が調査した50会社の平均利潤率は61.2%でありま」す。(以上、「ダイヤモンド」1941年1月11日号)

 五島慶太は完膚なきまでに国家管理会社をやっつけていく。しかし、同盟国ナチス・ドイツの例を持ち出してもムダだった。

 帝国日本の経済官僚は、経済体制のモデルとしてソ連スターリン体制を念頭においていたからである。スターリンは1928年から順次5ヵ年計画(国家、企業、団体まで)を策定し、生産力を上げていたからである。

 内閣調査局が1930年代に企画院となり、経済計画を立案する強力な組織となっていた。電力国家管理を含む国家総動員体制は企画院の立案だった。資本家が何を叫んでも聞くわけがなかったのである。

注? 牛尾健治は、姫路に本社をおく山陽配電、姫路銀行、姫路瓦斯などの経営者。東京商科大学を卒業後、父・牛尾梅吉が創業した企業を継いで発展させた。牛尾治朗ウシオ電機会長は子息である。
★参考文献:牛尾治朗私の履歴書』(日本経済新聞社、2000)

注? 五島慶太は、長野県青木村出身。東京師範学校東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道院を経て武蔵電気鉄道常務に。その後、次々に合併を進め、1939年に東京横浜電鉄社長(1942年に東京急行電鉄へ社名変更)し、一大コンツェルンを成す。