マイケル・ウッドフォードオリンパス新社長

言うことが立派過ぎて引用をほとんど省略できなかった。。。
オックスブリッジらしいけど、こういう感じのエリートって日本ではあまり見ない希ガス。やっぱ教育?

世界に学ぶリーダーシップとグローバルマインドの育て方
【第8回】 2011年7月5日
オリンパスはなぜ英国人をトップに起用したか
マイケル・ウッドフォード新社長が目指す世界に通用する「働き方」革命
http://diamond.jp/articles/-/12985
――社長に抜擢された理由をどう自己分析するか。
 表層的ではない誠実な答えを伝えたいので、やや話が長くなるが、お付き合いいただきたい。
 私は自分の直感の精度に自信があるほうだが、昨年10月に菊川さん(菊川剛 当時社長・現会長)からこの話をもらったときは、とにかく驚いた。本当にまったく予想していなかったからだ。
 私はどちらかといえば、集団の中では一匹オオカミ的な存在だし、(日本人から見れば)少し予測不能な人間だろう。たいていの日本人は予測不能性や不透明性を好まない。オリンパスが倫理的にとても良質な会社であることは知っているし、この会社のことがとても好きだが、それでも日本企業は一般論として保守的であり、(このような人事は)ありえないと思い込んでいた。
(略)
 長い答えになってしまったが、要するに、私は分岐点に立つ日本企業に必要な進化をもたらす人材として適任と見なされたのではないかということだ。 
――調和やコンセンサス重視の姿勢が逆効果になっているとは、具体的にはどういったことか。
 一番分かりやすい例は、意思決定の質だ。日本では、多くの物事がじつは会議の外で決められている。会議に持ち込まれる案件は、たいていの場合、すでにハンコが押されることが決まっている。
 これは、ある意味、奇妙なことだ。会議は、いったい何のためのセレモニーだというのか。要するに、日本では、大事なことは会議の前に決まっていて、会議はいくばくかの民主的合法性をもたらすものでしかないのだ。
 日本人は、歴史伝統的に年長者や上司に対してチャレンジすることに非常にナーバスなのだろう。この国でとかくショックを受けるのは、会議で明らかに良くない考えが提示された時でも、それが上司によって擁護されたものならば、多くの場合、承認されてしまうことだ。
 その後、バーやレストランで反対しなかった人に「本当にあなたは賛成なのか」と聞くと、「ノー」という答えを聞くことが多い。さらに驚くべきことに、彼らの分析は私と同じだったりする。そこで、「(会議で)なぜ言わなかったのか」と聞くと、決まって「マイケル、それは難しい、ここは日本だ」とため息をつく。
 会議で本当になすべきことは、本来は調和でもコンセンサスでもない。チャレンジでありコンフロンテーション(confrontation、対決、対峙)であり、スクルーティニ(scrutiny、綿密な吟味、精査、監視)である。たとえば、「私はあなたに同意できない」「あなたのこの部分に関する意見は(根拠が)弱い」といった具合に、尊敬の念を持って直言することだ。
 
 視点を変えて別の角度からこの問題を考えてみよう。たとえば、仮に私があなたの下で働いていて、いつも怠惰で締め切りを守らないとする。そして、今日も締め切りを守らなかった。すると、あなたは日本のオフィスではきっと手短にこう伝えるだろう。「マイケル、今の仕事ぶりは十分じゃないぞ」と。たいていの場合、それ以上は何も起きないから、私はいつもどおりの姿勢で仕事を続けるだけになる。極論すれば、日本では、この一組のソーシャルコード(社会道義)しか存在しないような気がする。
 しかし、当社は多国籍企業だ。日本の国外で雇っている従業員の数のほうが多いし、ビジネスの7割は海外にある。だから、日本の外に出れば、上記のようなケースの場合、こう伝えることになる。「この仕事ぶりは十分じゃない。来週も同じようならば、君は出て行くしかない。もう我慢はしないぞ」。西洋人、中国人、韓国人、オーストラリア人……国籍の別に関係なく、多国籍企業のマネージャは彼らにチャンレジされ、彼らと対決しなければならないのだ。
 
――しかし、現実問題として、調和やコンセンサス重視で教育されてきた日本人にいきなりそうしたマインドセットを求めることは難しいのではないか。
 
 そうだろうか。興味深いことに、会議で私にチャレンジしてくる人は増えている。3〜4カ月も一緒に働いていると、私の姿勢を理解してくれるのだろう。「マイケル、あなたは間違っている」といった具合にどんどんダイレクトに挑んでくるようになった。
 事前決定も事前承認もない、結果を予測できない本物の会議を実際に複数持てるようになったのだ。これは本当に喜ばしいことだ。日本人幹部の多くも「マイケル、これは凄い」と言ってくれるようになっている。
 
 もちろん、無秩序を提唱しているわけではない。私が主張していることは、現場により近い人たちからの挑戦や監視を受けて討論をしないと、トップレベルでの意思決定の質は劣化してしまうということだ。
 欧米流のすべてがいいと言っているわけではないが、欧米では経営がダメだったら会社が乗っ取られるケースが多い。しかし、日本は現実問題としてそうではないから、現行経営陣のクオリティに依存する部分が大きい。それだけに、こうした本気の議論は非常に大事なのだ。
 
――ところで、あなたは、大胆なコスト削減などを通じて欧州事業を立て直し、オリンパスの稼ぎ頭に躍進させたことで知られるが、その際の経験はオリンパス全体の経営にどのように生かすことができると思うか。

 これは陳腐な決まり文句かもしれないが、ビジネスの要諦は確かにアメリカ人がよく言うように「人」なのだと思う。幹部層において正しい人を正しいポジションにつけることが何より大切なのだ。
 
 ちなみに、私が欧州で行ったことはまさにそのことであった。コスト削減ばかりに注目が集まったが、まず弱点を確定し、適材適所の人材配置を進め、事業の活力を高めると同時に、効率的で引き締まった組織構造に変えたのだ。西洋の経営者を単なる「コストカッター」と見なすのは、西洋に関する神話に過ぎない。そもそも製品パイプラインに対するアナリストの目が厳しいこともあって、欧米の一流企業は皆等しく巨額のR&D投資を行っている。オリンパスの場合も、欧州は日本以上に対売上高比率ではR&Dに投資してきた。
 
 話を戻せば、適材適所の人材配置はすでに実行に移している。外国人社長就任という好奇心を誘うニュースのせいであまり注目されなかったかもしれないが、4月1日付で多くの役員人事を発令した。日本の映像事業グループの新プレジデントには高山さん(高山修一・取締役専務執行役員)という非常に強力な人物を起用した。また米州(アメリカ、カナダ、ラテンアメリカ)の映像事業グループの新プレジデントにはスペイン人幹部を、同じく米州の医療事業グループの新プレジデントには英国人幹部を登用した。
 さらに、副社長を責任者とする「グループ・マネージメント・オフィス(グループ経営統括室)」を新設し、その責任者付けという立場で、ケンブリッジ大学卒の英国人幹部(ポール・ヒルマン氏)を日本に常駐させることにした。ローカライゼーションは、戦略としてもはや古い。日本は、組織の尻尾ではなく、頭なのだから、もっともっと吠えるべきなのだ。ちなみに、こうした人事や経営体制づくりは、菊川会長と議論しながら決めた。
 
――菊川会長とは、どのようにリーダーシップを分担するのか。
 
 キッチンに二人のシェフがいると災いの元というが、われわれの場合はその心配はない。私と菊川会長は長年の付き合いを通じて、お互いを知り尽くしているからだ。
 あえて役割分担をあげれば、菊川会長が日本企業ならではの外との付き合いの多くを引き受けてくれていることだろうか。その分、私は経営の実務に集中できている。
 いずれにせよ、実質的権限のないポジションだったら、社長職は決して引き受けなかった。私が操り人形になる気がないことは、菊川会長はよく分かってくれていると思う。その証拠に、干渉によって私の経営判断が希薄化されるようなことは起きていない。むしろ、「日本を含めて聖域はない」「いかなる非効率性にも聖域はない」とのサポートの言葉をもらっている。
 
――では、具体的にどうメスを入れるのか。
 
 喫緊の課題は、増加傾向にある販売管理費の削減だ。5年前(2006年3月期)には25.5%だった販管費(R&Dを除く)の売上高に対する比率は、2011年3月期には約33.6%に上昇した。せっかく内視鏡のような(ITの世界における)グーグルやマイクロソフトに匹敵するほどの強いビジネスを持っているのに、これでは、利益は思うように上がらない。評価、検証、改善を繰り返し、2015年3月期までに販管費の対売上高比率を20%改善させてみせる
 
 ちなみに、収益について話す時、どうしても気になることがある。それは、日本人は、利益という言葉を、ともすれば「汚れた」ものとして捉えてしまいがちなことだ。特に東日本大震災後はそう感じる。
 しかし、その考え方は間違いだ。もちろん、義援金というかたちで復興に貢献することは重要だし、われわれも実際にそうしている。だが、企業が復興に貢献する一番の方法は収益を伸ばし、その分、法人税を納めることだ。
 
 業績面で成功することがいかに大切であるか、私はオリンパスの社員にもっとよく理解してもらいたい。オリンパスが変われば、きっと日本の他の企業もわれわれの成果を前向きに分析してくれることだろう。長年日本との関わりを持ってきた人間として、日本人が必要な進化を受け入れ、この国がふたたび輝くことを心から願っている。