キモイ復興への提言

漏れも一読キモイと思った。
この文章書いた人は責任逃れ以前に頭おかしいと思う。
それを了承する与党もどうしょうもない。
あんまりにも気持ち悪い文章なので引用したくない。
下記を読んで気持ち悪くなってくれ。
『復興への提言〜 悲惨のなかの希望 〜』
http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/kousou12/teigen.pdf

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
ポエムな「提言」で復興できるの?
小田嶋隆
2011年7月1日(金)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110630/221207/?rt=nocnt

(略)
 なんというのか、全体に漂う文学趣味みたいなものが、ひとつひとつの提言の信憑性を毀損している印象を受けたのだ。卒業式の答辞を読む女子高生がそんなに厚化粧で良いのか、という感じに近い。
(略)
 ここで言う「人々」は、具体的に誰を指しているのだろうか。
 被災地に住んでいる住民、でなければ、東電や保安院の人間たちであろうか。あるいはもっと大きく構えて、わたくしども現代に生きる日本人すべてを意味しているのだろうか。
 どう解釈してもしっくりこない。
 せめてここのところの主語が「われわれ」であったなら、責任回避のニュアンスが残るということはあるにしても、まだ多少は飲み込みやすい文章ができあがったはずだ。
 われわれが、安全神話を信奉し、われわれが事故を起こし、われわれが事故の被害に直面し、われわれが、対処について思いあぐねているのだというふうに書けば、それはそれで、一応の筋は通る。一億総懺悔と似た、どうにも後ろ向きな斉一思想ではあるものの。
 しかしながら、「提言」は、「人々」という言葉を使っている。
 この主語は、書き手を含んでいない。ということはつまり、このテキストを書いた人間は、「自分は当事者ではない」旨を明言していることになる。
 だとしたら、「人々」という主語を使って原発事故を論評している以上、書き手は、主語の担い手を明確にしないといけないはずだ。でないと、文章の構造が保持できない。
 細かく見て行くと、ここでは、主語と述語が一致してさえいない。
(略)

(にゃんこのコメント)
ああ、これ、村上春樹のスピーチと同じだわ。都合よく主体がブレまくる。

 が、冗談ではない。
 これを不謹慎と言わずに何を不謹慎と言うのだ?
 被災者は不安のどん底にいる。実質的な被災者でなくても、放射能に対して不安をいだいている人間はたくさんいる。もちろん、根拠のある不安もあるし、根拠の無い不安もあるだろう。でも、とにかく、不安をいだいている人々は、この提言をすがるような気持ちで読んでいるはずなのだ。
 そこへ持ってきてこのポエムだ。
 たまったものではない。
(略)
 復興構想会議が持ち出してきた提言の内容をどうこう言う以前に、この時期に、こういうメンバーを集めて話をさせることで、何か意味のある構想が出てくるというふうに考えた人間のアタマの中身をまず検証せねばならない。
(略)
 つまり、要約すれば、「識者」というのは、「自分がはっきり分かっていない事象について」「さらに分かっていない無知な一般大衆を相手に」「わかった気にさせるコメントを提供することのできる」「本当は専門家でもなんでもありゃしないそこいらへんのおっさん」なのである。
(略)