無念、玉木賢策教授ご逝去
http://d.hatena.ne.jp/kimura-gaku/20110406/1302091704
 
震災対応が続き、新学期がはじまり、かつてないほど忙しさが重なる中、桜も日に日に満開へ、という中で突然、工学部の玉木賢策教授がニュー
ヨークでご逝去されたという悲報が舞い込んだ。
突然、頭を殴られたようなショックが走った。
 
玉木さんとは、私がまだ大学院の学生だった頃に、当時の地質調査所の白嶺丸の船上で出会い、瞬く間に意気投合し、以降、一緒に論文を書いた
り、遊んだり、本当に長い付き合いがつづいていた。
最近は、互いに忙しくなかなか会う機会もなく、時を過ごしていたが、こんな形で先立たれるとは無念でならない。
外務省の委託で国連での大陸棚問題の委員をされ、年にかなりの時間をニューヨークで過ごされていた。
ニューヨークでの会議中に倒れたということのようだ。
 
思い出は尽きない。
 
博士課程の一年の時に出会い、私より一歳しか上でないこともあり、一緒に学位をめざし研究しようということになり、私の博士論文やその後の
共同研究で楽しい時を過ごした。ちょうど地球科学の革命期であり、かけがいのない「同志」でもあった。
学位を取って私が北極のスッピツベル島の調査を終えた後、ちょうど玉木さんがニューヨークにいるというので会って一緒に論文を書こうという
ことになった。ラモントドハーティ地質研究所(今は地球科学研究所)に一週間泊まり込んで、必死に論文を読み込んで、書いた。
ちょうどその前に、日本とテキサスで開かれたシンポジウムで共同で発表し、大変高い評価をいただいて二人とも舞い上がっていた。日本海の形
成も、オホーツク海の形成も北海道から樺太に至る地殻変動も皆つながっており、それらはアジア大陸がヒマラヤ山脈の形成によって大変形して
いることの現れ、という内容。
ラモントのゲストハウスはライブラリーにつながり、ライブラリーには20世紀以降のほとんどの文献があり、24時間開放されている。そのよ
うな研究環境もすばらしいと思った。とにかく寝る時間以外はすべて研究に集中できる。
おかげで論文は出来上がった。その機会に二人して訪問した故都城秋穂先生が語られた「論文は出来たときチャームングでどうしようもないとい
うものでなければならない」という思いの論文であった。
ラモントは海洋科学の世界の中心の一つでプレートテクトニクス創設時に多くの研究者が世界へ発信したところだ。二人で、図書室にある大きな
ユーイング教授の肖像画の前で、同じスタイルのまねをして、未来への夢を膨らました。
 
玉木さんは、地質調査所の後に東大の海洋研究所へ移られ、助教、教授となり、その後出身でもある工学部教授となり、海洋資源などの研究を進
められ、最近ではやはり海洋の大陸棚の問題で、専門を生かした激務に当たられていた。
私は、四国で職を得て、大阪を経て、東京へ。玉木さんはその後、工学部へ。
目と鼻の先に互いに研究室を構えることとなった。
二人で、再会を喜び「運命とは分からないものだね〜」と談笑したことさえ、悲しく思い出してしまう。
物静かな語りの中にも強い芯をもたれた、大切な友人であった。残念でならない。
 
どのように帰国の途を取られ、葬儀などはどうされるのか、の事柄もまだである。
しかし、玉木氏は多くの友人・知人がおられるので、この場を借りて第一報をご報告させていただきたい。
 
合掌