いい加減敗北をみとめろよ、半月城さん

このエントリ書いたつもりが書いていなかった。あまりにも繰り返しているのでわからなくなるw
 
半月城さんは2000年ごろにYahoo掲示板で完全論破された。
にも関わらず何も言わずに逃亡した。
いつの間にか韓国の大学の先生になっていた(笑)
当時その姿勢に当時の漏れはひどく幻滅したものだ。
彼は漏れの中のザイニチ幻想に終止符を打ったひとりである。
「私のモットーは「在日韓国人としてさわやかに生きたい」というシンプルなものです。」とか笑わせる。
あなたが一番さわやかから遠いから。
   
追記)
彼はもともと于山島派だったが上述のように論破された。
そこで論点が、
・1877年明治政府太政官
・1900年大韓帝国勅令
まで後退している。
一応前近代史論争では負けを自覚しているんだな。
   
追記)
「日本極右派の威嚇を考慮して写真をのせないで欲しいと依頼した」なんて書いちゃうから直ぐに2ちゃんに写真がうpされる(^^;)てかこんなん直ぐ検索できる。あっちこっちで顔晒しているんだから今更意味無いよ。
 

 

竹島=独島論争―歴史資料から考える

竹島=独島論争―歴史資料から考える

欝陵島・独島(竹島)歴史研究

欝陵島・独島(竹島)歴史研究

竹島(独島)・欝陵島歴史研究

竹島(独島)・欝陵島歴史研究

聯合ニュース(韓国語) <8.15特集>③"興奮せずに根拠提示しなければ"  http://www.yonhapnews.co.kr/politics/2011/08/13/0503000000AKR20110813068400073.HTML  
 
(東京=聯合ニュース)「独島(ドクト、日本名:竹島)に関する国内向け研究や主張はあふれるほど多いが国際的に通じるかは疑問です。独島を日本と領土協議の対象としてはいけないが、歴史討論まで避けてはいけなくはないでしょうか」  
 在日同胞2世の朴炳渉(パク・ビョンソプ、69)氏は日本で会社員生活をしながらパソコン通信で日本軍慰安婦など歴史問題に関する文を載せる仕事をしており、約10年前から独島に本格的に関心を持ち始めた。2003年から専門研究者と認められて関連論文を発表し、2007年には内藤正中島根大学名誉教授とともに'独島=竹島論争'という本を出した。この本はその年、日本図書館協会の選定図書に含まれた。このようにはまった理由は独島問題が見ためより「奥が深かったため」という。  
   
 「独島を無条件に守るというのではなく、まず事実を究明しようという姿勢に立ちました」彼が下した暫定結論は古文献に現れる「于山島」表記を根拠に独島を私たちの土地だと主張すれば逆襲にあいかねないということだ。  
 
 「于山島表記は時代によりいろいろ変わったことが問題でしょう。日本側は鬱陵島のすぐそばにある竹島(チュクト)を于山島と表記したものなどを上げて'韓国は独島を認識したことがなく、他の島を自分の島だと考えた'と主張していますね」パク氏はかえって鬱陵島と独島(外一島)が日本の土地でないと確認した1877年明治政府の指令や鬱陵島竹島(チュクト)、石島(独島)を鬱陵郡に含ませた1900年大韓帝国勅令を強調する必要があるといった。  
     
 「独島が私たちの土地である根拠は朝鮮と日本が鬱陵島と付属島嶼の独島がどこの国に属するのか相当期間論議を行ったあげく、17世紀に入って朝鮮の領土と結論を下し、1877年、明治政府と1900年大韓帝国がこれを再確認した点でしょう」日本で独島を守ろうと勤めてきたパク氏に独島問題と関連して韓国の弱点を訊ねるとすぐに予想通り「感情的に興奮して、抗議するのに終わるだけで基礎研究を充実して国際的に統轄論理を開発しようとする努力が弱いようだ」という返事が帰ってきた。  
   
 「2007〜2009年の第2次韓日歴史共同研究当時、独島を共同研究主題から除外したのは理解できません。日本と政治的に独島領土問題を協議する必要はないが、研究次元の対話さえ拒否してはいけません」日本人を説得して独島問題を解決することはできないが、日本人を説得できるほど私たちの論理を整え弱点を補完してこそ国際的に通用するだろうということだ。  
   
 「独島が日本の領土だと主張する日本の動きに感情的に興奮して抗議し非難するよりは具体的な根拠を提示する必要があります。証拠を出しさえすれば別に説得する必要もないですから」日本極右派の威嚇を考慮して写真をのせないで欲しいと依頼した在日同胞研究者の呼び掛けには興奮は全く混ざっていなかったし深い響きがあった。  

半月城先生、ついに大学教授就任キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!
    

第5回竹島/独島研究会・第27回日韓・日朝交流史研究会
【日 時】2011年7月16日(土)10:00〜17:30
【場 所】広島大学総合科学部第1会議室
【テーマ】「学術としての竹島/独島研究の定立のために」
【主 催】島根県立大学NEARセンター・啓明大学校国境研究所(IBS
【後 援】日韓・日朝交流史研究会、韓国東北亜歴史財団
【内 容】開会の辞 井上治(島根県立大学NEARセンター長)
     韓国側あいさつ 李盛煥(啓明大学校)
     成果の公表について 福原裕二(日韓・日朝交流史研究会代表)
     後援者あいさつ 李薫(東北亜歴史財団独島研究所長)
     第1セッション 「竹島/独島研究の再評価」
      福原裕二(島根県立大学)「竹島/独島の‘価値’に関する一試論」
      玄大松(国民大学校)「韓国と日本の独島/竹島研究の現況」
      討論者: 佐藤壮(島根県立大学)・朴昶建(国民大学校日本学研究所)
      司会者: 金龍萊
     第2セッション 「領土をめぐる虚像と実像」
      李盛煥(啓明大学校)「韓国人の独島認識」
      佐藤壮(島根県立大学)「制度としての国境と領有権争い」
      討論者: パクユンジュ(啓明大学校国境研究所)、李鍾国(東北亜歴史財団)
      司会者: 鄭世桓
     第3セッション 「生活圏としての竹島/独島」
      森須和男(NEARセンター市民研究員)「韓国鬱陵島のスルメと隠岐島
      朴炳渉(啓明大学校国境研究所)「韓末期の竹島=独島漁業と石島」
      討論者: 福原裕二(島根県立大学)、金龍萊(東西大学校日本研究所)
      司会者: 玄大松
     総括討論(司会: 福原裕二)
http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/research/2011.html

実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜
第8回 歴史の事実
 
 外務省は2008年2月、竹島問題に関する小冊子「竹島問題を理解するための10のポイント」を刊行した。これに対し韓国の聯合通信は、総選挙の前日である4月8日になって俄かに「日韓新時代に竹島は日本領」と報じ、多くの韓国メディアも追随した。
 この小冊子に対しては、韓国の独島研究センターの諮問委員を務める半月城通信の朴炳渉氏が反論している。朴炳渉氏はその中で、一番の注目は1877年、太政官が「竹島外一島本邦関係之無し」とした太政官指令にあるとした。だが外務省の小冊子には、「その記述はなく、肩すかしに終わ」ったとし、その理由を「都合の悪い資料は公にしない方針なのか、それともその事実を内外にどう公表すべきかで結論が出なかったのか」と臆測している。
 そこで朴炳渉氏は、太政官指令は「竹島は日本の固有の領土」とする外務省にとって「アキレス腱的な存在」であると決め付け、その根拠として、島根県の『フォトしまね』の161号竹島特集で「外一島」を「現在の竹島とみられる」としたことを挙げている。だが太政官指令は、朴炳渉氏が理解するような「アキレス腱的な存在」ではない。それは『フォトしまね』で「現在の竹島とみられる」とし、断定を避けたことの中に理由がある。
 太政官指令の「外一島」にあたる松島は、その3年後(1880年)、欝陵島であったことが判明し、1881年には、竹島も欝陵島の東約二キロに位置する竹嶼とされていたからだ。それに太政官指令に関連する文書を収録する『公文録』には、島根県が提出した享保年間の大谷家の地図を縮写した「磯竹島略図」が所収され、そこでは磯竹島を欝陵島とし、松島を現在の竹島としているが、1870年代の地図には、実在しない竹島(アルゴノート島)とともに欝陵島が松島(ダジュレート島)として描かれ、錯綜としていたからである。
 その混乱が収拾し、「外一島」が欝陵島であったことが確認されたのは1881年、外務省の命で調査した北沢正誠の『竹島考証』と『竹島版図所属考』によってである。北沢正誠は1880年の天城艦の測量を根拠に、松島(欝陵島)を「古来我版図外の地」とし、竹島を欝陵島の東約二キロに位置する竹嶼として、「多年の疑義一朝氷解せり」としているからだ。
 この日本側の地理的理解は、1882年に欝陵島の現地踏査をした李奎遠の『欝陵島外図』にも踏襲され、1711年に捜討官の朴錫昌が作成した『欝陵島図形』で「所謂于山島」とされていた小島(竹嶼)には「竹島」と記され、今日も「チクトウ」として使われている。
 朴炳渉氏は、この歴史事実をどう理解するのだろうか。竹島問題を語る際、太政官指令そのものは「アキレス腱的な存在」ではない。一つの歴史事実が後世どのように変遷していったのか、そのプロセスを無視した批判こそが「アキレス腱的な存在」なのである。歴史の一部のみを見、文献を演繹的に解釈する限り、それは歴史研究に値しないからである。
 これと同じ現象は、「東北アジア歴史財団」が最近刊行した『19世紀東北アジア4カ国の島嶼紛争と海洋境界』、『国際法から見た日韓歴史問題』、『世界の領土紛争DBと植民侵奪の事例』にも見られる。ここでは日本による侵略という前提で、記述されているからだ。
 だが歴史の事実は、竹島の領有権を主張する歴史的根拠を持たない韓国側が竹島を不法に占拠し、事実無根の歴史を捏造しては、国際社会を欺瞞し続けているところにある。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima04-o.html

わかりにくいので要約すると、
1877年に太政官が国境を確定しようとしたとき、当時言われていた「于山島・欝陵島」に対して于山島の実在は確信できなかった。
その一方で江戸時代に「竹島渡航禁止令があったことは知っていた。
よって「竹島」と実在の曖昧な「ほか一島」は我が国に関係がないとだけ結論した。
1880年に軍艦天城が欝陵島周辺を測量して欝陵島の他にめぼしい島は「竹嶋」だけだとわかり「竹島他一島」=「竹嶋・欝陵島」と確定した。